買い出し
その日、ふたりは買い出しに出かけた。母の頼みで、パンと、果実と、調味料を。
陽が差すなかを歩く。男が荷物を担ぎ、存在はその横を歩いた。人通りの多い通りでは、相変わらず人々が騒がしく、この町で暮らすようになってからまだ日が浅いためか、ときには存在を物珍しい目で見つめる者もいた。
男と一緒にいると、それだけで誰もが和らげたような顔をした。空気がほぐれ、道に残る不信も、どこか遠のいた。
「……やっぱり群れというのは五月蠅いわね」
存在が小さく吐くように言う。
「そうかな? 独りじゃないって思えるのは、嬉しいことだよ」
男は笑って言った。
存在はそれ以上は言わなかった。ただ、ほんの少し、歩幅を合わせてみた。誰にも気づかれないような、微かな変化。
途中、小さな広場の前を通る。花壇の縁に腰掛けた老人、走り回る子供たち。どこにでもある町の風景。
風に揺れる洗濯物の匂いと、果実の香りと、土の匂いが混じっていた。
その中で、ひとりの子供が転んだ。砂地を蹴って、前のめりに倒れ、膝を擦りむいて泣き始めた。
「血が出てる……」
存在が立ち止まった。男が軽く頷く。
「ジッとしてなさい」
存在はそっと近づき、しゃがみ込む。子供は驚いたように目を見開いたが、逃げようとはしなかった。
存在の手がふわりと動き、彼女の掌から、柔らかい光が滲み出る。あたたかな、春のような光。
それが子供の膝を包み、血は止まり、傷はゆっくりと塞がっていった。
「……もう、大丈夫よ」
「……え?」
子供が膝を見下ろす。血は消え、痛みも引いていた。
ぽかんとした顔のまま、子供が言った。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
存在は、少しだけ瞬きをした。
その一言が、自分に向けられたものだとは、ほんの少し、信じ難かったのかもしれない。けれど、その言葉に嘘はなかった。
そこへ、駆け寄ってきた夫婦がいた。若いふたり。おそらくこの子の両親だろう。
妻は子供を抱きしめ、夫は深々と頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございます。……この子は、よく転ぶんです」
「すみません、本当に……あんなに泣いていたのに、今は笑ってる」
存在は返事に迷っていた。けれど、男が代わりに静かに言った。
「いえ、元気があってよろしいかと。でも、次からは気をつけるんだぞ」
男は子供に笑顔を向ける。子供はこくっと小さくうなずく。
「ありがとう! あったかかった!」
子供が無邪気に笑う。
存在はその言葉の意味を、ゆっくり咀嚼するように聞いていた。
“ありがとう”という言葉が、ただの礼儀や音ではなく、感情の端にある“温度”として、確かに伝わった。
夫婦は、ふたりを交互に見てから、もう一度丁寧に頭を下げて去っていった。子供は何度も振り返りながら手を振った。
――それは、明るい時間のなかの、やわらかい光景だった。
その後もしばらく、買い物を続けながら、存在は無言だった。
籠のなかに入った果実の赤が、さっきの子供の血の色と重なる。だが、それはもう痛みの記憶ではなかった。
歩き出してから、存在がぽつりと尋ねた。
「さっきの……あのふたりは、夫婦だったのよね?」
「ああ、そうだね」
「君と旅を始めてから……ありがとうと言われるようになった気がするわ」
男は微笑んだ。
「君にはそういう力があるからね。排除するよりもずっと簡単で、嬉しいだろ?」
「さぁ……わからない。でも、さっきの子……笑ってた。母親も、父親も。……穏やかだった」
「うん」
「……あれは、夫婦だから? 夫婦だと楽しい気持ちになるの?」
男は少し考えてから、首を傾げた。
「それもあるかもね。でも、“夫婦だから”というより、“夫婦であり続けるために、いろんなことを築いてきた”んだと思うよ」
存在は少しだけ黙ってから、小さく呟いた。
「築く、というのは……努力が要るのね」
「それでも、一緒にいたいと思える相手となら、自然と積み上がっていくものかもね。言葉だけじゃなくて、時間の重ね方とか、互いへの信頼とか……そういうのが、形になっていく」
存在は歩きながら、先ほどの若い夫婦の背中を思い出していた。
肩を並べて歩く姿、自然と交わされる目配せ、そっと重なる指先。
それはどこか、存在の記録にはなかった形だった。
「……君と私も、何か、築いているのかしら」
男は、足を止める。
そして、ふと笑った。
「築けるといいな。君がそう思ってくれるなら、きっと、少しずつでも」
音のなかった関係に、足音が生まれた気がした。
やがて、自宅が見えてくる。見慣れた門と、夕方の陽が差す家の影。
存在はほんの少しだけ、男に近づいて歩いた。
並ぶ足音が、少し揃った。




