鏡の存在
ある日、僕は彼女に「自分専用の作業部屋が欲しい」と申し出た。
毎日、彼女の寝室の床に毛布を敷いて眠るだけでは、どこか居心地の悪い虚しさを感じていたし、何より自分の調べ物や作業に集中して没頭できる落ち着いた空間が欲しかったからだ。
「好きにすればいいでしょう」と軽くあしらわれたものの、見張りも立てずに勝手に屋敷を歩き回ることを許してくれたのは、彼女が僕を『一切害のない生き物』として、ほんの少しだけ認めてくれた証拠なのかもしれない。
屋敷中の部屋をいくつか調べ歩き、ようやく光の差し込む静かな一室を見つけ出した。
かつてここに暮らしていた誰かも、僕と同じように本や自然を好む学者気質な人物だったのだろうか。整然とした本棚があり、今ではカラカラに乾いた土だけが残る古い植木鉢がいくつか並んでいた。まさに僕にとって理想的な空間だ。
僕は森で見つけた野草を瓶に挿して飾り、本や道具を並べ直して、居心地の良い自分の作業場へと少しずつ模様替えを重ねていった。
「……よし、記録を残しておこうか。この森の深部にて新種の植物を発見。既知の分類体系のいずれにも合致しない。葉脈の走り方、花弁の構造、茎の質感……そのすべてが未知の領域にある。長きにわたり誰の手にも触れられず、ここでひっそりと、強く可憐に何百年、何千年と咲き誇り続けてこられたのは……おそらく、この不老不死の……」
すらすらと滑らせていたインクペンを、僕はふと止めた。
「……ううん、ダメだな。これじゃ僕の勝手な感情が入りすぎている。彼女に関する記述や情報は不要だ。何も書かないことこそが、この森を永遠の庭のように美しく保ち続ける最善の道なんだから」
ペンを置き、僕はふと彼女の自室の光景を思い浮かべる。
何も置かれておらず、飾り気も生活感もない、無個性で静まり返ったあの部屋。彼女が自ら家具を捨てたようには思えない。おそらく最初から、あの部屋には何もなかったのだ。客人用として用意され、誰にも使われないまま放置されていた空間。
――他者からの干渉が削ぎ落とされたあの無の空間こそが、かつての彼女にとって最も心を休められる場所だったのだろう。
「……そうだ。良いことを思いついたぞ」
翌日、僕は屋敷に残された数ある空き部屋のひとつへ足を運んだ。
かつてこの館の奥方が使っていたと思われるその部屋には、繊細な浮き彫りが施された化粧台や重厚な衣装箪笥、そして優美な模様のレースカーテンが残されていた。気品漂う装飾品、泥臭い作業を好む僕のような男の風貌には、いささか不釣り合いな代物だったけれど。
部屋の一隅に、陽の光を浴びて静かに佇む大きな姿見鏡があった。
「はぁ~……これは立派で大きな鏡だな」
感心しながら呟き、鏡の縁へ手を伸ばした、その時だった。
気配もなく、スッと引き戸が開き、存在が部屋の中へと足を踏み入れてきた。
「……何をしているの?」
「うん。この鏡をね、君の部屋に飾ろうかと思って」
「どうしてそんなことをするの?」
「君の部屋は、少し味気ないからさ。何かひとつでも飾ったほうが、部屋の中に彩りが生まれて良いだろう? それに……毎日、鏡の中に映る自分自身の変化を確認するのって、案外楽しいものだよ」
「……見つめたところで、私は何も変わらないわ。仮に何かが変わったとして、そこに何の意味があるのよ」
淡々と、感情を削ぎ落とした声で彼女は言い放つ。
けれど僕は、そんな彼女の呆れ顔にむしろ穏やかな笑みを返し、力強く言葉を続けた。
「意味ならあるさ。だって今の君には僕がいるんだから。自分自身の小さな変化を見せて、愛でてくれる相手がいるのなら、その変化を目一杯楽しんだって罰は当たらないはずだよ」
「……よく、わからないわ」
僕は彼女の細い肩にそっと手を添え、優しく導くようにして鏡の前へと立たせた。
二人が並んで鏡の前に立つ。無言のガラスの奥で、異質な二つの影が静かに重なり合っていた。
「ほら、見てごらん。僕の隣に、こんなにも可愛い妻が立っている。僕はそれだけで、鼻が高いし誇らしい気分になれるんだ」
「……やっぱり、わからないわ」
彼女はわずかに目を細め、鏡の中の自分の姿から照れくさそうに視線を逸らした。
「最初はくだらないことでいいんだ。たまにでいいから、鏡に映る自分に向かって、優しい言葉をかけてみるといい。それだけでいいのさ。……もし自分に言葉をかけるのが気恥ずかしいなら、僕が何度だって君に伝えるよ。君は本当に可愛い。『これから』先も、きっとそうだ」
僕のまっすぐな言葉を受け、彼女はふっと小さく鼻を鳴らした。
けれど、その頬は心なしか朱を帯びているように見えた。
「……まあ、部屋に置いてあげるくらいなら、付き合ってあげてもいいわ。それより君は……もう少し自分自身の身なりを改めたらどう?」
そう言って、彼女は僕の上着の裾を指先でちょんと突ついた。
「ボタンの糸が、ほどけかけているわよ」
指摘された胸元を見下ろし、僕は降参するように苦笑いを漏らしたのだった。
夜明け前。
まだ夜の濃い闇と朝の白みが混ざり合う薄明かりの中、存在は静かにひとり、姿見鏡の前に立っていた。
寝間着のまま、無造作に肩へ垂れた銀糸のような髪を、細い指先でそっと梳きながら。
部屋の片隅には、先日男が森の野草とともに持ち帰った、名も知らぬ小さな白い花が花瓶に挿してある。
かつての存在なら、部屋に花を飾る習慣も意味も知らず、一顧だにせず捨て去っていたはずだった。けれど、彼女はそれを捨てることなく、静かにそこに置いたままにしていた。
鏡に映り込んでいるのは、相変わらず淡く冷ややかな己の顔。
永い時を経ても変わることのない無機質な目元と、感情の失われた表情。
……それでも。ほんのわずかに、何かが今までと違って見える気がした。
「……愚かで、くだらないわね」
自嘲するようにぽつりと呟いたあとも、存在は鏡の中の自分から目を逸らさなかった。
そして、滑り出すように言葉を続ける。
「……おはよう、可愛い私」
声に出した瞬間、あまりの気恥ずかしさに唇を噛み締め、自嘲気味にふっと息を漏らす。
けれど、その言葉にはどこか、今までの彼女にはなかった微かな温もりが宿っていた。
自分でも無意識のうちに、すっと眉が動く。胸を突く違和感と気恥ずかしさ、そしてそんな愚かな自分を失笑するような諦めが、ほんの一瞬だけ彼女の顔をかすめて消えていった。
そしてまた、別の日。
彼女は吸い寄せられるように、再び鏡の前に佇んでいた。
どういう風の吹き回しか、朝晩にこうして鏡と向き合うことが、最近の彼女の密やかな日課になりつつあった。
あの男の戯言を鵜呑みにして、この重厚な鏡を自室に置くことを許してしまった。
「自分自身の変化を見ろ」だの、「部屋に彩りが生まれる」だの……くだらない甘言に乗せられて。
けれど、彼の勧めでこの鏡を部屋に運び込ませたのは、紛れもない彼女自身の意志でもあった。
「……はぁ」
溜息をつくことすら何の意味もなさないと知りながらも、微かな吐息が口から漏れ出す。
鏡の中に立ち尽くすのは、昨日とも、遥かに遠い以前とも変わらない己の姿だ。
何ひとつ変わらない。不変であり続けることこそが存在の絶対的な誇りであり、誰とも繋がらない孤独こそが、当たり前の生き方だったはずだ。
――それなのに。
ほんの少し、髪筋が乱れているだけで、不思議と目につくようになってしまった。
衣服の襟元がわずかに歪んでいるのも気にかかる。
存在は無意識に手を伸ばし、服の皺をそっと指先で伸ばした。ほんの気まぐれに、整える。
そんな自分の動作を鏡越しに凝視し、ふと、胸の奥で嘲笑が湧き上がる。
(ふふ、……まさか私、彼に『見せる』ために身なりを整えているとでも思っているの?)
馬鹿馬鹿しい。そんなもの、滑稽にも程がある。
人間の……あんなちっぽけな男の影響を受けているだなんて、笑い話にもならない。
『君は可愛いよ』
あの時、まっすぐな瞳で恥ずかしげもなく宣いおった、男のあの滑稽な顔。
本当に馬鹿じゃないの。
あんな安っぽく使い古された言葉に、意味なんて――。
……意味なんて、あるわけが、ないのに。
「……おはよう」
またしても、小さく声が漏れ出てしまった。
冗談のようだ。
鏡に映る自分に向かって「おはよう」などと挨拶を繰り返すなんて。
……これはただの習慣だ。
そう、これは単なる『観察記録』に過ぎない。
時間に及ぼす変化があるかどうか、自分自身という実験体を通して経時的に確認作業を行っているだけだ。決して、感情の萌芽などではない。興味でもない。ただの冷徹な観察記録。
自分自身にそう固く言い聞かせながら――。
「まったく、くだらないわね……本当に」
ほんの僅かだけ、己の口角が柔らかく上がったのを、澄んだ鏡面は見逃さなかった。
鏡の中の自分の笑みに気づき、彼女はすぐさま表情を冷ややかな仮面へと戻す。
元に戻せばいい。何事もなかったかのように、打ち消してしまえばいいのだから。
それなのに、なぜだろう。
夜になり、静寂が部屋を支配すると、あの男が残していった言葉がふっと脳裏を過るのだ。
『君は本当に可愛い。これから先も、きっとそうだ』
鏡の中の自分を見つめ直し、激しく否定する。
けれど否定すればするほど、また唇の端が愛おしそうに緩んでしまう。
この胸の不快な揺らぎを、彼女は決して「変化」とは認めない。
これはただの病気だ。一時的な感情の錯乱。
人間が使う『言葉』という質の悪い病原体が引き起こした、一過性の軽い錯覚に過ぎない。
そうやって自分に言い聞かせ、またひとつの夜が終わっていく。
そして、翌晩、彼女はやはり言い訳を胸に携え、静かに鏡の前に立つのだった。
「ただの確認作業」という、都合の良い正当化を抱きしめながら。
ある日、ふたりが肩を並べて台所へ向かって廊下を歩いていた時のこと。
「ねぇ、上着のボタン、また緩んでいるわよ。鏡で確認してきたらどう?」
「うーん、あの鏡は僕のじゃないからなぁ。あれは君の部屋の、君のものだろう?」
「何を言っているの。鏡なんてただの飾り、光を映し出す道具に過ぎないわ。それを見るかどうかは、こっちの都合でしょう?」
「ははは、確かにそれを言ったらなんだってそうだな」
軽口をたたき合いながら並んで歩く二人の背後で、部屋の隅に置かれた大きな姿見鏡が、楽し気な二人の影を静かに映し出していた。
鏡は何も語らない。ただ、確かにそこには、寄り添う「ふたり」の姿が存在していた。
そしてそれは――きっと静かな変化の兆しであり、すでに始まっている「変化そのもの」であった。




