ウツシハナ
夜は深まり、家の灯りもまばらに落ち着いていた。男が湯を沸かしに行ったすきに、妹はそっと存在の手を引いた。
「こっち、来て。……お兄ちゃんには内緒ね」
案内されたのは、妹の小さな部屋だった。窓際には花の形をしたランプが灯り、棚の上には小さな裁縫箱とリボンが整然と並んでいる。壁には過去に作ったであろう手作りのドレスのスケッチが何枚も貼られていた。
存在は不思議そうに辺りを見渡す。
「ここ……あなたの部屋?」
「うん。わたし、衣装づくりがずっと夢でね。今日はその……ひとつ作ってみようと思って」
妹は少し照れたように笑いながら、存在の目の前に柔らかな布地や糸を広げた。ピンクや白、淡い青といった優しい色合いが揃っている。
「少しだけ、採寸させてもらってもいい?」
存在は一瞬戸惑ったように眉を寄せたが、やがて静かに頷いた。
「……いいけど、私、自分のサイズもよく分からないの。あなたが決めて。あなた好みでいいわ。形だけなんだから」
その言葉に、妹はぴたりと手を止めた。
「形だけ、なんて……そんなふうに言わないで」
存在が不思議そうに目を瞬かせる。
「どうして?」
「衣装ってね、すごく大事なんだよ。着る人の気持ちを引き出すし、見る人の心にも届く。……結婚式の衣装なら、なおさら。お兄ちゃんに“可愛い”とか“綺麗だな”って思わせなきゃ。そうじゃなきゃ、一生手放したくないなんて思わせられない」
存在は黙っていた。そのまま妹が採寸を続けると、驚くほど細い腰回りに思わず声が漏れた。
「細っ……!ほんとにこれで合ってる?」
「ええ、多分……」
「でも、こうしてると分かる。……不器用なんだね」
存在は少し首をかしげた。
「不器用?」
「うん。気持ちの伝え方とか、心の受け取り方とか、たぶん……すっごく苦手。でも、ちゃんと見れば、優しさも、強さも、寂しさもあるってわかる」
存在はなぜかその言葉に、深くは返さなかった。ただ、静かに目を伏せた。
「だからお兄ちゃんは、ほっとけないのかな。あなたを見てるとき凄く不安そうだった。けど、それ以上に眼差しが優しかった。あぁ……大切なんだって」
「ムダに言葉を重ねてきて五月蠅いわよ?」
「はは、うん……面倒くさいときもあるよね。弟とわたしのこと、世話してくれてる時と同じ。大切だって想ってくれてたって今はわかるよ。だから、お兄ちゃんも幸せにしてあげたいの」
「……」
そのとき、妹の視線が存在の左手に止まった。
「その指輪……」
存在は視線を落とし、自分の指先を見つめる。
「これは……“ウツシハナ”よ」
「ウツシハナ……知ってる。昔、植物図鑑で見た。咲くのは一瞬だけ、その時の空気と感情に呼応して開く、幻の花……」
「ええ。すぐに散るからその場に居合わせ者しか観測できない花」
「……その一瞬だけの想いを、咲かせる花か」
妹はぽつりと呟くと、ぱっと顔を上げた。
「よし、決めた! 衣装、ウツシハナをテーマにする!」
存在が目を見開く。
「花に合う色合いと、儚い雰囲気。そして、そのとき限りの……その瞬間のためだけの衣装にするの。永遠じゃなくていい。その日、その時、その場に居合わせた人の心にだけ咲く衣装。……うん、それがいい」
妹の瞳は輝いていた。存在もまた、どこか心を揺らされたように、その姿をじっと見つめる。
「……そんな服、想像できないわね」
「じゃあ、初めてをわたしが作るんだ。うれしいな」
窓の外では、遠く教会の鐘が小さく響いていた。
夜の静けさの中、部屋には針の音と、ふたりのささやかな笑い声がいつまでも響いていた。
妹の部屋には、月の柔らかな光が差し込んでいた。窓辺に吊るされたレースのカーテンがふわりと揺れ、光の粒を部屋中にまき散らしている。その中心で、妹は大きく伸びをした。
「よし、じゃあ、仮の一着を着てみよっか。仮縫いだけど、サイズの確認もしたいし」
机の上には、妹が用意した淡いラベンダー色の布地でできた軽やかなワンピースが置かれている。存在はその服を見つめてから、小さく首をかしげた。
「着替えれば、いいのよね?」
「う、うん、そうだけど……」
存在はすっと立ち上がると、ためらいもなく服の裾に手をかけた。
「ちょ、ちょっと! せめてあっち向いて脱いでくれる!?」
「……?」
きょとんとした表情で存在は首をかしげたが、妹の慌てた様子に従って背を向ける。それでも、脱ぎ始める動作は迷いのないものだった。
「本当に恥じらいってものがないのね……!」
妹が赤い顔でそうこぼしていると、不意に部屋のドアがノックもなく開いた。
「――あ、ここにいたのか! 部屋にいないからちょっと……」
男だった。
そして、言葉はその場で凍りついた。
視線の先には、シャツを肩まで脱ぎかけた存在の背中と、凍りついた妹の顔。状況の意味を理解した瞬間、男は目を見開いたまま固まった。
「な、な、なんでノックもしないで入ってくるのよぉおおおっ!!」
「ご、ごめんっ!? 違うんだ、部屋にいないから、てっきり……」
「そりゃ部屋にいなきゃ、誰かのところに行ってるって考えるでしょ!?」
「そ、そんなに怒ること……!?」
「怒るに決まってるでしょ! 馬鹿兄貴!!」
部屋中に妹の怒声が響く。その間も、存在は淡々と服を整え、再び椅子に座っていた。怒声が静まると、彼女がぽつりと言う。
「今夜も床で寝なさい」
「えっ?」
「自業自得、というやつよ。私たちの部屋に勝手に入ってきた罰として、しばらくは床ね」
「そ……そんなぁ……」
男は情けなく項垂れた。妹がその様子に小さく噴き出す。
「ほんと、お兄ちゃんってわかりやすいよね」
存在もまた、口元を少しだけ緩め、目を細めた。
「……まったく。子どもみたいに」
二人は目を合わせると、くすりと笑い合った。
男は苦笑いを浮かべながら、そっとドアを閉めた。小さな家のなかに、平和な空気が戻っていく。
部屋の中では、試作品の衣装が風に揺れていた。まだ完成ではないけれど、それでも、確かにその場にしか咲かない想いが、少しずつ布に宿っていくようだった。




