帰郷
男の故郷は、小高い山のふもとに広がる静かな町だった。道端に咲く花々はどこか懐かしく、軒先からは干された薬草の香りが漂ってくる。
少年時代を過ごした景色は、大きくは変わっていなかった。だが、今となっては、傍らに佇む存在の気配がそれらすべてに新しい輪郭を与えていた。
男の実家は街道を曲がった小道の先にある。瓦屋根の二階家、手入れの行き届いた庭。扉を開けると、まず母の声がした。
「あら、おかえりなさい。まぁまぁ、元気そうでなにより……って、まあ?」
玄関に立った男の後ろから、少し遅れて現れた存在に目を留める母。まるで空気が変わったかのように静まり、父も、奥の部屋から顔を覗かせた。
「……誰だ?」
父の問いに、男は息を整えた。
「――僕の妻だよ」
「え?」
静かな驚きが家中に走る。母は口元に手を当て、目をぱちくりとさせる。父は一歩踏み出して、存在をまじまじと見つめた。
そんな中、存在はすっと一礼した。姿勢は美しく、言葉は凛としていた。
「初めまして。彼より妻として迎えられました者です。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。このたびは、お世話になります」
声にとげはなく、しなやかだった。どこか人間離れしたその雰囲気は変わらないのに、不思議と礼節に満ちていた。父も母も返す言葉を失い、その気配に圧倒されたように見えた。
「……なんだ、おまえ、意外にちゃんとしてるな」
父がぽつりと漏らし、母はようやくほっとしたように微笑む。
「まぁまぁ、お上手にお話しになるのね。どうぞ、上がってちょうだい。お昼にしましょう」
和やかな空気が流れ、男は小さく息を吐いた。
昼食の準備が始まる頃、弟と妹が帰宅してきた。弟は快活な少年、妹はまだ十代の少女。存在の姿を見るなり、妹が興味津々に駆け寄った。
「わぁ、綺麗な人!ほんとにお兄ちゃんの奥さんなの?」
「……はい。はじめまして」
笑顔はないが、存在の言葉は柔らかく、自然と距離を取る仕草に礼儀があった。妹は嬉しそうに何度も頷いた。
「ねえ、お母さんが言ってたの。お昼の材料が足りないから、一緒に市場に行ってくれない? お兄ちゃんが荷物持ってって言ってたし」
「ええ、構いません」
存在が頷くと、男がすぐに立ち上がる。
「じゃあ、僕も一緒に――」
「お兄ちゃんは座っててよ。話でもしてれば? 私たちだけでも大丈夫よ」
妹が男を押しとどめ、存在の手を取る。存在は微かに目を見開いたが、黙って従った。
玄関に向かう二人を見送ろうとすると、父が男の背中に声をかけてきた。
「そういえば、お前……年上の女性が好みだったろう。子供の頃から、落ち着いたのが好きだって言ってたじゃないか。なのに……彼女はちょっと幼くないか?」
父の視線の先には、淡々と靴を履く存在の後ろ姿。男は困ったように笑いながら、首を横に振る。
「外見だけを見れば、そう映るかもしれないけど……中身は、ずっと僕よりも年上なんだよ」
「……そうか」
父は腕を組んだまま何も言わなかったが、どこか納得したような顔をしていた。
(追いかけよう。僕が見てないと彼女は何をするかわからない)
玄関の戸が閉まり、男は一歩遅れて家を飛び出す。門を出た先で振り返ると、妹と並んで歩く存在の姿がある。彼女はほんのわずかに、妹に笑みのようなものを浮かべていた。
その笑顔を見て、男は追いつく足を少し緩めた。
――やっぱり、連れてきてよかった。
この家、この家族。この街。そのどれもが、彼女にとって異質であることはわかっている。それでも、「夫婦」として在るという形を、彼女なりに尊重しようとしている。少なくとも、そう見えた。
たとえそれが彼女の観察記録の一部だったとしても。
男は歩を進めながら、胸の奥でひとつ、小さな祈りを結ぶ。
――この先、少しずつでも彼女の中に“家族”の形が刻まれていくことを。




