ただ知りたい
存在は独り、静まり返った本部屋にいた。
広い部屋に、足音は響かない。
棚にびっしりと並んだ本の背表紙が、誰の目にも触れぬまま幾度も季節を越え、ただそこにある。
そのうちの一冊――絵本を、存在は手に取った。
かつて彼が音読していた、年季の入った薄い本だった。
表紙には丸っこい動物たちが、焚き火を囲んで笑っている絵が描かれている。
存在は椅子に腰を下ろし、ページをめくった。
物語は単純だった。
小さなリスが「家族をつくりたい」と言い、森の仲間たちを集めて“お母さん”や“お父さん”を決めて遊ぶ話。
途中でけんかをしたり、仲直りをしたり。
おやつを作って分け合ったり。
そのなかで、いちばんよく出てくる言葉が、ふたつあった。
『おかえり』
『ただいま』
子供たちが役割を交代しながら何度も繰り返す挨拶。
たったそれだけの言葉が、まるで“魔法”のように描かれていた。
最初はただ流し読みしていた存在の手が、ふと止まる。
そのページには、夕暮れの森を帰ってきた“お父さん役”の子に、他の皆が走って駆け寄る絵。
『おかえり!』
『ただいま』
たったそれだけの、短い応酬。
だが、ページ全体が柔らかい光で満たされたような錯覚に陥る。
文字には温もりが、絵には空気の重みがあるように見えた。
存在は首をかしげた。
「……“帰る”とは、なに?」
居場所を移すことなら、これまでやってきた。
彼もまた、この家に来て、“帰る”と言って去っていこうとしている。
だが、それはただの空間移動ではないらしい。
“おかえり”と“ただいま”には、物理的な動き以上の意味があるようだった。
「なぜ、戻るたびに名乗る必要があるの?」
“ただいま”は、既に帰ったことの報告。
“おかえり”は、それに対する承認のような言葉。
ならばそれは、確認の儀式か?
契約の再確認?
あるいは、「私はあなたを見ている」という証明?
ページを閉じ、しばらく沈黙する。
その言葉は、まるで呪文だった。
空間を移動するたびに交わされ、何の力も持たないようでいて、なにかとても深いものを繋いでいるような。
存在の中で、かすかに“知りたい”が膨らむ。
この言葉の奥には、彼らにとって“家”と“誰か”を結ぶ何かがあるのだろうか。
(もし……私が外から帰ってきたとき、彼が「おかえり」と言ったら?)
その問いが浮かんだ瞬間、ぞわりと背中に寒気が走った。
想像に過ぎない。
けれど、あり得ないほど、深く、静かに心を揺らす問いだった。
「……帰るって、なに?」
この家は、自分がいる場所。
でも“帰る”という言葉の前では、それが「始まり」ではない気がする。
帰るには、どこかに“出て行った”という前提が必要だ。
そして“戻る場所”が存在しなければ成立しない。
(じゃあ私は……どこからも出ていない?)
何も始まっていなければ、何も帰れない。
帰る必要もないし、迎える必要もない。
この永遠に続く静寂は、始まりがなく、終わりもない。
だが、彼は違う。
彼はこの場所を仮の住まいとし、“帰る場所”をちゃんと持っているという。
それを「守りたい」と言った。
(私は……何かを“守りたい”と思ったことがある?)
答えは、ない。
殺すことも、奪うことも、忘れることすらあった。
けれど“守る”というのは、どういう感情なのか――理解できない。
ページの余白には、幼い筆跡でこう書かれていた。
「おとうさんに、おかえりっていえると、あんしんする。」
それは、この絵本の持ち主の子どもが、かつて記した走り書きだったのだろう。
存在はそれを、しばらく眺めた。
あんしんする。
誰かが帰ってきて、「おかえり」と言えると、心が落ち着く。
不在だった誰かが、また自分の世界に戻ってきたという証。
存在は息をついた。
(私がいなくなったとき、誰かが“おかえり”と、言う日は来るの?)
それはきっとない。
でも、もし――。
あの男が、笑って、ただそれだけを言ったら。
自分の存在を当たり前のように肯定してくれたら。
その“言葉”が、世界を変えることもあるのだろうか。
存在はそっと本を閉じ、立ち上がった。
何も変わらぬ部屋。
だが、先ほどとは少しだけ――“空気の密度”が変わった気がした。
彼の言葉が思い出される。
「君が少しでも、僕のことを知ろうとしてくれたら――それだけで嬉しい」
(知る必要なんてない。けど……)
眺めてやっても、いい。
その感情は、知識の探究ではなかった。
獲物としての興味でもなかった。
それは――たぶん、「関心」と呼ばれるものに近かった。
「…いいわ。付き合ってあげる」
それはただの好奇心。
けれど、その始まりが、何かを変えるきっかけになることもあると、存在は期待した。
「ほんとに?!」
「でも、ひとつだけ条件がある」
「うん、何でも言って」
「帰りの道中で“退屈した”ら、好きにしていい?」
男は言葉の意味を測りながら、それでも笑った。
「退屈させないよう、頑張るよ」
存在は肩をすくめた。
「せいぜい、ね」
その日、彼女は初めて“外へ出る服”を選ぶという行動をした。
服の選び方もわからず、選んだ服はとんでもなく奇抜で、しかも季節外れだったが、
男はただ、「似合ってるよ」と言った。
存在の唇が、ほんの僅かに歪んだ。
それを「微笑み」とは呼ばない。
ただ、少し風が動いたのだ。




