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不老不死にはわからない  作者: ある
第一章 記録には残らないもの

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ひとり町へ

 朝の光が、木々の葉を通して淡く差し込んでいた。

 家の中には穏やかな空気が流れていたが、食卓を片づけたあとの台所で、母は買い物かごを手にして存在に向き直った。


「お願いしてもいいかしら。野菜と、それから果物を少し。ついでで構わないのよ」


「はい、承知しました」


 存在はすっと頷き、身支度を整える。その仕草は丁寧で静か。感情を交えず、ただ作業として服を羽織り、鞄を手にする。

 そこへ男が姿を現した。


「じゃあ、僕も行くよ。二人で歩くのも悪くないし」


 さりげない口ぶりに、存在はわずかに瞬きをしたあと、首を振った。


「今日は……ひとりで行くわ」


「え?」


 男の言葉に、母が微笑む。


「いいじゃない。一人で歩きたい日もあるわ。束縛するのは男の悪い癖よ」


「……いや、そういうことじゃなくて」


 男の顔がかすかに曇る。視線を外し、少しだけ考えるような間があった。

 彼は知っているのだ。

 目の前の彼女が、今まで自ら人を襲ったことはないとはいえ、殺戮に対して躊躇を持たない存在であることを。

 彼女自身が、力を誇示するように語ったことなど一度もなかったが、それでもわかる。

 もし何かが起きたとき、彼女は迷わず“排除する”のだろうという確信が、ある。


「……本当に、大丈夫?」


 問うたその声に、存在は彼を見つめた。しばし視線を交差させたまま、静かに言葉を返す。


「約束は守るわ。私のほうがずっと強いから。争いを起こすのは、面倒よ……安心しなさい」


 それは、淡々とした断言だった。

 けれどそこには、かつてふたりのあいだで交わした誓いの重さが確かにあった。

 ――“一緒にいるあいだは、人を襲わない”


 それが、彼女が初めて結んだ“約束事”だった。


「……わかった。無理は、しないで」


 男が小さく息を吐き、諦めにも似た声で言うと、存在は微かにうなずき、家を出た。




 扉を閉じたあと、石畳を踏みしめながら歩く。

 空気はどこか甘く、初夏の陽がまぶしい。町は少し賑やかで、休日のような人通り。


 通りに並ぶ店の前を通り過ぎるたび、存在は静かに足を止める。

 果物屋の山積みの林檎、帽子屋のウィンドウに飾られたリボン、洋服屋の白いドレス。

 それらを、まるで風景の一部を確認するように見つめ、時折立ち止まり、記録するように目を細める。


 そこに感情の起伏はない。

 だが、それは“無関心”ではない。むしろ、すべてを“見逃すまい”とするような観察のまなざしだった。


「ホント、人間は色んなものを作り出すのね」


 石畳の道を歩き、人気の多い商店通りに差しかかったころだった。

 白いスーツ姿の男性が、向こうから歩いてくる存在を見つけて、足を止めた。


「……おや?」


 男性はひとつ咳ばらいをして、すれ違いざま、わざとらしい声で話しかけた。


「お嬢さん、今日は何かいいことでも? すごく……眩しく見えたから」


 その言葉に、存在は一度だけ足を止めた。

 ゆっくりと顔を向ける。男の笑みは営業的で、その目には観察よりも値踏みが混じっていた。


「ひとりかい? ちょうど僕も、ひとりで退屈してたところでね。美味しい紅茶が飲める店、案内しようか?」


 男性は口角を上げ、身を乗り出す。

 存在の視線は、まっすぐに彼の目を見ていた。だが、何も言わない。まるで彼の言葉が、何ら意味を持たない音でしかないかのように。


 そして――ただひとことだけ、低く、丁寧に言った。


「ご機嫌よう」


 軽く会釈をし、ふたたび歩き出す。

 拒絶とも、興味のなさとも言い切れないその所作に、男は肩をすくめて舌打ちを飲み込んだ。


「……なんだよ、つれないな」


 背中越しに、男のつぶやきが届いた。

 存在はその言葉に振り向かず、ただ一歩、一歩、歩を進める。

 右手はかすかに鞄の縁を握っていたが、その力はすぐに緩められた。


 (――排除の必要は、ない)


 自らの中で、静かにそう判断した。

 約束を守ること。無意味な衝突を避けること。それは、自分の選択だった。


 けれど、彼のような男と、家にいる“彼”との違いは明らかだった。

 彼は手を伸ばさない。力で押さない。押しつけず、ただ隣に立つ。


 (なぜ……あの人は、違うのだろう)


 ほんのかすかな、曖昧な問いが胸の奥に生まれた瞬間――


 通りを歩いていると、道沿いの八百屋から、元気な声が飛んできた。


「おっと、見ない顔だねぇ。観光の人かい?」


 存在は足を止め、買い物かごを掲げて見せた。


「違うわ、こっちに越してきたの。……妻として、迎えられたわ」


「あらまぁ、それはめでたい! キレイな奥さんにはサービスをつけよう」


 店主は頷きながら笑い、棚の裏からいくつかの果物を取り出した。


「今日はこれ、おまけに入れておくよ。新婚さんには景気よくね!」


 そう言って、袋に赤い果実と桃色に光沢を放つ実をいくつか詰めると、かごに滑り込ませた。

 存在はそれを見て、まばたきをした。予期していなかった行為だった。


「……なぜ、なの?」


「ん? なにが?」


「私は、頼んでないわ。対価も支払ってない。にもかかわらず……なぜそれを?」


「……そりゃ、そういうもんだからさ。嬉しいことがあったとき、人に何かしてあげたくなるもんなんだよ」


 存在は返されたその言葉に、しばし黙した。

 “してあげたいから、する”という動機は、彼女の論理の中には存在しなかった。


「……それは、合理的な交換ではない」


「合理的じゃないねぇ。でも、嬉しいことって、たいていそうだよ?」


 店主は肩をすくめ、少し笑った。

 存在は無言のまま、袋をかごに納める。

 かつて、彼に興味本位で告げたあの言葉が脳裏をかすめた。


「……ありがとう」


 自然とそう言った彼女の声には、戸惑いとわずかに、温度がこもっていた。

 背を向けて歩き出したその足取りは変わらなかったが、胸の内に、かすかな異物が残っていた。


 (“与える”という行為が、感情の産物であるとすれば――)


 彼女の記録には、まだ答えがなかった。

 だがそのときだけは、なぜか……袋の中の果実の重さが、ほんの少しだけ心に触れた気がした。




 しばらくして。

 ――鐘の音が、鳴った。


 重く、けれど柔らかな音が、空を裂いて遠くから響く。


 存在は音の方向に顔を向け、足を進める。目的地は変更された。

 歩を進めるごとに、人の気配が増えていく。ざわめき、笑い声、小さな歓声。

 角を曲がると、小さな教会の前に人だかりがあった。

 花びらが舞い、紙吹雪が空に舞う。


 ――結婚式、だ。


 存在は、足を止めた。

 その光景の意味を、知識としては理解している。だが、その熱や祝福の空気は、“情報”ではなく“現象”として胸に迫った。


 人々の間に立ち止まり、目を細める。

 その目には、まるで初めて空を見上げた者のような、探るような光が宿っていた。

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