ただ知りたい
男が身支度を終えて自室へ向かったあと、存在はひとり、静まり返った書庫にいた。
広い空間に、彼女の足音は響かない。壁一面の棚にぎっしりと並んだ本の背表紙が、誰の目にも触れぬまま幾度もの季節を越え、ただ静寂の中で時を重ねている。
その棚の片隅から、彼女は一冊の小さな本を手に取った。
かつて、男がどこからか引っ張り出し、拙い声で音読していた年季の入った薄い絵本だった。
使い古された表紙には、丸っこい動物たちが焚き火を囲んで楽しそうに笑っている絵が描かれている。
存在は近くの木椅子に静かに腰を下ろし、指先でページをめくった。
描かれている物語は至極単純なものだった。
幼いリスが「家族をつくりたい」と言い出し、森の仲間たちを集めて“お母さん”や“お父さん”という役割を決めてごっこ遊びをするお話。
途中で小さな喧嘩をしたり、すぐに仲直りをしたり。木の実でおやつを作ってみんなで分け合ったり。
その無邪気な物語の中で、いちばん頻繁に出てくる言葉がふたつあった。
『おかえり』
『ただいま』
子どもたちが役割を交代しながら、何度も嬉しそうに繰り返す挨拶。
たったそれだけの短い言葉が、まるで世界を温かく満たす“魔法の呪文”であるかのように描かれていた。
最初はただ流し読みしていた存在の手が、ふと止まる。
開かれたページには、夕暮れ色の森を帰ってきた“お父さん役”の子に、他の動物たちが弾けるような笑顔で駆け寄る絵が描かれていた。
『おかえりなさい!』
『ただいま』
ただそれだけの、他愛のない交わし合い。
だが、ページ全体が柔らかな黄金色の光で満たされたかのような錯覚に陥る。
描かれた文字にはどこかぬくもりが宿り、絵の中の空気には確かな重みと温度が存在しているように見えた。
存在は首を小さくかしげた。
「……“帰る”とは、一体なに……?」
拠点を移すだけのことなら、永い年月の中で何度となく繰り返してきた。
あの男もまた、この家に移り住み、そして今「帰る」と言ってここを去ろうとしている。
だが、彼の言うそれは、単なる空間の物理的な移動ではないようだった。
“おかえり”と“ただいま”という二つの響きには、ただの距離の移動を超えた、何か別の意味が込められている。
「なぜ……元いた場所へ戻るたびに、いちいち名乗る必要があるの?」
“ただいま”は、既にここへ戻ってきたという報告。
“おかえり”は、それを受け入れ、迎える側が差し出す承認の言葉。
ならばそれは、関係性を維持するための確認の儀式なのか?
契約の再確認?
あるいは、「私たちはこれからも同じ時間を共に紡いでいく」という不可視の証明なのだろうか。
ページを静かに閉じ、彼女はしばらく沈黙に沈んだ。
その言葉は、まるで不可思議な呪文だった。
場所を移動するたびに交わされ、何の物理的な力も持たない言葉。それでいて、人間の心の最も深い部分を力強く繋ぎ止めているような。
存在の中で、かすかに『知りたい』という芽が膨らんでいく。
この素朴な言葉の奥には、人間たちにとって“家”と“誰か”を結びつける、何か特別なものが存在しているのだろうか。
(もし……私が外の世界からこの家へ帰ってきたとき、あの男が「おかえり」と言ったら……?)
その問いが脳裏に浮かんだ瞬間、ぞわりと背筋に冷たい寒気が走った。
ただのくだらない想像に過ぎない。
それは、あり得ないほど深く、静かに彼女の心を揺さぶる問いだった。
「……帰るって、なに?」
この家は、いま自分が存在する場所。
けれど“帰る”という言葉の前では、ここが「すべての始まりの場所」ではないような気がしてくる。
帰るためには、まずどこかへ“出て行った”という前提が必要だ。
そして、いつか“戻ってくる場所”があらかじめ存在していなければ、成立しない概念なのだから。
(じゃあ私は……どこからも出て行っていない……?)
何も始まっていなければ、どこへも帰れない。
帰る必要もなければ、誰かを迎える必要すらない。
この永遠に続く静寂は、始まりもなく、終わりもない。
だが、あの男は違う。
彼はこの場所を一時的な仮の宿りとし、“帰るべき場所”を胸の中に確かに抱いているという。
そして、それを「守りたい」と誇らしげに語った。
(私は……何かを“守りたい”と欲したことが、一度でもあったかしら?)
答えは、否。
男が奪うと言ってのけた選択も、殺すことも、忘却の彼方へ突き落とすことすらあった。
あの“守る”という感覚がどういう感情なのか――永遠を生きる彼女には、何ひとつ理解できなかった。
ふと視線を落とすと、絵本の余白に、幼く稚拙な筆跡で小さな書き込みが残されていた。
『おとうさんに、おかえりっていえると、あんしんする。』
かつてこの館に住んでいた幼子か、あるいは誰かが幼少期に記した走り書きだったのかもしれない。
存在は、その拙い文字をじっと見つめ続けた。
あんしん、する。
誰かが無事に戻ってきて、「おかえり」と声をかけられると、胸の奥が温かく落ち着く。
不在だった誰かが、再び自分の世界へと無事に戻ってきたという確かな証拠。
存在は静かに息を吐き出した。
(私がどこかへ消えたとき……私に向かって“おかえり”と、言う者が現れる日は来るのかしら?)
そんな日は、きっと来ない。
でも、もし――。
あの男が、あの柔らかい笑みを浮かべて、ただ当たり前のようにその言葉を口にしたら。
自分の存在を、この世界に在って当然のものとして肯定してくれたとしたら。
たったそれだけの“言葉”が、この歪んだ世界を塗り替えてしまうことも……あるのだろうか。
存在はそっと本を棚に戻し、ゆっくりと立ち上がった。
何も変わらない無機質な書庫。
だが、先ほど立ち入った時とは少しだけ――部屋を満たす空気の密度が変わったような気がした。
男がまっすぐな目で語っていた言葉が、胸の奥で再生される。
『僕という人間を、少しでも知ろうと歩み寄ってくれたなら――それだけで、僕は心から嬉しいんだ』
(知る必要なんて、微塵もないわ。けれど……)
高みの見物で、眺めてやってあげてもいい。
その想いは、もはや知識の探求ではなかった。
獲物を品定めするような冷徹な興味でもない。
それは――きっと人間たちが「関心」と呼ぶものの、最初の一歩に違いなかった。
部屋に戻ってきた彼女は、旅の支度を終えて待っていた男を静かに見下ろした。
「……いいわ。付き合ってあげる」
それは、ただの気まぐれな好奇心。
けれど、その始まりが、自らの止まった刻を動かすきっかけになるかもしれないと、彼女自身も心のどこかで微かに期待していた。
「ほんとに……?! 一緒に来てくれるかい?」
「ええ。ただし、ひとつだけ条件があるわ」
「うん、何でも言ってくれ」
「帰りの道中で私が“退屈”したと感じたら……その場にいる人間を、好きにさせてもらうわよ?」
それが恐ろしい脅迫であることを理解しながらも、男は破顔して笑ってみせた。
「君を退屈させないよう、全力を尽くすよ」
存在は小さく肩をすくめた。
「せいぜい、励むことね」
その日、彼女は生まれて初めて「外の世界へ出るための服」を選ぶという行動を起こした。
衣服の選び方など知る由もない彼女が奥の衣装箪笥から選んだのは、やたらと生地が重なったフリルだらけの奇抜なドレスで、しかも今の季節には全くそぐわないものだった。
男はそれを見て呆れるどころか、心底愛おしそうに言ったのだ。
「すごく似合ってるよ。可愛いな」
存在の唇が、ほんの僅かに歪んだ。
それを人間たちは「微笑み」と呼ぶのかもしれない。
しかし、彼女にとってはただ、凍てついた世界にほんの少しだけ、温かな風が吹き抜けただけのことに過ぎなかった。




