夢の料理①
朝の陽光が、静かに食卓を照らしていた。
焼きたての香ばしいパンと、昨夜のスープを温め直した湯気が立ち上り、部屋の中に優しい匂いが広がる。
男がいつもの手慣れた足取りで台所を動き回り、存在は向かいの席に腰掛けて、黙って料理が運ばれてくるのを待っていた。
「……ふぅ。今朝はなんだか、いい夢を見たな」
寝起き特有の少し掠れた声で、男がぼそりと呟いた。夢の余韻に浸っているのか、手に持った匙がピタリと止まっている。
「……どんな夢?」
手元でパンを小さくちぎりながら、存在はあまり興味のなさそうな口調で問い返した。
ちぎったパンを静かに口元へと運ぶ。
「君がね、僕のために料理を作ってくれたんだよ。それが驚くほど美味しくてさ……なんだか、ものすごく幸せな気持ちになったんだ」
「……それって、現状の私の料理の腕前が毒殺程度だって暗に言いたいわけ? 随分と嫌味な趣味ね。夢の中でまで私を貶めるなんて」
「いやいや、今の君のことを言ったわけじゃないよ。でもね、夢の中の君は本当に優しくて……可愛いエプロンなんて身に着けて、ふんわりと微笑んでくれて――」
「エプロン姿……? それ、料理の内容というより完全に君の個人的な嗜好の世界じゃない。まさか日頃から私に『そういう格好をさせたい』なんて不埒な願望でも抱いているの?」
「え、いや! 別にそういう良からぬ意味じゃなくて――」
ふと、男の脳裏に屋敷の奥にあったあの空き部屋の記憶が過ぎった。
かつて家政婦か給仕の者が使っていたと思われるその部屋の衣装箪笥には、くたびれてはいたものの、華やかなフリルが施された衣服が幾着も飾られていた。
あの上品な衣装を身に纏い、自分のために微笑む彼女の姿を無意識に想像してしまう。……あまりにも似合いすぎる、いや、可憐すぎる光景を思い描き、男の顔は思わずニタついた。
「……図星のようね。やっぱり料理なんて関係ないじゃない。私は自分で作るより、出されたものを食べるほうが性に合っているわ」
存在はあきれたように溜息を吐き出しながらも、目の前の皿から料理を一口ずつ丁寧に味わっていた。
彼女はどれほど毒づこうとも、食卓に出された料理を残したことは一度もない。味への不平不満を直接口にすることもなかった。ただ毎朝、食後の挨拶代わりに小気味よい皮肉がついてくるだけだ。
「……ねえ、君は夢を見ないのかい?」
男がふと問いかけると、存在は細い目をさらにすっと細めて、遠くを見つめた。
「……眠りにつく深淵で、何かが静かに揺らめいているような感覚なら、あるわ。でも……目が覚めた瞬間にはすべて消え去っている。断片すら残らないわね。それを果たして『夢』と呼んでいいのかしら」
「……そうかもしれないな。でも、僕たちの夢は目覚めたあとも残るんだ。感情の余韻とか、断片的な景色とか。……自分が大切にしている記憶だったり、切望している未来、時には不安な影としてね」
「ふうん……ずいぶんと面倒で複雑な頭の構造をしているのね、人間って。ただ横になって眠るだけの行為に、どうしてわざわざそんな余計な感情を付け足すの」
「でもね、それがあるから……朝起きたときの景色が、少しだけ明るく見えることもあるんだよ。たとえば今日の夢みたいに……『君がちゃんと僕の妻だった』って、思えるようにね」
「単に頭が寝ぼけていただけでしょう?」
「それでも、本当に楽しかったんだ。君とこうして食卓を囲んで、ふたりで一緒に料理をして……ただそれだけのことが、胸に沁みるほど愛おしく感じられたんだよ」
存在はパンのかけらを口に含みながら、ちらりと男の顔を見やった。
その切れ長な瞳が、一瞬だけ揺らいだように見えた。けれど彼女はすぐに表情を打ち消し、口を開く。
「……なら、今日は気まぐれで『夢の真似事』に付き合ってあげるわ。料理でしょう? 自分でも少しは火を使えるようになっておけば……君の作るものに文句を言わずに済むものね」
「それは助かるよ。でも本音を言えば、僕への愛する夫への奉仕って理由だと嬉しいな」
「ふふ……どうだか? 夢の幻影のままにしておいた方が、君のためじゃない?」
そう言って、彼女の唇に小さな笑みが浮かんだ。皮肉めいてはいるけれど、どこか柔らかさを帯びた笑み。それを見て、男も穏やかに微笑み返した。
朝食を終えたふたりは、小さな籠と手道具を携えて外へと踏み出した。
朝露に濡れた草木が光を反射し、涼やかな風が静かに吹き抜けていく。まだ朝の爽やかな匂いが残る深い森の小径を、ふたりは並んで歩いていく。
特別に言葉を交わすわけではなかった。けれど、そこには心地よい静寂が満ちていた。
今日摘み取る野草、狩り取る獲物、くべる焚き火の匂い。
それらはまだ形のない素材に過ぎないけれど――やがて温かなひとつの「夢」の味へと昇華していくのだろう。
陽が高くなり始めた頃、ふたりは森のひらけた場所へと辿り着いた。
澄んだ空気に鳥たちのさえずりがよく響いている。存在は小さな籠を片手に腰をかがめ、野草の生い茂る草むらを観察していた。男は少し離れた場所で、仕掛けておいた小動物用の罠を点検している。
「これ……食べられるの?」
「うん、それは炒めてもいいし、乾燥させて保存しても使えるよ。香りが立つから、肉料理と合わせるとすごく美味しくなるんだ」
「へえ……。なら、ここにも生えているわね」
存在は草むらにしゃがみ込み、湿った土から伸びる柔らかな緑を指先で摘み取った。手つきこそどこか慣れない様子だったが、扱う動作は非常に丁寧だった。
男は作業の手を止め、遠目からその佇まいをじっと見つめる。そして、ふっと目を細めた。
「……やっぱり、よく似合うな」
「何がよ」
「『妻らしさ』ってやつさ。きっと今朝見た夢の名残なんだろうけど……こうしてふたりで朝の森に立っているだけで、なんだかすごく嬉しいんだ」
存在は摘み取った葉を慎重に籠の中へと落とした。そして、小さく鼻を鳴らす。
「相変わらず安上がりな男ね。草摘みひとつで浮かれるなんて、頭の中が脳天気すぎるんじゃない?」
「そうかもしれないね。でも……君と一緒に何かを作り上げていく時間が、僕はただ愛おしいんだ」
「……ふうん」
存在はそれ以上何も答えなかった。けれど、籠を見つめるその横顔は、ほんの少しだけ柔らかく解けていたのだった。




