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不老不死にはわからない  作者: ある
第一章 記録には残らないもの

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説得

「さて……今日が僕の最期の日になるのか。慎重にことを進めないとね」


 鏡の前で身支度を整えながら、男は胸の奥で小さく吐息を漏らした。手にじわりと滲む薄い汗に、柄にもなく緊張している自分を自覚する。

 彼が本来、この鬱蒼とした森へ足を踏み入れた「本当の目的」――調査仕事の全工程は、すでにすべて完了していた。あとはこの地を去り、故郷へ帰るだけだ。だが、その「ただ帰るだけ」という最後の行程こそが、死線を越えるほど困難な壁であることを彼は誰よりも理解していた。


 この数週間、不老不死の彼女と共に過ごし、己が一切害のない存在であると一定の信頼を得られた自負はある。だが、彼女が自らの意志でこの静寂な森を飛び出すつもりなど毛頭ないであろうことも、容易に予想がついていた。


 命乞いという不格好な賭けから始まったふたりの契約。

 「君を好きになってもらう」という言葉は、最初は土壇場のハラキリに過ぎなかったかもしれない。けれど、いまやそれが男自身の切実な願望であることも確かだった。

 だが、この平穏な森に留まり続けるだけでは、ふたりの関係性にこれ以上の進展は望めない。ならば――この森の外へ踏み出し、全く新しい世界と価値観を共有するための時間を求めることは、決して悪い選択ではないはずだ。


 男は旅鞄の革紐を固く締め直すと、意を決してゆっくりと振り返った。

 この話題を切り出すことが、彼女の不興を買い、最悪の結末を招くかもしれないという恐怖はある。それでも、言わなければならない言葉だった。


「ふうん……帰るのね。人間の群れのもとへ。……そこに私を引っ張り込んで、一体どうしようというの?」


 部屋の暗がりの中、壁に背を預けていた存在が、静かに唇を開いた。


「僕には、故郷に大切な家族がいるんだ。帰りが遅くなって、きっと余計な心配をかけている。……大丈夫だよ、僕が一緒にいる限り、君が人間に害されるようなことはさせない。彼らは君の本当の正体を知らないんだから」


「“家族”、ね」


 その単語を耳にした瞬間、彼女の瞳の奥に明らかな「拒絶」のの色が揺らめいた。

 それは単なる感情的な嫌悪というよりも、遠い過去の底に沈んだ『冷ややかな記憶の澱』とでも呼ぶべき、冷ややかで毒を含んだ吐露だった。


「群れることでしか生きていけない脆弱な生き物のくせに、己と血の繋がった個体だけを『特別』だと囲い込む。……どこまでも都合が良くて滑稽な生き物ね、人間は」


「それでも……僕にとっては、何よりもかけがえのない大切な場所なんだよ。……君には理解しがたい概念かもしれないけれど」


「理解? なぜ私がそんなものをする必要があるの? 君のためにわざわざ自身の縄張りの境界を越えて、見知らぬ人間の群れを拝みに行けと? ……そこに私にとって、一体どんな『得』があるというの?」


「得なんて、何一つないかもしれない。でもね……僕という人間を、少しでも知ろうと歩み寄ってくれたなら――それだけで、僕は心から嬉しいんだ」


「……相変わらず、何一つ役に立たない感情論ばかりね」


 存在は吐き捨てるように言いながらも、男の傍らに置かれた革鞄へ視線を落とした。

 手際よく折りたたまれた衣服、道中の糧食、そして「家族へのお土産にする」と語っていた小瓶詰めの乾燥ハーブ。

 彼が「帰る」という概念をどれほど重んじ、温かな形として大切に抱えているかが、鞄の身支度ひとつから如実に伝わってきた。


「君は、この外の世界へ出たことはないの? この森に留まる前は、色々な土地を渡り歩いていたんだろう。……ただの旅だと思って、もう一度外へ出てみないかい? 今度は僕が隣にいるんだ、絶対に退屈はさせないよ」


「振り返るような過去なんて持ち合わせていないわ。思い出す価値すらね。私はただ、この静寂な時間が落ち着くだけ。境界の向こう側の世界になんて、微塵も興味はない。……何度か魔力の『視覚』で遠くを覗き見たことはあるけれど――どこもかしこも騒がしく、脆く、恐ろしいほどに醜かったわ」


「それでも……僕は君に見てほしいんだ。僕が大切に思っている人たちを。……君がその手で奪ってきた人たちではなく、僕が命に代えても守りたいと思っている人たちの姿を」


「――奪う、ですって……?」


  ピキリ、と部屋の空気が凍りついた。

 存在の切れ長な瞳が、氷の刃のように研ぎ澄まされる。“奪った”というその一言に、不老不死としての絶対的な禁忌を触れられたかのように。


 しまった、と男は胸の中で青ざめた。

 彼女の望まぬ過去や背景を慮るあまり、説得に熱が入りすぎて攻撃的な言い回しになってしまったのだ。彼女から解き放たれた苛烈な魔力の圧が、痛いほど男の皮膚を刺す。

 だが――男は視線を逸らさず、逃げずに彼女の瞳を見つめ返した。


「それを見た上で、君がどう感じ、どう評価するかは完全に君の自由だ。でも……いまの君は僕の『妻』なんだよ。少なくとも、夫の隣に並んで歩く権利くらいはあるはずだ」


「……権利、ね」


 存在は静かに椅子へと腰を下ろし、思索にふける仕草を見せた。

 彼女の理性が「くだらない」と断じている。


 行く理由などどこにもない。守るべき対象もなければ、懐かしむべき過去も存在しない。

 人間の群れを観察したところで、得られる知識など取るに足らないゴミくずのようなものだ。

 なのに――。


(なぜこの男は、これほどまでに無価値で非合理的なものに、命がけの『価値』を見出すのかしら?)


 そう思考した瞬間、彼女の胸の奥底に、小さな『芽』が萌芽した。


 知りたい――否、あの男の滑稽な戯言を、高みの見物で「眺めてやろう」という、微かな好奇心。


「……少し、考えるわ」


 存在は椅子の上でしばらく無言のまま佇んでいたが、やがて軽やかな動作でふらりと立ち上がった。

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