観察者
夜がすっかり更けたころ、家の中は静寂に包まれていた。両親も妹もすでに自室へと引き上げ、唯一まだ灯りの残るのは、男の部屋だけだった。
存在は背を正して座っていた。男はというと、どこか落ち着かない様子で毛布をたたんだり、持ち物を整理したり、無意味に動いていた。
「ねえ、ひとつ聞いてもいい?」
存在の声が、ひやりとした夜気のように空気を震わせた。
「ん? どうした?」
「キスって、どういう意味なの?」
男の手がぴたりと止まる。
「……え?」
「この世界では、夫婦なら自然に行うものらしいわね。先ほどの妹さんも話していた。でも、私は経験がない」
「そ、そっか……」
男は急に喉が渇いた気がして、水の入ったコップに手を伸ばしたが、それも途中で諦めた。
「形だけの夫婦であっても、そういった形だけの接触をしてみることに意味があると思うの。観察として」
「えっ、えっ……?」
存在はまっすぐ男を見つめていた。その瞳には揺れがなく、純粋な疑問と探求の色が混じっているだけだった。
「つまり、今ここで、形だけのキスを試してみようと思うのだけど」
男は、口をぱくぱくとさせながら、のけぞるように座り直す。
「ま、待って、え? いま? ほんとに?」
「そう。研究としての試みよ」
「ちょ、ちょっと待って、心の準備というか、あの、気持ち的に――」
混乱しながらも、男の表情がだんだんと崩れていく。口元にはにやけが浮かび、耳まで赤くなって、どう見ても浮かれている。
「……ふふ、まったく……」
存在はそんな男の様子をじっと観察していた。そして、ほんの少し顔を寄せた――かと思えば、急に眉をひそめ、不快そうに身を引いた。
「やっぱりやめるわ」
「えっ!? な、なんで!?」
「その顔。あまりにだらしなくて気分が悪くなった」
「そ……そんなぁ……っ!!」
男は肩を落とし、膝から崩れ落ちるように床へ沈んだ。絶望に満ちた嘆きの声を漏らしながら。
存在は立ち上がり、くすりと微笑む。
「学んだわ。キスは感情と結びつく行為なのね。ならば――軽々しく扱うには重すぎる」
そう言って、自分用のベッドへと向かった。背中越しに、男のがっくりとしたため息が響く。
「今日はその固い床で寝なさい、これは罰よ。あと、近づいたら殺すから」
「……観察者って、ずるいよなぁ……」
「何か言った?」
「な、なんでもないです……」
男の声は、床に吸い込まれていった。
こうして、形だけの夫婦の夜は、またひとつ経験を積みながら、静かに更けていった。




