夫婦星
山の峠にひっそりと広がる草原地帯。
夜の空気は透き通るように澄み渡り、手を伸ばせば届きそうなほど星々が近くに感じられた。
肌を撫でる張りつめた冷気が、世界の輪郭をどこまでもくっきりと浮かび上がらせていく。男は焚き火のそばに腰を下ろし、静かに上空を見上げていた。夜空の深淵には、白く凍りついたような幾千の星が瞬いている。
その傍らに、存在が静かに立った。
彼女は微笑みを浮かべる男の視線の先を辿るように空を仰ぎ、ぽつりと問いを投げかけた。
「君は……よく空を見上げているわね。あの白い点の集まりに、一体何を思っているの?」
「なんでだろうね。……でも、夜空の星が嫌いだっていう人には、あまり出会ったことがないよ」
「ふうん……」
「きっとさ、あの光には何か“隠された意図”があるんじゃないかって思うんだ。太古の誰かが置き去りにしていったものなのか、もしくは……まだ誰にも見つけられていない“問い”そのものなのかもしれないね」
ただの無機質な光点。世界が創造された際、必要に応じてそこに配置されただけの存在。本来なら、大きな意味などあるはずもない。
そんなものに特別な意味や感情を見出してしまうのは、人間の愚かしい性分なのかもしれない――男の穏やかな言葉には、どこかそんな諦めに似た深い情愛が混ざっていた。
「……人間って、本当に目に見えないものに勝手に意味をつけたがるのね」
「うん、そうだね。でもね、そのおかげで世界には“本”が生まれた。“物語”が生まれたんだよ。目に見えない胸の中の“想像”を、誰もが見える形に変えて伝えるためにね。だから君が気に入っているあの“絵本”も、元を正せば人間の勝手な想像が作り出した副産物なんだ」
「……」
「つまり、君が『面白い』と感じたその気持ちも、元を辿れば人間の“想像する力”のおかげってことになる。……どうだい? ちょっとだけ悔しいだろ?」
悪戯っぽく冗談めかした口ぶりに、存在の口元がほんのわずかに緩んだようにも見えたが、その表情の変化は夜の深い影の中に静かに覆い隠された。
ふいに、男がすっと腕を伸ばした。一本の指が、満天の星空の一点を指し示す。
「あのさ、周りの星と比べて、ひときわ大きく強く輝いている星があるだろ? あれはね、昔々、僕たちの住む世界でとびきり優しかった動物を星が閉じ込めたんだって言われているんだ」
『その小さな動物には、たくさんの友達がいました。森に暮らす動物たちは、互いに無駄な争いをすることもなく、仲良く平穏に暮らしていたんだ。
でもある時、森の均衡が狂って、ひどい飢餓が動物たちを襲った。そんな中、森で一番体の大きなお友達が空腹で正気を失い、今にも周りの友達たちを襲って食べてしまいそうになったんだ。
友達たちは何とかその子を助けようと、森中を駆け回って食べ物を集め、分け与えようとした。だけど、その大きなお友達は肉食だったから、みんなが持ってきた木の実や植物だけじゃ、どうしても飢えを凌ぐことができなかった。
そんな時、誰よりも小さくて弱い友達が、自らの肉体を差し出すことを選んだんだ。“自分はみんなみたいに上手に食べ物を集められなかった。それなら、せめて自分のこの体で友達の空腹を満たしてあげたい”ってね。
大きなお友達は涙を流して感謝しながら、小さな友達の命をいただいた。それは静かな夜中だったんだけど、その瞬間、夜空にひとつの新しい星が美しく灯ったんだ。
残された友達たちは思ったよ。誰よりも小さく弱く、何も与えられなかった友達だったけれど、誰よりも友達を想う心だけは大きかったんだってね。
あの星は、そんな小さな友達の純粋な真心を、天が光として称え、迎え入れた証なんだ。これからも森の誰もが道に迷わないように、そしてその優しさを忘れないようにってね。
それからというもの、森の動物たちは小さな争いが起こるたびに夜空を見上げ、あの星を眺めるようになったんだよ』
「……とまぁ、あの星にはそんなお話が語り継がれているんだ」
静かに耳を傾けていた存在の脳裏に、立ち寄った都市での出来事が鮮明に蘇っていた。
ちっぽけで無力な人間が、ちっぽけな罪人の少年を救おうとした。自分から見れば虫ケラのような弱者であるにもかかわらず、私という圧倒的な脅威の前に恐れる気もなく立ちはだかって見せた。あの男の心の中には、一体どんな『在り方』が宿っているというのだろうか。
「……あの星の物語に、自分を重ね合わせたとでも言いたいのかしらね。『自分は間違っていなかった、自分の選択は美しかった』とでも自画自賛するために?」
「あはは、バレちゃった? ……実はね、このお話は今僕が勝手に思いついた即興の作り話なんだよ。『こんな風になれたらいいな』っていう、僕自身の身の程知らずな願いの物語さ。現実の僕は、あの小さな英雄の足元にも全然及ばないけれどね」
ちっぽけな魔物一匹すらまともに倒せず、泥臭く泥に塗れて歩くことでしかこの世界を生き残ることができない男。
それなのに、この男が胸の奥に抱く「世界の受け取り方」は、自分とは全く異なる眩しい光を放っているということだけは、彼女にも理解できた。
「でもね。こういう優しい物語を描き続けることで、人は少しずつ、本当に優しくなれるんじゃないかって思うんだ。僕はそう信じているんだよ」
そう言うと男は笑い、ふたたびあの夜空に強く輝くひとつの星へと、愛おしそうに指を向けた。
「あの星の本当の名前は、〈カレナ〉って呼ばれているんだ」
「カレナ……?」
「別名、『夫婦星』ってね」
存在は冷ややかな目を細め、男の指し示す星を、先ほどよりもどこか確かな視線で見つめ直した。
夜空に無数に散らばる他の星々に比べ、ほんの少しだけ柔らかく、神秘的な白銀の光を湛えた星がそこに浮かんでいるのが分かる。
「……まじまじと見れば、確かに放つ光の揺らめきが他とは違うようにも見えるけれど。まあ……どれも似たようなものね」
淡々とした、素っ気ない口調で呟く存在。
男はその言葉に微笑みながら、ゆっくりと首を横に振った。
「カレナはね、僕たちの肉眼で見ると一つの力強い星に見えるけれど、実は二つの星が絶妙な位置で重なり合うようにして光っているんだ。望遠鏡なんかで遠くから覗いて拡大してみると、二つの星がそれぞれ独立して輝いているのがはっきりと分かるよ」
男はそう言いながら、温かな焚き火にそっと手をかざした。両手の人差し指を立てて星の形に見立て、夜空の下でその二つの指を重ね合わせて見せる。
「でもね、なんだか不思議だろ? あれだけ重なって近くに見えていても、本当の距離は驚くほど離れているんだ。僕たちの視線から『光が重なって見える位置』に留まっているだけで、本当はお互いにもっとずっと遠い場所にいる」
存在は何も言わず、ただ静かに耳を傾けていた。彼の紡ぐ言葉が一体どこに向かおうとしているのか、その意図に気づきながらも、すぐには言葉を返そうとはしなかった。
「……『夫婦』っていうのもさ、本当はそういうものなのかもしれないね。目に見えて隣に並んで立っているようでいて、生きている世界も、積み重ねてきた時間の重みも、ほんとはすごく遠くて離れている。でもね、もしも誰かの目に二人が綺麗に重なっているように映ったのだとしたら、それはきっと……お互いを大切に想い合っているからだと思うんだ。ただの形や言葉の約束だけじゃ、本当の関係にはなれない。心の距離を少しずつ詰めていくには……お互いの気持ちを、ゆっくりと重ね合わせていかなくちゃいけないんだろうね」
存在はそっと視線を落とし、足元で揺らめく焚き火の火の赤みに目をやった。はぜた火の粉が夜風に乗り、螺旋を描きながらどこまでも深い空へと舞い上がっていく。
「……それが、君の考える『夫婦の形』というわけ?」
「うん。……少なくとも、今の僕が目指したい理想の形さ」
男は穏やかに答えると、焚き火から顔を上げ、ゆっくりと存在のほうへ視線を向けた。
「君と僕もさ……これからもっと、重なり合っていけたらいいなって思っているんだ。誰かに見せるための形じゃなくて、本当の関係として。……君は、どう思う?」
パチパチと薪がはぜる音だけが、しばらくのあいだ夜の静寂の中に響き渡っていた。
やがて存在は、ほんの少しだけ肩をすぼめるような仕草を見せ、静かに答えた。
「……私は、まだよく分からないわ。人間たちが言う『感情』というものが、本当にこういう感覚のことを指すのかどうかすら、自信がないもの。……でもね、君と一緒にいると。理由もなく心が静かで……どこか落ち着く。だから、嫌ではないわ。……悪くないと、思っているわよ」
ひとつひとつの言葉を確かめるように選び取り、自らの心の奥を探るように語る彼女の声は、夜風と焚き火の音にかき消されてしまいそうなほど、ひどく小さく繊細だった。
この世界において誰よりも遠い場所からやってきた彼女が、自分の差し出した不器用な言葉に、ほんの少しだけでも触れ返してくれた。男にとっては、ただそれだけで十分すぎるほどの答えだった。
白銀の星は、変わらず夜空の深淵で輝き続けていた。
澄み渡る冷たい空気の中で、二つに重なり合った〈カレナ〉の柔らかな光が、どこか愛おしそうにわずかに揺れて見えた。
「……ねぇ、君は。今でもまだ、僕を殺したいと思っているかい?」
不意に、男が静かな声でそう尋ねた。どこか冗談めかした微笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には確かな真剣さが込められた問いだった。
存在はふっと呆れたように息を吐き出すと、ゆっくりと深く夜空を仰ぎ見た。
「さあね……。それはあの星が、夜空に隠してくれたのかもしれないわね」
そう言って、彼女はほんの僅かに、確実に、美しい口元を綻ばせて微笑んだのだった。




