真似事
街道沿いの並木道を三人で歩いていた。朝方より少し賑わいを増した市場通りは、人の声と物音に満ちている。先を歩く妹は、手にした買い物籠を軽く揺らしながら、気ままな鼻歌を口ずさんでいた。
男と存在は、その数歩後ろを並んで歩いていた。陽差しは柔らかく、風はやや湿り気を帯びていて、どこか懐かしい草の匂いがする。会話を交わすには、ちょうどよい距離だった。
「……さっきの、あの挨拶さ。僕、ちょっとびっくりしたよ」
男が控えめに口を開く。存在はちらりと横目で見るが、無表情だった。
「ああいう話し方が、できるんだね」
「別に難しいことではないわ。模倣しただけだから」
「模倣?」
「ええ。読み物の中の人物。タイトルはたしか……『悪しき令嬢のわたくしが不貞行為で成り上がった罪』」
「……は?」
男は足を止めかけた。頭が一瞬、理解を拒んだのかと思ったほどだ。
「そんなもの、読んでたの?」
「ええ、行商人が置いていった文献。興味深かったから保存していたわ。挨拶の所作や立ち居振る舞いは、参考になった」
「あの……なんというか……」
言葉に詰まる。まさか存在がそんなタイトルの本に影響を受けているとは夢にも思っていなかった。もっとこう、聖書とか、古い書簡とか、そういう神秘的なものを想像していた。
「……あれ、恋愛小説の一種だよ? だいぶ偏った」
「内容は関係ないわ。使える言葉を収集しただけ。ほら、ああいう“上品に見せる”というのも、人間関係に必要なのよね?」
さらりと言ってのける彼女の口調は、悪びれることも照れることもない。自らの行動がすべて観察と再現に基づいているのだということを、改めて突きつけられたようだった。
「……それ、母さんが聞いたら卒倒するよ。もっと……なんというか、自然な敬語とかでもよかったんじゃないかな?」
「“自然”って何? あなたが私に期待してる自然と、他人に見せる自然は違うものなのよ」
「そう、なんだけど……」
言い返せなかった。彼女の言うことは、理屈としては正しい。だが、その“正しさ”が、どこか滑稽にも思えるのは、なぜだろうか。
前を歩いていた妹が振り返った。
「お兄ちゃんたち仲良いね? もしかして、二人っきりのほうが良かった?」
「ち、違うから!」
慌てて否定すると、妹は楽しそうに笑いながら再び前を向いた。存在は何も言わなかったが、歩調だけは、ほんのわずか彼に合わせていた。
――存在は“模倣”で世界に溶け込もうとしている。それは、少なくとも今、彼女なりの努力の形だった。
男は少し肩をすくめ、ふっと笑ってから呟いた。
「……じゃあ、あの悪しき令嬢の“わたくし”には、ちゃんと幸せが訪れたのかな」
「知らないわ。結末は書かれていなかった」
「……なら、僕たちの物語も、まだ途中だってことだね」
その言葉には、存在は何も答えなかった。
けれど、ほんの一瞬だけ彼女の視線が、陽光を跳ねる石畳に揺れた。
まるで、見えない文字を読み取ろうとするかのように。
市場の喧騒が少し和らぎ、広場近くの雑貨店に入ったあと、三人は道の端に設けられたベンチで小休憩を取っていた。
妹は買い物籠の中身を並べて確認しながら、ふと横目で兄と存在の距離を測った。
「ねぇ、お兄ちゃん」
不意に呼ばれて、男は反射的に背を伸ばした。
「な、なに?」
「夫婦なんでしょ? 二人」
「……うん、まぁ、そうだよ」
「でもさ、なんか距離感、変じゃない?」
「へ?」
「だってほら、もっとこう、夫婦ってさ、自然に手を繋いでたり、目を見て笑い合ったり……そういうのあるじゃん。お兄ちゃんたち、どっちかっていうと“共犯者”って感じなんだもん」
「共犯者って……そんな言い方ある?」
男は苦笑いしながら視線を逸らした。その様子に、妹はさらに追い討ちをかけるように身を乗り出した。
「じゃあさ、キスは? もうしたの?」
「ッ――!?」
男の喉がひゅっと鳴った。思わず息を詰めて存在を見やると、彼女は涼しい顔のまま、何もなかったかのようにベンチの端で座っている。
「……なんでそんなこと聞くんだよ……」
「だって夫婦なら普通でしょ? ねえ、“奥さん”?」
妹が存在ににじり寄ると、存在はふわりと微笑んだ。まるで年下の子供をあやすような、穏やかで品のある表情だった。
「あなた、随分と観察眼が鋭いのね。ふふ、きっとお兄様の“顔だけは良いけど中身が追いついていない”部分を、昔から見抜いていたのでしょう?」
「えっ、う、うん……まあそういうとこあるかも……?」
存在は、まるで妹の味方であるかのように、やわらかく肩を竦めてみせる。その仕草には不思議な落ち着きがあり、見た目の幼さとは裏腹に、大人の余裕を感じさせた。
「だけどね、愛というものは、形では測れないの。たとえば言葉のひとつ、まなざしの一瞬、それだけで十分なこともあるわ」
「……うわ、なんかカッコいい」
妹は目を丸くして呟いた。
一方、男は顔を赤らめたまま、何も言えずに手元の袋を握りしめていた。さっきから完全にペースを握られているのは、自分の方だ。
「……でも、キスは……?」
妹の小さな呟きに、今度は存在がにっこりと笑った。
「秘密よ。そういうのは、本人たちだけのものだから」
「うわ~、奥さんステキ~!!」
妹がひとりで納得するように頷くと、男は耐えきれずに立ち上がった。
「よしっ! 材料も揃ったし早く帰ろう! ほら、急がないと日が暮れるぞ!」
「はいはい、誤魔化したね」
妹がからかい半分の声を上げながら立ち上がり、存在も静かにそのあとに続いた。
並んで歩き出した三人。先ほどの小さな問答の余韻が、どこかくすぐったく空気に残っていた。
男は、ちらと存在を横目で見る。彼女の表情はいつも通りだったが、目元だけ、わずかに柔らかさが宿っているようにも思えた。
それは、まだ“形”の夫婦である二人の、ごく小さな進行の証のようでもあった。




