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不老不死にはわからない  作者: ある
第一章 記録には残らないもの
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幽居へ

 二人は森の奥を抜け、シンッとした緑の揺らめきを縫うように歩いていた。

 やがて視界が開け、苔むした石垣と絡みついた蔦が迎える、古びた家屋が現れる。


 想像していたよりもはるかに大きく、かつては人の手によって丁寧に造られたであろうその建物は、しかし今や自然に呑まれかけていた。

 崩れはせず、かろうじて“住まい”の形を保っているが、その表情は静かに時を拒んでいた。


「意外だった? 人間らしい生活をしてるって顔」


 少女の姿をした存在が、ふっと口元を歪めてこちらを振り返る。その声音はどこか愉快そうで、だが試すような色も含んでいた。


「まぁね」


 男は正直に答える。


「たまたまね。すぐ傍を通ったら襲われたの。もちろん殺したわ。せっかくだから住まいにしたのよ。はじめは多くの人間がやってきたけど、皆同じ結果よ。気づいたら誰も寄らなくなったわ」


 さらりと、まるで日常の一幕のように語られる言葉。だがそこには確かな重さがあった。


 男は考えを巡らせる。世に知られた常識では、不老不死の存在は基本的に人に姿を似せて共に暮らすとされている。

 例外はあるが、それに出会う可能性は極めて低い。


 つまり、彼女が襲われたのは、その見た目が“人の女”だったからだろう。その先の想像は、男は意図的に打ち切った。

 そもそも彼女に生殖機能があるのかどうかもわからないのだ。

 だが――彼女は、そんな男の一瞬の迷いを察したように、口元を吊り上げて笑った。


「最初の人間だけだったわね。気色の悪い顔で近づいてきたのは。その後は皆が腫れ物を見る表情だったわ。今に思うと滑稽ね」


「人の身としては複雑だよ。殺す必要があったのかね」


「排除しただけよ。私から敵意を向けたことは、狩り以外では一度もないわ」


 “狩り”。その言葉の真意はまだ掴めない。彼女にとって“狩り”と“殺戮”の違いはあるのか。

 あるとすれば、どこに線引きがあるのか。男はその先を問いかけずにいた。


 ただ、この先の生活の中で、少しずつ探っていくしかないと心に決めていた。





 扉は重たく軋んだ。けれど、軋むという音すらも、この空間では“音”と呼べないほどに小さく思えた。

 男が踏み入れたその屋内は、奇妙な静寂に包まれていた。


 埃はない。朽ちてもいない。だが、生きている気配も、生活の匂いもなかった。

 家具は整然と置かれ、食器棚も満たされている。ベッドのシーツすら皺ひとつない。けれど、それは人が暮らしているという証ではなく、ただ、最後に使われた時間から“以後”が一切流れていないことを証明するようだった。

 まるで、誰かがこの空間の“時”を奪っていったかのように。


 男はそっと歩みを進める。床板の上を歩くたび、わずかな軋みが耳に返る。妙に響いて聞こえるのは、沈黙が濃すぎるからだろう。

 壁に掛けられた時計は、針がない。歪んだ鏡は、誰の姿も映そうとせず、ただ黙って灰色の曇りを抱えていた。


 それでも、何かがある。何かが“ここ”に根を下ろして、黙ってこちらを見ている気配。

 そう、ここは住まいなのだ。少なくとも、“誰か”にとっては。


「……人の暮らしの形をしているけど、人の暮らしではないな」


 男はぽつりと呟くと、古びたテーブルに手を添えた。木の感触はまだ温もりを残していた。


 長く空き家だったはずの場所。けれど、まるで一日たりとも放置されたことのないような気配。違和感の正体は、それだった。


「変な家だ」


 男は息をつき、窓辺に腰を下ろす。森の音も、風の音も聞こえない。ここは世界の裂け目のように、日常から切り離された空間だ。

 そんな静寂の中、男はふと、森に入る前の出来事を思い出していた。


 


「依頼内容は、失踪の調査です」


 役場の女が言った言葉は簡潔だった。


「三か月の間に五人。全員が最後に森へ入ったことだけが共通しています。若者から中年、旅人に村人、性別も職業もばらばら。見つかっていない死体も、手掛かりもありません」


「それだけ?」


「それだけです。だからこそ、正式な討伐依頼ではなく、あくまで“事実確認”の調査です。現地に脅威となるものがあるのか、ないのか。可能なら確認を」


「魔物や呪いの気配は?」


「現時点では確認されていません。……ですが、ある者は“人ならざるものを見た”と、ある者は“女の声がした”と口にしています。いずれも、恐怖と混乱の中で語られたもので、信憑性は低いです」

 

 男は一度だけ目を伏せ、それから静かに答えた。


「いいよ。引き受けようかな」


「……本気ですか? 報酬は高くありませんし、危険は未知数です」


 女の声には戸惑いと、少しの不安が混じっていた。だが、男は首を横に振る。


「命が惜しくないわけじゃない。ただ……」


「ただ?」


「ほっとけないかな。それだけさ。誰かが困っている、それだけで動くのは、悪い癖だと思うけどね」


 女は一瞬黙ったが、やがてほんの少しだけ、口元を緩めた。


「……その癖で、これまで何度も命を拾ってきたのでしょうね。どうか、気をつけてください」


  


 ──その言葉通り、男は今、命の危機の真っただ中にいる。

 目の前にいるのは、明らかに“人ならざるもの”だった。話をしているだけで、思考が揺らぐ。圧倒的な力の存在を、皮膚の下から感じる。


 そして、この空間。この時の止まった家。

 不気味なはずなのに、どこか心の奥を静かに撫でてくるような、言いようのない温度がある。


 (……違うな。これは、不気味だからこそ、安心してしまうのかもしれない)


 人が近づかないのも当然だ。ここは異界と現世の狭間。人の常識が通じない場所。


 だが、だからこそ──この存在に、何かしらの“意思”があるのなら。たとえそれが恐ろしくとも、暴力で捻じ曲げる前に知りたいと思った。


 それは理屈ではない。ただの性分だ。

 男は、窓の外に広がる森を見つめながら、小さく呟いた。


「さて……この先、彼女との生活で何が見えてくるか。できるなら、無駄死にはしたくないものだけど」


 風が、家屋の壁をなぞるように通り抜けた。

 その音さえ、まるで遠い昔の記憶のように、薄く、そして懐かしかった。

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