ひとり町へ
朝の光が、木々の葉を通して淡く差し込んでいた。
家の中には穏やかな空気が流れていたが、食卓を片づけたあとの台所で、母は買い物かごを手にして存在に向き直った。
「お願いしてもいいかしら。野菜と、それから果物を少し。ついでで構わないのよ」
「はい、承知しました」
存在はすっと頷き、身支度を整える。その仕草は丁寧で静か。感情を交えず、ただ作業として服を羽織り、鞄を手にする。
そこへ男が姿を現した。
「じゃあ、僕も行くよ。二人で歩くのも悪くないし」
さりげない口ぶりに、存在はわずかに瞬きをしたあと、首を振った。
「今日は……ひとりで行くわ」
「え?」
男の言葉に、母が微笑む。
「いいじゃない。一人で歩きたい日もあるわ。束縛するのは男の悪い癖よ」
「……いや、そういうことじゃなくて」
男の顔がかすかに曇る。視線を外し、少しだけ考えるような間があった。
彼は知っているのだ。
目の前の彼女が、今まで自ら人を襲ったことはないとはいえ、殺戮に対して躊躇を持たない存在であることを。
彼女自身が、力を誇示するように語ったことなど一度もなかったが、それでもわかる。
もし何かが起きたとき、彼女は迷わず“排除する”のだろうという確信が、ある。
「……本当に、大丈夫?」
問うたその声に、存在は彼を見つめた。しばし視線を交差させたまま、静かに言葉を返す。
「約束は守るわ。私のほうがずっと強いから。争いを起こすのは、面倒よ……安心しなさい」
それは、淡々とした断言だった。
けれどそこには、かつてふたりのあいだで交わした誓いの重さが確かにあった。
――“一緒にいるあいだは、人を襲わない”
それが、彼女が初めて結んだ“約束事”だった。
「……わかった。無理は、しないで」
男が小さく息を吐き、諦めにも似た声で言うと、存在は微かにうなずき、家を出た。
扉を閉じたあと、石畳を踏みしめながら歩く。
空気はどこか甘く、初夏の陽がまぶしい。町は少し賑やかで、休日のような人通り。
通りに並ぶ店の前を通り過ぎるたび、存在は静かに足を止める。
果物屋の山積みの林檎、帽子屋のウィンドウに飾られたリボン、洋服屋の白いドレス。
それらを、まるで風景の一部を確認するように見つめ、時折立ち止まり、記録するように目を細める。
そこに感情の起伏はない。
だが、それは“無関心”ではない。むしろ、すべてを“見逃すまい”とするような観察のまなざしだった。
「ホント、人間は色んなものを作り出すのね」
石畳の道を歩き、人気の多い商店通りに差しかかったころだった。
白いスーツ姿の男性が、向こうから歩いてくる存在を見つけて、足を止めた。
「……おや?」
男性はひとつ咳ばらいをして、すれ違いざま、わざとらしい声で話しかけた。
「お嬢さん、今日は何かいいことでも? すごく……眩しく見えたから」
その言葉に、存在は一度だけ足を止めた。
ゆっくりと顔を向ける。男の笑みは営業的で、その目には観察よりも値踏みが混じっていた。
「ひとりかい? ちょうど僕も、ひとりで退屈してたところでね。美味しい紅茶が飲める店、案内しようか?」
男性は口角を上げ、身を乗り出す。
存在の視線は、まっすぐに彼の目を見ていた。だが、何も言わない。まるで彼の言葉が、何ら意味を持たない音でしかないかのように。
そして――ただひとことだけ、低く、丁寧に言った。
「ご機嫌よう」
軽く会釈をし、ふたたび歩き出す。
拒絶とも、興味のなさとも言い切れないその所作に、男は肩をすくめて舌打ちを飲み込んだ。
「……なんだよ、つれないな」
背中越しに、男のつぶやきが届いた。
存在はその言葉に振り向かず、ただ一歩、一歩、歩を進める。
右手はかすかに鞄の縁を握っていたが、その力はすぐに緩められた。
(――排除の必要は、ない)
自らの中で、静かにそう判断した。
約束を守ること。無意味な衝突を避けること。それは、自分の選択だった。
けれど、彼のような男と、家にいる“彼”との違いは明らかだった。
彼は手を伸ばさない。力で押さない。押しつけず、ただ隣に立つ。
(なぜ……あの人は、違うのだろう)
ほんのかすかな、曖昧な問いが胸の奥に生まれた瞬間――
通りを歩いていると、道沿いの八百屋から、元気な声が飛んできた。
「おっと、見ない顔だねぇ。観光の人かい?」
存在は足を止め、買い物かごを掲げて見せた。
「違うわ、こっちに越してきたの。……妻として、迎えられたわ」
「あらまぁ、それはめでたい! キレイな奥さんにはサービスをつけよう」
店主は頷きながら笑い、棚の裏からいくつかの果物を取り出した。
「今日はこれ、おまけに入れておくよ。新婚さんには景気よくね!」
そう言って、袋に赤い果実と桃色に光沢を放つ実をいくつか詰めると、かごに滑り込ませた。
存在はそれを見て、まばたきをした。予期していなかった行為だった。
「……なぜ、なの?」
「ん? なにが?」
「私は、頼んでないわ。対価も支払ってない。にもかかわらず……なぜそれを?」
「……そりゃ、そういうもんだからさ。嬉しいことがあったとき、人に何かしてあげたくなるもんなんだよ」
存在は返されたその言葉に、しばし黙した。
“してあげたいから、する”という動機は、彼女の論理の中には存在しなかった。
「……それは、合理的な交換ではない」
「合理的じゃないねぇ。でも、嬉しいことって、たいていそうだよ?」
店主は肩をすくめ、少し笑った。
存在は無言のまま、袋をかごに納める。
かつて、彼に興味本位で告げたあの言葉が脳裏をかすめた。
「……ありがとう」
自然とそう言った彼女の声には、戸惑いとわずかに、温度がこもっていた。
背を向けて歩き出したその足取りは変わらなかったが、胸の内に、かすかな異物が残っていた。
(“与える”という行為が、感情の産物であるとすれば――)
彼女の記録には、まだ答えがなかった。
だがそのときだけは、なぜか……袋の中の果実の重さが、ほんの少しだけ心に触れた気がした。
しばらくして。
――鐘の音が、鳴った。
重く、けれど柔らかな音が、空を裂いて遠くから響く。
存在は音の方向に顔を向け、足を進める。目的地は変更された。
歩を進めるごとに、人の気配が増えていく。ざわめき、笑い声、小さな歓声。
角を曲がると、小さな教会の前に人だかりがあった。
花びらが舞い、紙吹雪が空に舞う。
――結婚式、だ。
存在は、足を止めた。
その光景の意味を、知識としては理解している。だが、その熱や祝福の空気は、“情報”ではなく“現象”として胸に迫った。
人々の間に立ち止まり、目を細める。
その目には、まるで初めて空を見上げた者のような、探るような光が宿っていた。




