夢の料理②
家に戻ると、男は慣れた手つきで炉に薪をくべ、焚き火の準備を始めた。そのすぐ横で、存在は見よう見まねで包丁を手に取る。
その身には、可憐なフリルがあしらわれた軽やかな前掛けが着けられていた。男としては、せっかくなので屋敷に残されていた本格的なエプロンを着用してほしかったのだが、彼女にあっさりと却下されてしまい、妥協案として最低限の汚れ防止としてこの軽やかなエプロン風の着け心地に留めたという経緯があった。
しかし、それがかえって彼女の清廉な佇まいに絶妙な可憐さを添えている。
男は澄んだ水で野草を洗い流し、獲物の肉の下ごしらえを進めながら優しく語りかけた。
「包丁を入れる時はね、刃を後ろへ『引く』ように動かすと綺麗に切れるよ。上から力任せに押し潰すと、せっかくの繊維や肉汁が台無しになっちゃうからね」
「なるほど……押し切るのではなく、『引く』のね。……ふふ、なんだか君との会話みたいだわ」
「会話? どういう意味?」
「こっちが鋭く切り込もうとすると、君は上手いこと身を引いてかわしてしまう。でも、ふとした瞬間に君のほうがふっと引いた時だけ、不思議と私の言葉が深く通ってしまうのよ」
「……ああ、それなら君だって同じさ。氷のように冷ややかな皮肉に見えて、その裏に隠された本音の包丁こそが、一番鋭く僕の胸を刺すんだから」
存在はくすりと口元を緩めた。
「なら、言葉の切り合いなんてしないで協力するほうが、美味しい料理を作るのには向いているわね」
「はは、それが『夫婦の味』を作るコツってやつかな」
「便利な言葉ね……夫婦、だなんて」
「便利で、そして何よりあたたかい言葉だよ」
そんな他愛もない軽口を交わしながら、調理は穏やかに進んでいく。
男の手ほどきのもと、存在の手によって生まれて初めて炒め上げられた料理は、香ばしい湯気とともに思いのほか食欲をそそる芳醇な香りを部屋中に漂わせた。
食卓に温かな湯気が立ち上り、ふたりは並んで席に着く。
素朴な木製の皿に盛られた料理を、男が木匙で一口口に含み――次の瞬間、驚いたように目を見開いた。
「……すごいよ、美味しい! ほんとうに美味しいんだ」
「嘘ばっかり。初めて、抜けがなく作ったにしてはマシって程度でしょう?」
「ううん、本当さ! 君が一緒に手を貸してくれたから、僕の味もガラリと変わったんだ。……もちろん、最高の方向にね」
「……それは、君の夢に出てきた私よりも?」
「うん。夢の幻影なんかより、今ここにいる君のほうが……ずっとずっと、大好きだ」
存在はすぐには言葉を返さず、黙って己の作った料理を一口、口へと運んだ。
静かに噛み締め、その味わいを確かめるように咀嚼したあと、小さく深く頷く。
「……たしかに。悪くないわね。……『美味しい』って、こういう気分のことを言うのね」
「でしょう?」
「……これは少し、癖になってしまうかもしれないわ」
その口ぶりはどこまでも淡々としていたけれど、その横顔には隠しきれない小さな誇らしさが滲み出ていた。
そして男もまた、そんな彼女の愛おしい変化を、誇らしげな眼差しで見つめ続けていた。
翌朝。
昨日と変わらず東の空から柔らかな陽が昇り、静謐な空気が部屋を包み込んでいた。
男がゆっくりと目を覚ますと、すでに起きていた存在が、手拭いで静かにテーブルの上を拭き清めているところだった。
「……今日の朝食はまだかしら?」
「やあ、おはよう。毎朝真っ先に期待してもらえるなんて光栄だな」
男が微笑みながら炉に火を起こそうと立ち上がった時、存在がふと、どこか躊躇うような声で引き留めた。
「……ねえ。私、夢を見たの」
「へぇ! ついに君も夢を見たのかい?」
「……ええ。ほんの少しだけれど。……不確かで、儚い感覚。ほんの短い一瞬の景色よ。私が……誰かのために料理を作って、その人と並んで食卓を囲んで食べていたの。それが、驚くほど美味しくて……すごく、楽しそうだった気がするわ」
彼女の言葉には、どこか未知の体験に対する戸惑いが混ざり込んでいた。
存在は椅子に静かに腰を下ろし、机の端をなぞるように細い指先を滑らせながら、ぽつりと続ける。
「なんというか……夢の中にいた私は、今の私よりももう少し……上手な笑い方をしていた気がするの。ねえ……夢って、そういうものなの? 少しだけ『あり得たかもしれない自分』を見せるようなもの?」
男は薪に火をくべる手を止め、穏やかな眼差しで深く頷いた。
「うん、きっとそうだと思うよ。心の中に残った大切な想いの余韻みたいなもので……だからこそ、目覚めたあとも忘れたくないって思うんだ」
「……忘れたくない、ね」
存在は一瞬だけ、真剣な眼差しで男を見つめ返した。けれど、すぐにいつものような、どこか意地悪で愛おしい笑みを唇に浮かべる。
「でも残念ね、その夢の中に君は出てこなかったわ」
「えっ! そこはせっかくなら僕が出てきてくれても良かったんじゃない……?」
「仕方ないでしょう、夢なんて勝手に見るものなんだから。……まあ、そのうち招待してあげるわ、特別にね。もし、上手く夢を操作できたら……けれど」
男はくすりと胸を撫でおろすように笑った。
「楽しみに待っているよ。何か素敵な手土産でも持っていこうかな」
「夢の中へ手土産? ふふ、よほど現実でも私に下手に出るのが性に合っているのね。……まったく、君らしいわ」
存在は少しだけ肩をすくめ、照れくささを隠すようにふいっと窓の外へ視線を向けた。
澄み切ったガラスの向こうには、今日も変わらない、美しく静かな森の風景がどこまでも広がっている。
「でも……確かに、昨日は悪くない一日だったわ」
その呟きは、まるで自分自身の胸に深く刻みつけるかのように優しかった。
男はその愛おしい背中に温かな眼差しを向けながら、湯の張られた鍋を火にかける。
「じゃあ、今日も昨日みたいに『悪くない』一日にしようか。夢の中に負けないくらいにね」
「……ええ。現実は……夢よりずっと、味が濃いものね」
二人の新しい朝が、静かに紡がれ始めていた。
夢と現実の曖昧な境目に、確かに消えることのない、温かなぬくもりを残したまま。




