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不老不死にはわからない  作者: ある
第一章 記録には残らないもの
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初夜

「この家、ずいぶん綺麗にしてるんだね」


 男が部屋の片隅を眺めながら言うと、少女は椅子の背にもたれて、細い足を組んだ。


「別に掃除なんてしてないわ。埃も、汚れも、いつからか消えていったの」


「……じゃあ、時間も?」


 男の問いかけに、存在は少しだけ目を細めた。


「止まった、とは違うわ。流れていないだけ。ここには“時計”がないの」


 言葉通り、壁にかけられていたはずの時計は、針がなく、ただ無言の輪郭を晒していた。カチリと進む音もなければ、過去や未来を示す目盛りもない。ただ、そこに“あった”という証だけが残されている。


「……でも君は、ちゃんと会話してくれるじゃないか。止まってるようには見えない」


 男の言葉に、存在は一瞬だけ視線を逸らした。


 その目は伏せられ、まるで長いあいだ心の奥に仕舞われていた何かを探るようだった。やがてぽつりと、問いかけるように言う。


「ねえ、時間って……何かしら?」


 男は答えに詰まった。


 火時計や日時計のように流れていくものか、それとも思い出のように過ぎ去っていくものか。けれどそんな機械仕掛けの定義では、この家には、彼女には届かない。


 だから、男はゆっくりと息を吸って、静かに答えた。


「……わからない。でも、君がこうして誰かと話してるなら、動いてるんじゃないか。少なくとも、僕にとっては」


 存在は返事をしなかった。

 けれど、それで十分だった。彼女のまなざしが、目の前の男ではなく、その向こうにある“何か”を見ていたから。


 それは遠い記憶か、あるいは今も胸の奥に残っている風景か。長い時間をひとりで漂ってきた彼女の中に、言葉にならない波紋がゆっくりと広がっていた。

 誰とも話さない日々の中で、忘れていた何か。思い出す必要もなくなっていたはずの“対話”というもの。今、自分がそれをしていることが、どこか奇妙で、ほんの少し……怖かった。

 存在は男の方を見ようとしなかった。ただ、自分の胸の奥を静かに覗き込むように、小さく、しかし確かに呟いた。


「……そう。なら、今の私は……“動いている”のね」


 それは独り言のようでもあり、ひとつの認識のようでもあった。


 男は何も言わず、存在の声の余韻だけを受け止めていた。


 部屋に、再び静寂が降りる。

 けれどその沈黙は、さっきまでとは少し違っていた。時が止まっているのではない。ただ、誰にも触れられなかった時間が、ほんのわずかに息を吹き返しただけのことだった。





 夜が訪れた。月光が森の葉をくぐり、わずかな光だけが家屋の中に差し込んでいる。内部は静かで、広い寝室には、意外にも大きなベッドが一つ備えられていた。

 二人で寝ても十分な広さだ。しかし男は何も言わずに床に毛布を敷き、そこに体を横たえた。

 そしてそのまま、あっけないほど自然に眠りに落ちた。


 存在は、静かにその寝顔を見下ろしていた。窓から差す月明かりが、男の無防備な顔をやわらかく照らす。


「……無邪気な寝顔。このまま、痛みもなく、何の実感も抱かず殺すこともできるわね。ホント、わからないわね」


 彼女はゆっくりとベッドの端に腰を下ろし、腕を組みながらじっと彼を見下ろしていた。長い年月を生きてきた中で、何度も見てきたはずの人間の寝顔。

 それらは血にまみれた姿だった。今は違う。

 この男の顔には、どこか奇妙な感触を覚えてしまう。


「……警戒心って言葉を知らないのかしら」


 独り言のように呟いたその声には、もはや冷たさはなかった。ただ、困惑とほんの少しの戸惑いが滲んでいた。


 (簡単なことよ。今ここで、胸を裂いて、心臓を止めてしまえばいい。何も感じない。そう、私は、何も……)


 けれど、彼女の手は動かなかった。動こうともしなかった。


 (なのに──どうしてかしら。この、くすぐったいような、胸の奥の違和感は)


 答えの出ない問いを抱えたまま、存在はため息をひとつ、深くついた。やがて彼女は静かにベッドへ体をあずけ、天井を見つめる。

 まぶたを薄く閉じながら、心の中でそっと呟いた。


(いいわ。しばらく、遊んであげる。あなたがどれだけ私を退屈させずにいられるか、試してあげる)


「せいぜい楽しませてよね、人間」


 囁くような声だけが、夜の静寂に溶けていった。それは誓いにも似た、けれど誰にも聞かれることのない、風のように儚い言葉だった。

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