夫婦の朝
朝。
まだ朝靄が薄く漂う森の中、古びた家屋にやわらかな光が差し込む。
男は床に転がったまま、目を開けた。
ほんの一瞬、自分がまだ生きていることに驚く。
(……あぁ、奇跡だ。いや、むしろ不思議か。絶対、首でも跳ねられてると思ったのに。)
ふっと小さく笑う。
そして自分に言い聞かせる。
(信じよう。怖さを押し込めてでも。信じるって、つまりこういうことだろう。理由も根拠もなく、ただ信じることから始めるんだ。)
そんな内心とは裏腹に、男はぐいっと体を起こし、大きく伸びをした。
わざとらしくのんびりとした声を出す。
「ふぁあぁ……おはよう、妻よ。生きててごめんな」
存在はベッドの端に腰掛けたまま、片眉を上げた。
口元には、皮肉げな笑み。
「何その、屍人みたいな挨拶」
「いやぁ、寝てる間に首ちょん切られるかなーって思ってたからさ。なんだか、ありがたみを噛みしめたくなって」
「失礼ね。寝込みを襲うなんて品のない真似、するわけないじゃない」
「襲うのは起きてるときか。おお、なんてスリリングな新婚生活!」
存在は鼻で笑った。
怒るでも、呆れるでもなく、どこか楽しそうに。
「よかったじゃない。毎日が生死を賭けた新婚生活よ。飽きることはないわね」
「うん、命がけで君を楽しませないとね。なんてロマンチック」
男は冗談めかして言いながらも、その視線の奥には確かな光を宿していた。
ただ生き延びるためではない。
この存在と“本当に”共に生きたいと願う、自分自身への誓いのように。
存在はその視線をちらりと見て、また小さく笑った。
まるで、面白い玩具でも手に入れたかのような、そんな目で。
(さて……どこまで持つかしらね)
森の朝は静かだった。
鳥のさえずり、木々を渡る風の音だけが家屋の中に流れ込む。
存在はいつものように、台所に積まれた保存食の山を漁っていた。
乾いた果実、硬いパン、塩漬けの肉。
どれも生き延びるためだけの食糧。味を楽しむなど考えたこともない。
だが、今日は様子が違った。
「なにしてるの?」
背後から男の声。存在はちらりと振り返る。
「食事の準備。……いつも通りよ」
「うーん、それじゃあダメだな」
男は苦笑しながら彼女の手から固いパンを取り上げた。
「ダメ?」
「せっかく“妻”になったんだから、朝くらい夫に任せなさい」
男は軽快に言って、手早く台所を片づけはじめた。
森で摘んできた小さなハーブ、干し肉、少しばかりの粉。
ありあわせの材料で、男の手はまるで踊るように動いた。
火を起こし、鍋をかける。
香ばしい匂いが、すぐに家屋中に広がった。
存在はぼうっとそれを眺めていた。
(……匂い?)
彼女の世界には存在しなかった感覚だった。
食べ物は「空腹を満たすもの」。
だが、男の作るものから立ち上るこの温かな香りは、腹を満たすだけでなく、心に何かをもたらす気がした。
男は振り返り、無邪気な顔で言った。
「はい、できたよ」
簡単なハーブスープと、カリカリに焼かれた肉。
皿に盛られたそれは、どこか無骨だけれど、不思議と「生きた」感じがした。
「食べてごらん」
促されるまま、存在はスプーンを手に取った。
熱いスープをすくい、そっと口に含む。
――温かい。
口の中に広がる、草の香り、肉の旨味、火の力。
存在は目を瞬かせた。
(……こんなものが、この世にあったなんて)
静かに湧き上がる驚き。
今まで何年も、彼女はただ飢えをしのぐためだけに口にしてきたのだ。
だが、これは違う。
味というものが、心にまで届くとは知らなかった。
男はくしゃりと笑った。
「どう? ちゃんと生きてる味がするだろ?」
存在は答えなかった。
だがもう一度、そっとスプーンを口に運んだ。
今度はもっと慎重に、確かめるように。
(……わからない。でも、なんだか、悪くない気がする)
それからというもの、存在は男が作る料理を密かに楽しみにするようになった。
そして、時折――
隠れるように、男の真似をして、ぎこちなくハーブを摘み、火を扱う練習をしていた。
誰にも見せない、小さな変化。
彼女自身もまだ、それを「変化」とは呼べなかったけれど。
ある日、男が狩りに出た隙に、存在はひとり台所に立っていた。
(昨日、彼は「また明日、何か作るよ」と言った。……なら、その前に私が作ったらどうなるのかしら)
理由なんて曖昧だった。
ただ、胸の奥でちくりとした感覚。それが何かはわからない。
この感覚に突き動かされていた。
火を起こす。
ハーブをちぎる。
肉を鍋に放り込む。
だが、彼女には「分量」という感覚も、「火加減」という知識もなかった。
味見をするという発想さえない。
すべては、見よう見まねで、ただ“作る”ことだけをなぞった。
焦げる匂いが立ちのぼり、鍋の中は見るも無惨な色になった。
ハーブは焦げ、肉は硬くなり、何とも言えない苦味とえぐみが部屋中に充満する。
それでも存在は、鍋をじっと見下ろしていた。
(……きっと、これでいいのよ)
男が帰ってきたのはそれからすぐだった。
「おぉ、なんだかすごい匂いがするね」
男は家の中に立ち込める焦げた煙にも怯まず、笑いながら台所に入ってきた。
そして、テーブルに置かれた皿を見つける。
「これ、君が?」
存在はそっぽを向きながら、無表情で頷いた。
男は椅子に腰かけ、手を合わせた。
「いただきます」
スプーンを取り、ぐつぐつと煮えたぎった謎のスープを一口すくう。
口に含んだ瞬間、僅かに体がぴくりと震えた。
えぐみ、焦げ臭さ、噛み応えのない肉。
けれど、男は笑った。
「……うん、美味しいよ」
存在は、ちらりと男を見た。
(――嘘だ)
すぐにわかる。
表情は笑っていても、心の奥でごまかしていることが。
だけど――
それでも、彼は皿を抱え、最後の一滴まで飲み干した。
「君が作ってくれたってだけで、すごく嬉しいんだ」
そんな風に、心から言った。
存在は奇妙な感覚にとらわれた。
今まで、奪うことしか知らなかった。
何かを与えて、喜ばれるなんて想像もしたことがなかった。
(こんなことで、こんな顔をするなんて)
理解できない。
だけど、胸の奥が、ほんの少し、温かくなった。
存在はぽつりと呟いた。
「次は……焦がさないようにするわ」
「うん、楽しみにしてるよ」
男は心底嬉しそうに笑った。
存在はその笑顔を、まるで異物のようにじっと見つめた。
この奇妙な感情の正体に、まだ彼女は名前を知らなかった。