↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不老不死にはわからない  作者: ある
第一章 記録には残らないもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/85

母とふたり

 午前の陽が傾き始めた頃だった。

 家の中はいつもより静かだった。男は仕事で外に会う人がいると出ており、父も出張。妹と弟は町へ遊びに行ったという。

 居間には、母と存在のふたりだけ。


 食後の皿を洗い終えた存在が、丁寧に手を拭いて振り返る。

 母は台所に腰を下ろしながら、存在に微笑みかけた。


「ありがとうね、片付けまで」


「いえ。お世話になっておりますので、これくらい当然のことです」


 存在は相変わらず、律儀な敬語で答えた。

 言葉に淀みはなく、礼節を踏まえている。けれど、そこに“何かを感じ取って応じた”ような温度はない。

 母はそのことを、たぶん何度も感じていた。


 存在は、急須に茶葉を入れ、静かに湯を注ぐ。

 やがて、湯気と共に香ばしい匂いが部屋に満ちる。

 二人で向かい合い、湯呑を手に取る。


 しばらく、無言の時間が流れた。


 ぽたり、と音が落ちたように、母が口を開く。


「あなたのように……気立てがいいお嫁さんをもらえて、あの子も、いつの間にか立派になったのね」


 存在は、湯呑を唇に運びながら、視線を母の方へ向けた。

 その表情に、母はふと違和感を覚える。

 言葉を受け取っているはずなのに、その反応は、どこか遠い。興味がないわけではない……けれど、それは“意味”ではなく“形式”で応じているような、そんな温度のなさだった。


 母は、数秒の間を置いて、もう一歩、踏み込んだ。


「ねぇ……あの子の、どんなところに惹かれたのかしら?」


 問いはやわらかく、けれど鋭かった。

 存在は、少しだけ瞬きをして、わずかに首を傾げる。


「……彼は、他者に対して誠実です。周囲の空気を乱さず、誰に対しても温和な態度を保っています。私のような立場の者とも、区別なく接してくれます」


「……そう。ええ、それは本当に、あの子の長所ね」


 母は頷く。だが、また感じる。

 ――今の答えは、“感じた”のではなく“整理して記憶から引き出した”ような、そんな話し方だった。


「けれど……それだけかしら?」


「それだけ、ではありません。ですが……」


 存在は言葉を選んでいる。いや、“選んでいるように見せている”のかもしれない。

 母はふっと笑った。


「あなたね、自分の言葉に、まだ慣れていないのね」


 存在が少し目を見開いた。

 まるで、初めてそれを指摘された子供のような、純粋な驚きだった。


「自身でも気づいてないかもしれないけど、あなた、感情を表す言葉が、すごく慎重なの。まるで、落とし穴があるみたいに言葉を手探りしてる……そういう喋り方をするわ」


「……私は、失礼がないように」


「それもあるでしょうけど……もっと深いところで、“気持ち”がまだ、どこにあるか自分でわかってないように見えるのよ。まるで、“はじめまして”って感覚で、あなたは人と話してる」


 存在は、初めて湯呑から目を離した。

 まるで、その言葉に少し“痛み”を覚えたように。


 けれど母の声はやさしかった。


「それでもね。あの子と一緒にいるときのあなた、たまに……言葉じゃないところで、ちゃんと伝わってくるのよ」


「……それは、どういったところでしょう?」


「そうね。たとえば……あの子が笑ったとき、あなたはほんの少しだけ、呼吸の仕方が変わる。息が浅くなるの。“自分がしたことではないのに”……あの子が嬉しいと、自分の心も反応するのね」


 存在は小さく肩を震わせた。

 それが困惑か、感動か、それすらも彼女自身、まだわかっていないようだった。


「それが“想い”ってものなのよ。意味のある言葉で結ばれてなくても、人は、誰かの呼吸で、自分の奥が揺れるの」


 湯呑に浮かぶ茶葉が、そっと揺れる。


「あなたの中に、ちゃんとあるの。気づいてないだけで、きっと……それはあの子にも伝わってる」


 存在は、初めて自分から茶を口にした。

 ほんの少しだけ、その仕草が――息をするように、自然だった。


 母はそれを見て、ひとつ、静かに頷いた。


 しばし沈黙が続いたあと、母が湯呑を揺らしながら、ふと尋ねた。


「ねぇ……あの子のこと、好き?」


 存在は、答えなかった。視線は湯の表面に落とされ、揺れる茶葉をただ見つめている。


 母は急かさず、優しい口調で続ける。


「……妻になりたいと思った、きっかけは?」


 その言葉にも、存在はすぐには返さなかった。

 ただ、まぶたを伏せる。思考の奥に沈んだ記憶を、ひとつひとつ引き上げるように――静かに、思い出していた。


 ――排除するはずだった。

 それが“私”の定めであり、機能であり、存在理由でもあった。

 けれど彼だけは、怯まなかった。

 滑稽なほどに無防備で、愚かしいほどに前向きだった。

 手を握ったあのときの温度だけが、不思議と記録ではなく、記憶になっていた。


「……彼が、特別だと感じたから……だと思う」


 ようやく返された声は、ほんのわずかに震えていた。けれど、それは迷いではなく、“輪郭を帯び始めた心”の揺らぎだった。


 母は微笑んだ。


「そう、あるのね。あなたには、ちゃんと理由が」


 その声には、安堵と喜びが入り混じっていた。


「なら安心。……あなたみたいな、可愛くて素敵な女性が、あの子を選ぶのは……ちょっとだけね、疑っちゃったのよ。母親として」


 存在は思わず、肩を揺らして笑った。


「ふふ……母親からそう思われたら……彼、落ち込みますよ?」


「ええ、たぶん立ち直れないわね。三日は寝込むかも」


 二人して、湯呑を持ち上げる。

 その湯気の向こう、存在の頬に浮かんだ笑みは、作られたものではなかった。


 それから、母は茶をつぎ足しながら、男の昔話を語り始めた。

 小さな頃の悪戯や、初めて作った料理が爆発した話、妹を守って泣いたくせに照れ隠しをした話。

 からかいながらも、どこか誇らしげで、愛情のこもった言葉だった。


 存在は、その一つひとつを、今までにない熱量で聞いていた。

 記録としてではなく、“知りたい”という気持ちで。


 ――そして。


「ただいまー」


 玄関から男の声がした。

 扉が開き、彼が顔を出す。


「おっ、二人とも、なんだか楽しそうだね?」


 扉を開けた男が、ふたりの笑顔に目を丸くする。

 母が目を細めて返した。


「夫の愉快な話が、いっぱい聞けたわ」


「僕の?」


 男が眉を上げる。

 存在は、わずかに口元を緩めた。


「ええ、君のね。ずいぶんと……魅力的なお子さまだったようね」


「ちょっ……母さん!? なに話したの!?」


 慌てる男に、母と存在はくすりと目を合わせて笑う。

 そんな光景が、ふたりの距離をほんの少しだけ、近づけていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。