母とふたり
午前の陽が傾き始めた頃だった。
家の中はいつもより静かだった。男は仕事で外に会う人がいると出ており、父も出張。妹と弟は町へ遊びに行ったという。
居間には、母と存在のふたりだけ。
食後の皿を洗い終えた存在が、丁寧に手を拭いて振り返る。
母は台所に腰を下ろしながら、存在に微笑みかけた。
「ありがとうね、片付けまで」
「いえ。お世話になっておりますので、これくらい当然のことです」
存在は相変わらず、律儀な敬語で答えた。
言葉に淀みはなく、礼節を踏まえている。けれど、そこに“何かを感じ取って応じた”ような温度はない。
母はそのことを、たぶん何度も感じていた。
存在は、急須に茶葉を入れ、静かに湯を注ぐ。
やがて、湯気と共に香ばしい匂いが部屋に満ちる。
二人で向かい合い、湯呑を手に取る。
しばらく、無言の時間が流れた。
ぽたり、と音が落ちたように、母が口を開く。
「あなたのように……気立てがいいお嫁さんをもらえて、あの子も、いつの間にか立派になったのね」
存在は、湯呑を唇に運びながら、視線を母の方へ向けた。
その表情に、母はふと違和感を覚える。
言葉を受け取っているはずなのに、その反応は、どこか遠い。興味がないわけではない……けれど、それは“意味”ではなく“形式”で応じているような、そんな温度のなさだった。
母は、数秒の間を置いて、もう一歩、踏み込んだ。
「ねぇ……あの子の、どんなところに惹かれたのかしら?」
問いはやわらかく、けれど鋭かった。
存在は、少しだけ瞬きをして、わずかに首を傾げる。
「……彼は、他者に対して誠実です。周囲の空気を乱さず、誰に対しても温和な態度を保っています。私のような立場の者とも、区別なく接してくれます」
「……そう。ええ、それは本当に、あの子の長所ね」
母は頷く。だが、また感じる。
――今の答えは、“感じた”のではなく“整理して記憶から引き出した”ような、そんな話し方だった。
「けれど……それだけかしら?」
「それだけ、ではありません。ですが……」
存在は言葉を選んでいる。いや、“選んでいるように見せている”のかもしれない。
母はふっと笑った。
「あなたね、自分の言葉に、まだ慣れていないのね」
存在が少し目を見開いた。
まるで、初めてそれを指摘された子供のような、純粋な驚きだった。
「自身でも気づいてないかもしれないけど、あなた、感情を表す言葉が、すごく慎重なの。まるで、落とし穴があるみたいに言葉を手探りしてる……そういう喋り方をするわ」
「……私は、失礼がないように」
「それもあるでしょうけど……もっと深いところで、“気持ち”がまだ、どこにあるか自分でわかってないように見えるのよ。まるで、“はじめまして”って感覚で、あなたは人と話してる」
存在は、初めて湯呑から目を離した。
まるで、その言葉に少し“痛み”を覚えたように。
けれど母の声はやさしかった。
「それでもね。あの子と一緒にいるときのあなた、たまに……言葉じゃないところで、ちゃんと伝わってくるのよ」
「……それは、どういったところでしょう?」
「そうね。たとえば……あの子が笑ったとき、あなたはほんの少しだけ、呼吸の仕方が変わる。息が浅くなるの。“自分がしたことではないのに”……あの子が嬉しいと、自分の心も反応するのね」
存在は小さく肩を震わせた。
それが困惑か、感動か、それすらも彼女自身、まだわかっていないようだった。
「それが“想い”ってものなのよ。意味のある言葉で結ばれてなくても、人は、誰かの呼吸で、自分の奥が揺れるの」
湯呑に浮かぶ茶葉が、そっと揺れる。
「あなたの中に、ちゃんとあるの。気づいてないだけで、きっと……それはあの子にも伝わってる」
存在は、初めて自分から茶を口にした。
ほんの少しだけ、その仕草が――息をするように、自然だった。
母はそれを見て、ひとつ、静かに頷いた。
しばし沈黙が続いたあと、母が湯呑を揺らしながら、ふと尋ねた。
「ねぇ……あの子のこと、好き?」
存在は、答えなかった。視線は湯の表面に落とされ、揺れる茶葉をただ見つめている。
母は急かさず、優しい口調で続ける。
「……妻になりたいと思った、きっかけは?」
その言葉にも、存在はすぐには返さなかった。
ただ、まぶたを伏せる。思考の奥に沈んだ記憶を、ひとつひとつ引き上げるように――静かに、思い出していた。
――排除するはずだった。
それが“私”の定めであり、機能であり、存在理由でもあった。
けれど彼だけは、怯まなかった。
滑稽なほどに無防備で、愚かしいほどに前向きだった。
手を握ったあのときの温度だけが、不思議と記録ではなく、記憶になっていた。
「……彼が、特別だと感じたから……だと思う」
ようやく返された声は、ほんのわずかに震えていた。けれど、それは迷いではなく、“輪郭を帯び始めた心”の揺らぎだった。
母は微笑んだ。
「そう、あるのね。あなたには、ちゃんと理由が」
その声には、安堵と喜びが入り混じっていた。
「なら安心。……あなたみたいな、可愛くて素敵な女性が、あの子を選ぶのは……ちょっとだけね、疑っちゃったのよ。母親として」
存在は思わず、肩を揺らして笑った。
「ふふ……母親からそう思われたら……彼、落ち込みますよ?」
「ええ、たぶん立ち直れないわね。三日は寝込むかも」
二人して、湯呑を持ち上げる。
その湯気の向こう、存在の頬に浮かんだ笑みは、作られたものではなかった。
それから、母は茶をつぎ足しながら、男の昔話を語り始めた。
小さな頃の悪戯や、初めて作った料理が爆発した話、妹を守って泣いたくせに照れ隠しをした話。
からかいながらも、どこか誇らしげで、愛情のこもった言葉だった。
存在は、その一つひとつを、今までにない熱量で聞いていた。
記録としてではなく、“知りたい”という気持ちで。
――そして。
「ただいまー」
玄関から男の声がした。
扉が開き、彼が顔を出す。
「おっ、二人とも、なんだか楽しそうだね?」
扉を開けた男が、ふたりの笑顔に目を丸くする。
母が目を細めて返した。
「夫の愉快な話が、いっぱい聞けたわ」
「僕の?」
男が眉を上げる。
存在は、わずかに口元を緩めた。
「ええ、君のね。ずいぶんと……魅力的なお子さまだったようね」
「ちょっ……母さん!? なに話したの!?」
慌てる男に、母と存在はくすりと目を合わせて笑う。
そんな光景が、ふたりの距離をほんの少しだけ、近づけていた。




