18
4回目の冬が迫る季節。
僕は無断借用していた自転車を元の場所に戻した。
大量の使用済みガス缶は10袋以上に分けて、あちこちのゴミステーションに分けて出した。
明らかに不要な物は元あった店の棚に戻し、一方で白髪染めを持ち帰った。
40代半ば過ぎだった僕も50歳が目前だったが、年齢よりも増えた白髪が気になった。
大異変の前までは安アパートに引き篭もっていても最低限の身だしなみは意識していた。自分の格好に無頓着になれば元に戻れなくなる気がしていたからだ。しかし大異変に気付いた以降は身だしなみはしばしば忘れ、白髪が増えている事にも気が回らなかった。風呂に入る事が難しい生活になったからという言い訳はあるが、ボサボサ頭で街をウロウロしていた事には変わりない。
僕はハサミで髪を切り、白髪を染め、お湯を沸かして頭を洗った。
自分で散発するのは出来が気になるところだが、ボサボサの頭よりはマシになったと思う。頭がすっきりして気分もすっきりした。
僕は煙草を調達する為に少しはなれたコンビニまで歩く事にした。
安アパートを出てすぐの交差点で、あの歪んだ丸い影が蠢いていた。
その動きはまるで虫みたいに不規則かつ機械的で、生命体の動きには思えなかった。とても気持ちの悪い動き方だ。しかし僕は怯える事にも飽き、影を一瞥して目的地に向かった。
(影が僕を見つけ出そうとするピントも随分正確になってきたみたいだ)
あの影が僕を探していると考えてみると、その行動には何かの規則性があるように感じられた。それは光や音や振動などの五感に相応するものには反応しない事から、他の特殊な何かから僕の存在位置を割り出そうとしているように考えられた。
そもそもあの影には実体がない。実体はないが存在しているという痕跡が影になって目に見えているに過ぎないとさえ言えるだろう。実体は無いのに存在しているとすれば、それは世間一般の常識とは異なった存在だろう。
影に対する未知の恐怖に怯える事に飽きたのも、もしかすれば僕が影に怯えるのと同様に、影も僕の存在に怯えているのかもしれないと思ったからだ。
未知のものとは本当に怖いものだ。
その怖さは理屈ではなく、「わからない」という知識と理解の欠如によるものだろうと僕は思う。
少なくとも僕は歪んだ丸い影が何なのかわからないし理解も出来ない。世間一般の常識とか異なっている存在だからだ。だから怖いと思い怯え続けてきた。
だが五感とか物理法則とかという根本的なところから異なった存在であれば、理解できないのは当然だし、相手の影も僕を理解できないのではと思ったのだ。
この考えが正しいのかどうかはわからないが、重要なのは僕がわからないという事を理解したという事だ。
僕に何がわかるか?
50年近く生きてきて、わからない事だらけだ。
そのわからない事に謎の影というひとつが増えただけで、僕の何が変わるというのだ?
僕はコンビニで煙草を適当に手に取り、棚の扉を開けてカートンを取り出した。レジカウンターの中で煙草に火をつけ、カートンを小脇に抱えて店を出た。煙草の銘柄などはこの3年半の間で既にどうでもよくなっていた。電子煙草でなければ何でも良かった。
帰り道で歪んだ丸い影を探した。先程の場所から移動していて、1区画離れたマンションの影の中に潜んでいた。本物の影ではないので普通の影と重なると僅かに影の濃さが変わる事に最近気付いた。もしかすればこれまでも僕が気付かないところで結構近くに出現していたのかもしれない。
僕は安アパートの部屋に戻り、ドリップコーヒーを入れた。インスタントではなく。
コーヒー豆をフライパンで炒り、香りが立つと火を止めて少し冷ます。ペーパーフィルターを用意して湯を沸かし、ゆっくりと注いだ。3年半前のコーヒー豆だが問題無い味と香りであろう。
僕は日当たりの悪い窓から夕暮れの空を眺めた。
もうじき日は暮れて街が闇に包まれる。地上より星空のほうが明るい世界になる。
怖くないと言えば完全に嘘だ。だが僕は歪んだ丸い影から逃げる事をやめる事にした。
影が僕を察知し、その影に僕を飲み込もうとしているのなら、飲み込まれてやろうと思った。
怖さはどうしても消し去る事が出来なかったが、他の感情も様々に湧き上がって怖さを麻痺させた。怒り、困惑、疑念、絶望、失意、希望、孤独で何も無い日々からの開放、この誰もいない街で僕と影だけだったという同胞の念さえ感じていた。
コーヒーを飲み、煙草を吸い、静かで平穏な毎日を過ごしながら、影が僕を飲み込む時を待った。
ある日の夕方、西日で暗くなった部屋の壁に、歪んだ丸い影がいた。
影は周囲を検査するように不規則に細かく動いていた。まだ僕の正確な位置を把握できていないようだ。
僕は様々な感情がわきあがっては乱れる気持ちを落ち着かせようとした。何事も無いようにコーヒーを飲み、煙草に火をつけた。
影は壁に沿って僕に近付いてきたが、壁伝いでは僕に接触できないだろう。ただ見ているだけというのももどかしいものだ。とりあえず煙草を吸い終わるまでは眺めていよう。僕は鬱屈した気分の怠惰な中年なのだから何も慌てる事はない。どうせこの影には時間という概念も無さそうだ。
日が沈んで部屋の中が暗くなっても、僕には影が見えた。以前なら気付かなかっただろうが、注意して観察すればわかる。
影は探り探りといった感じで遂に僕の足元に達した。
「僕は、ここだ」
僕は立ち上がって、歪んだ丸い影を踏んだ。
その瞬間、踏んだ足が真っ黒に染まった。影が瞬時に僕の体に張り付いたのだろう。僕の動体視力よりも早く全身を影に覆われ視界さえ真っ暗闇になった。まるで電気のスイッチを消した時のようだ。不安は感じたが別に怖くない……いや恐怖心は確かに感じたが耐えられない程ではない。やはり様々な感情が僕の頭の中で渦巻き、形容しがたいものになっていた。
視界を影に覆われ漆黒の暗闇の中のようになり、僕は自分の状況が理解できなくなった。立っているのか倒れたのか、落とし穴に落ちたようでもあり、肉体を失ってしまったかのようにも感じられ、何処にいるのかわからなくなった。
何も見えない闇の中で、僕は何かが間近を過ぎ去っていく何かを感じた。その何かはかつて夢で見た切り絵のようなバラック小屋であったり、幼少の頃に見た夏の日差しに焼けたホーロー製のコカ・コーラの看板の匂いであったり、何処かの病院の廊下の気配など様々だった。そういった幻想のようなものが見えないまま僕の上下左右を通り過ぎていくのを感じた。
どれほどの時間そういった気配を感じ続けたのか、または一瞬の事なのかもわからなかったが、僕は僕を取りこんだ歪んだ黒い影に何も抵抗しないという気持ちではなかった。
「お前は誰だ!」
僕は何も見えない何処かに向かって出来るだけの大声で叫んだ。
「わかっているんだ、お前は僕が怖いのだろう!」
何かの計算があって叫んだわけでは無い。ただ影に抵抗する為に、何でもいいから怒鳴りたかったのだ。
「何者なのか姿を見せろ! どうした臆病者! どうせ何者でも無いのだろう!」
僕は言葉が浮かばなくなると、ただワーワーと大声を発した。
そして周囲の闇が乱れたような感覚があった。僕の上下左右を通り過ぎる様々な情景が曖昧に混濁したものとなって具体性を欠き始め、視界を覆う真っ暗闇に濃淡の渦が出来始めていた。
「お前は誰だ! お前は誰だ! お前は誰だ!」
何度も叫んでいると、何処か遠くから何かの物音が聞こえてきた。
その物音は次第に大きくなっていき、ザワザワと波のさざめく音のように響き、次第に大きなノイズのような音となっていった。
ノイズのような音はどんどん大きな騒音となって僕の声を掻き消そうとしたが、僕は叫び続けた。鼓膜が破けそうなほどの騒音だったが闇の中では僕の身体が存在しているのかもわからない。声を出す事だけが僕の存在証明のようだった。
そして騒音の中から「誰? 誰ですか?」という声が聞こえたような気がした。僕は更に「誰だ!」と声を上げた。次第に様々な声で「誰か! 誰か!」「何? どうなっているの?」「なんだ、どうなっているんだ!」と様々な声が響き始めた。
何も見えない闇の中に様々な声が響き、阿鼻叫喚とさえ言える程の爆音となり、僕の意識は次第に薄れていった。




