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不老不死にはわからない  作者: ある
第一章 記録には残らないもの

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観察者

夜がすっかり更けたころ、家の中は静寂に包まれていた。両親も妹もすでに自室へと引き上げ、唯一まだ灯りの残るのは、男の部屋だけだった。

存在は背を正して座っていた。男はというと、どこか落ち着かない様子で毛布をたたんだり、持ち物を整理したり、無意味に動いていた。


「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」


存在の声が、ひやりとした夜気のように空気を震わせた。


「ん? どうした?」


「キスって、どういう意味なの?」


男の手がぴたりと止まる。


「……え?」


「この世界では、夫婦なら自然に行うものらしいわね。先ほどの妹さんも話していた。でも、私は経験がない」


「そ、そっか……」


男は急に喉が渇いた気がして、水の入ったコップに手を伸ばしたが、それも途中で諦めた。


「形だけの夫婦であっても、そういった形だけの接触をしてみることに意味があると思うの。観察として」


「えっ、えっ……?」


存在はまっすぐ男を見つめていた。その瞳には揺れがなく、純粋な疑問と探求の色が混じっているだけだった。


「つまり、今ここで、形だけのキスを試してみようと思うのだけど」


男は、口をぱくぱくとさせながら、のけぞるように座り直す。


「ま、待って、え? いま? ほんとに?」


「そう。研究としての試みよ」


「ちょ、ちょっと待って、心の準備というか、あの、気持ち的に――」


混乱しながらも、男の表情がだんだんと崩れていく。口元にはにやけが浮かび、耳まで赤くなって、どう見ても浮かれている。


「……ふふ、まったく……」


存在はそんな男の様子をじっと観察していた。そして、ほんの少し顔を寄せた――かと思えば、急に眉をひそめ、不快そうに身を引いた。


「やっぱりやめるわ」


「えっ!? な、なんで!?」


「その顔。あまりにだらしなくて気分が悪くなった」


「そ……そんなぁ……っ!!」


男は肩を落とし、膝から崩れ落ちるように床へ沈んだ。絶望に満ちた嘆きの声を漏らしながら。

存在は立ち上がり、くすりと微笑む。


「学んだわ。キスは感情と結びつく行為なのね。ならば――軽々しく扱うには重すぎる」


そう言って、自分用のベッドへと向かった。背中越しに、男のがっくりとしたため息が響く。


「今日はその固い床で寝なさい、これは罰よ。あと、近づいたら殺すから」


「……観察者って、ずるいよなぁ……」


「何か言った?」


「な、なんでもないです……」


男の声は、床に吸い込まれていった。

こうして、形だけの夫婦の夜は、またひとつ経験を積みながら、静かに更けていった。


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