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不老不死にはわからない  作者: ある
第一章 記録には残らないもの

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ただ知りたい

 存在は独り、静まり返った本部屋にいた。


 広い部屋に、足音は響かない。

 棚にびっしりと並んだ本の背表紙が、誰の目にも触れぬまま幾度も季節を越え、ただそこにある。

 そのうちの一冊――絵本を、存在は手に取った。


 かつて彼が音読していた、年季の入った薄い本だった。

 表紙には丸っこい動物たちが、焚き火を囲んで笑っている絵が描かれている。


 存在は椅子に腰を下ろし、ページをめくった。


 物語は単純だった。

 小さなリスが「家族をつくりたい」と言い、森の仲間たちを集めて“お母さん”や“お父さん”を決めて遊ぶ話。

 途中でけんかをしたり、仲直りをしたり。

 おやつを作って分け合ったり。

 そのなかで、いちばんよく出てくる言葉が、ふたつあった。


 『おかえり』

 『ただいま』


 子供たちが役割を交代しながら何度も繰り返す挨拶。

 たったそれだけの言葉が、まるで“魔法”のように描かれていた。


 最初はただ流し読みしていた存在の手が、ふと止まる。

 そのページには、夕暮れの森を帰ってきた“お父さん役”の子に、他の皆が走って駆け寄る絵。


 『おかえり!』

 『ただいま』


 たったそれだけの、短い応酬。

 だが、ページ全体が柔らかい光で満たされたような錯覚に陥る。

 文字には温もりが、絵には空気の重みがあるように見えた。


 存在は首をかしげた。


「……“帰る”とは、なに?」


 居場所を移すことなら、これまでやってきた。

 彼もまた、この家に来て、“帰る”と言って去っていこうとしている。

 だが、それはただの空間移動ではないらしい。

 “おかえり”と“ただいま”には、物理的な動き以上の意味があるようだった。


「なぜ、戻るたびに名乗る必要があるの?」


 “ただいま”は、既に帰ったことの報告。

 “おかえり”は、それに対する承認のような言葉。


 ならばそれは、確認の儀式か?

 契約の再確認?

 あるいは、「私はあなたを見ている」という証明?


 ページを閉じ、しばらく沈黙する。

 その言葉は、まるで呪文だった。

 空間を移動するたびに交わされ、何の力も持たないようでいて、なにかとても深いものを繋いでいるような。


 存在の中で、かすかに“知りたい”が膨らむ。


 この言葉の奥には、彼らにとって“家”と“誰か”を結ぶ何かがあるのだろうか。


 (もし……私が外から帰ってきたとき、彼が「おかえり」と言ったら?)


 その問いが浮かんだ瞬間、ぞわりと背中に寒気が走った。

 想像に過ぎない。

 けれど、あり得ないほど、深く、静かに心を揺らす問いだった。


「……帰るって、なに?」


 この家は、自分がいる場所。

 でも“帰る”という言葉の前では、それが「始まり」ではない気がする。

 帰るには、どこかに“出て行った”という前提が必要だ。

 そして“戻る場所”が存在しなければ成立しない。


 (じゃあ私は……どこからも出ていない?)


 何も始まっていなければ、何も帰れない。

 帰る必要もないし、迎える必要もない。


 この永遠に続く静寂は、始まりがなく、終わりもない。


 だが、彼は違う。

 彼はこの場所を仮の住まいとし、“帰る場所”をちゃんと持っているという。

 それを「守りたい」と言った。


 (私は……何かを“守りたい”と思ったことがある?)


 答えは、ない。

 殺すことも、奪うことも、忘れることすらあった。

 けれど“守る”というのは、どういう感情なのか――理解できない。


 ページの余白には、幼い筆跡でこう書かれていた。


 「おとうさんに、おかえりっていえると、あんしんする。」


 それは、この絵本の持ち主の子どもが、かつて記した走り書きだったのだろう。


 存在はそれを、しばらく眺めた。


 あんしんする。

 誰かが帰ってきて、「おかえり」と言えると、心が落ち着く。

 不在だった誰かが、また自分の世界に戻ってきたという証。


 存在は息をついた。


 (私がいなくなったとき、誰かが“おかえり”と、言う日は来るの?)


 それはきっとない。

 でも、もし――。


 あの男が、笑って、ただそれだけを言ったら。

 自分の存在を当たり前のように肯定してくれたら。


 その“言葉”が、世界を変えることもあるのだろうか。


 存在はそっと本を閉じ、立ち上がった。

 何も変わらぬ部屋。

 だが、先ほどとは少しだけ――“空気の密度”が変わった気がした。


 彼の言葉が思い出される。


「君が少しでも、僕のことを知ろうとしてくれたら――それだけで嬉しい」


 (知る必要なんてない。けど……)


 眺めてやっても、いい。


 その感情は、知識の探究ではなかった。

 獲物としての興味でもなかった。


 それは――たぶん、「関心」と呼ばれるものに近かった。





「…いいわ。付き合ってあげる」


 それはただの好奇心。

 けれど、その始まりが、何かを変えるきっかけになることもあると、存在は期待した。


「ほんとに?!」


「でも、ひとつだけ条件がある」


「うん、何でも言って」


「帰りの道中で“退屈した”ら、好きにしていい?」


 男は言葉の意味を測りながら、それでも笑った。


「退屈させないよう、頑張るよ」


 存在は肩をすくめた。


「せいぜい、ね」


 その日、彼女は初めて“外へ出る服”を選ぶという行動をした。

 服の選び方もわからず、選んだ服はとんでもなく奇抜で、しかも季節外れだったが、

 男はただ、「似合ってるよ」と言った。


 存在の唇が、ほんの僅かに歪んだ。


 それを「微笑み」とは呼ばない。

 ただ、少し風が動いたのだ。

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