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不老不死にはわからない  作者: ある
第一章 記録には残らないもの

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 結婚式の朝、空は澄み渡り、風は穏やかだった。

 男は誰よりも早く、ひとりで花畑に足を運んでいた。


 昨日までよりも少しだけ肌寒い風が、露を含んだ草の香りを運んでくる。

 野に咲く花々は、陽の光を浴びてしだいに色づきを増していた。

 白、淡い紫、うす桃色――季節の名もなき花たちが、静かに、しかし確かに咲き誇っている。


 男はその中に腰を下ろし、花を一輪ずつ摘みはじめた。

 指先に伝わる茎のかすかな弾力、花弁のひらひらとした手触り。

 ひとつひとつ、丁寧に選びながら、小さな冠の輪郭を編んでいく。


 それは、不器用ながらも真剣な手つきだった。


 ふと思いが巡る。

 最初に彼女に花冠を渡した日。

 無言で差し出し、頭にのせ、彼女はただ受け取っただけだった。

 けれど、あの時の一瞬――彼女の目に浮かんだ、わずかな揺れを、今でも覚えている。


「意味なんて、そのときは考えてなかったんだよな……」


 小さく独り言を漏らし、微笑む。


 それでも今なら、わかる気がする。

 あれは、「此処にたしかに君は居る」と伝えたかったのかもしれない。

 そして今は、「これからも一緒にいたい」と、もう少し強く、はっきりと、伝えたい。


 男は手を止め、編みかけの花冠をそっと見つめた。

 朝の光を透かして、花々がやわらかく輝いている。


 そのときだった。

 遠く、風にそよぐ草の向こうに、ふたりの影が見えた。


 白い布地が、朝日を受けてふわりと舞い上がる。

 妹が先に立ち、少し後ろに、存在がいた。

 ゆっくりと歩いてくるその姿が、陽に照らされながら、少しずつ近づいてくる。


 男は手にした花冠を見つめたまま、しばし動けずにいた。

 胸の奥が、静かに高鳴っていた。


 やがて、彼はゆっくりと立ち上がり、胸元で花冠を軽く抱きかかえる。

 その眼差しは、まっすぐに、彼女の姿を捉えていた。




 ふたりの姿が、草を踏み分けて花畑に入ってくる。

 朝の陽が、存在の身にまとう衣装を柔らかく照らしていた。


 それは、どこか異国の婚礼服のようでもあり、風に揺れる白と金の布地が、野に咲く花よりも神々しく映った。

 彼女は髪を上げ、耳もとには小さな光の粒が揺れている。

 普段の彼女ではない――けれど、どこまでも彼女らしい。そんな姿だった。


 男は思わず息を呑み、しばらく何も言えなかった。


 存在は彼の前まで歩み寄り、静かに立ち止まる。

 妹はその隣に立ったまま、何も言わない。

 風の音だけが、三人の間をすり抜けていく。


「……」


 しばしの沈黙。

 存在は、ふと視線を外し、わずかにうつむきながら、そっと問うた。


「……どう。変じゃ、ない……?」


 その声は小さく、わずかに震えていた。


「あぁ、とてもキレ――」


 ――彼女をちゃんと見て、あの子はちゃんと自分をもってる。


 ふと、母の言葉を思い出し、唇が止まる。

 男は、はっとして存在の顔を見つめた。


 瞳がわずかに揺れている。

 肩も、微かに上下している。

 足元はしっかり立っているはずなのに、どこか落ち着かない気配が、全身からにじみ出ていた。


 ――何かを、期待している。


「……あの時のこと覚えてる? 花畑のとき、僕の言葉……」


「私を可愛いって、綺麗だって証明したい?」


「違う、いやそうだけどさ。もっと大事なこと……」


 ただ見惚れているだけでは、きっと伝わらない。

 そのことに気づいた男は、胸に抱えていた花冠をそっと持ち上げると、彼女の頭上へとかぶせた。


 花々が、彼女の髪にそっと馴染む。

 朝露を残した花弁が、陽光を受けて微かに煌めいた。


 男は静かに、しかしはっきりと声を出した。


「僕はきっと、"君を好き"になる」


 存在は一瞬目を見開いたあと、ぽつんと息をこぼした。

 その目が潤んでいるように見えたのは、光のせいか、それとも。


「――今、はっきりと確信したよ」


 男は花冠をそっと撫で、視線を彼女へ戻す。


「たぶん僕は、ずっと証明が欲しかったんだ」


 男はそっと一息つくと、彼女の瞳を見つめる。


「記憶でも、幻でもない。今日、この朝の光の中に――君が、ちゃんと"いる"って」


 そして、もう一歩踏み出しながら続けた。


「僕の妻は、確かに此処に居たんだ」


「……!?」


 存在はこれまでにない色のある表情をみせた。


 男の言葉が落ちたとき、自分の中に微かな震えが走った。


 「僕の妻は、確かに此処に居たんだ」


 それはただの告白ではなかった。

 名もない存在だった自分に、ひとつの立場を与える、静かな宣言だった。


 "妻"という言葉が、自分の内に輪郭を刻む。

 どこにも属していなかったはずの自分が、いま確かに、誰かの隣に"居る"。

 それは、これまで感じたことのない感覚だった。


 世界をただ眺めていた時――そこには、"したい"があった。

 見たい、触れたい、知りたい――けれどそれは、遠くから手を伸ばすようなもの。

 どこか他人事のような、ぼんやりとした願い。


 でも今は、違う。

 彼の言葉が、自分の“したい”を内側から壊していった。

 壊して、再構築した。


 ――私はこの人を知りたい。

 目の前にいるこの人を、妻として、もっと深く知りたい。


 この世界をただの風景としてではなく、"彼の世界"として見てみたい。

 彼の目に映る世界を、彼の隣で、同じ歩幅で確かめていきたい。


 そんな想いが、胸の奥に熱を灯した。

 感情というものが、こうして表情に現れるのだと、初めて知った気がした。

 彼女は戸惑うように視線を逸らす。その頬には、はっきりと色が宿っていた。

 けれどその頬は、どこかに初々しい色を宿していた。


 沈黙の中、妹が一歩前に出る。

 口元に笑みを浮かべながら、小さく手を合わせた。


「……じゃあ、誓いの言葉を私がさせてもらうね!」


「……ええ、お願い」


 その声に、風が止まったような気がした。

 花の香りがふわりと三人を包み、草木のざわめきが祝福のように響いていた。

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