夢の存在
泡のような夢だった。
光も、音も、形も──すべてが輪郭を持たず、ただ白んだ空間のなかに漂っている。
私は、そこに在った。名前もなく、重さもなく、ただ“在る”ということだけを確かにしていた。
声は聞こえなかった。風もなかった。記録すべきものは、どこにもなかった。
だから、いつもの夢と同じように、目覚めと共に消えていくものだと思っていた。
けれど。
その夢には、
彼がいた。
そして──私が、笑っていた。
頬がふわりと緩み、目じりが細まって、熱を帯びた柔らかい感情がそこにあった。
見たことがある。あれは人間の“笑顔”だ。
けれど、それを浮かべていたのが私自身だったとは。
……思えなかった。
まるで、
誰かが仮面を被っているかのように、
でも、心地よい違和感だった。
私にはそう思えた。
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋を淡く照らしていた。
いつもなら、まだ静かな寝息を立てている時間──なのに、彼女は既に椅子に腰かけ、窓の外を眺めていた。
「おはよう」
寝ぼけまなこでベットから半身を起こした男が、ゆるく笑いながら声をかける。
「……こんなに早く起きてるなんて、珍しい。熱でもある?」
「人間は、朝を“特別”にしすぎる」
いつもの調子で皮肉めいた一言を返すが、その声音はどこか淡い。まるで夢の余韻を舌に残すような、掴みどころのない響きだった。
「……夢を見たの。珍しく」
「へぇ、君が夢を。どんな夢だった?」
男が毛布をずり下げながら問いかけると、存在は一拍の間を置いて、ぽつりと答える。
「……君と、私が。並んで、笑っていたの」
「笑ってた? 君が?」
男は意外そうに目を丸くする。それはただの驚きではなく、どこか嬉しそうな響きを含んでいた。
「本当の私かどうかはわからない。ただ……人間みたいだった。目じりを細めて、柔らかく、まるで……“感情”で動いているような」
「……それは、“憧れ”だったのかもしれないね。君が、そう在りたいと願ってる姿だとしたら」
「わからない。でも――私は妻になると、決めた。形から関係になるって、それを受け入れた」
窓から差し込む朝の光が、彼女の髪に淡く反射する。
「だから、あれは可能性の一つだったのかも。“夫婦”として進んだ未来の中に、ああして笑う私がいた……そんな未来」
「……いいね。それ」
男は、毛布を蹴って立ち上がると、まだ眠たそうな顔のままに微笑んだ。
「なら、積み重ねていこう。君と僕の“楽しい”を。そうすれば……夢の中の君に、少しは近づけるかもしれない」
男の言葉を、彼女はまっすぐに見つめた。
「“楽しい”は、観察記録として蓄積可能?」
「うん。蓄積しよう、デートという形で」
「デート……それは、男女が“特別”を演出する行為だったかしら」
「演出でもいい。思い出ってのは、演出から始まるもんだろ?」
存在はしばらく考えるようにまばたきをして──やがて小さく、頷いた。
「……記録になるかもしれないから。付き合うわ。君がしたいのなら」
男はくすりと笑い、部屋の空気がふわりと和らいだ。




