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街から人が姿を消した大異変から、3年と半年の月日が流れた。
結局、僕は以前と変わらぬ安アパートでの鬱屈した日々を過ごし続けている。
朝に飲むコーヒーはインスタントが定番となった。時々中細挽きのコーヒー豆を持ち帰りフライパンで軽く炒ってからペーパーフィルターでハンドドリップするが、そういった手間をかけるのは鬱が酷く他に何もしたくない時だ。
停電は未だ復旧せず電気のない生活が続いているが、概ね慣れたと言えるだろう。三つ折のUSBソーラーバッテリーを見つけたので持ち帰り、モバイルバッテリーに繋げて充電するのに使っている。夕方から夜にかけての暗くなる時間の照明に使っている。
家事や暖房の類はガス缶を用いてきたが、入手が困難になってきたので冬場は七輪と練炭を使うようになった。ガス缶を入手するのも処分するのも近所だけではどうにもならず、1日かけて遠くの街まで持ち運びする事もしばしばだった。プロパンを扱えれば便利なのだが、僕の他に誰もいない街で万が一にもガス爆発など起こせば全ての終わりだ。
部屋での七輪はまるで練炭自殺をするかのようで、隙間風のある古い安アパートでも換気を注意しないと危険だが、冬場は殆ど寝て過ごすので七輪の使用時間は短い。小道具は100円ショップで揃えた。大体の事は我慢する事で安全に生き延びられる。
食事は米ばかりで、塩をかけたり粉末の緑茶を使って茶漬けにしたり梅干なども食べる。夕食には缶詰めも食べた。腐らない生肉よりもコンビーフのほうが美味いと感じるのは映画「マッドマックス2」の影響だけではないだろう。幾つかのコンビニでマルチビタミン剤を手に入れたので一応毎日飲み続けている。最初は効果があったように感じたが、いまではまるで効果がわからない。
人もいないのに人目を忍んで、僕は自分の糞尿を肥料として食物の栽培が出来ないかと試した。カビさえ生えない世界であっても自分の体内には微生物が存在していて機能している筈だった。それを肥やしにして植物を育てる事が出来れば少なくとも腐らずカビない不気味な状況を脱するように考えたのだ。しかし自分の糞尿を混ぜ込んだ土に数種類の種を蒔いても発芽しなかった。植え方が悪かったのか種が死んでいたのかもわからなかった。
街から人が姿を消す以前と変わらぬ鬱屈した毎日は、僕の精神状態を何度も乱れさせた。激しい躁鬱の繰り返しは、時には自暴自棄なほど活発に動き、時には指の一本さえ動かしたくないほど深く落ち込んだ。
唯一落ち着いた気分になれるのは煙草に火をつけた時だ。煙草というものは指先に火種を持つ行為だ。呆けていれば指を火傷するし、火種を落とせば床を焦がす。たかが紫煙を吸う為に危険を伴う喫煙という行為は、煙草を吸う以外の事に余計な注意力を割かずに済む行為でもあった。煙草を吸う時だけは煙草の事しか考えなくて良いのだ。
僕は何処かにいるであろう誰かに思いを馳せた。
(もうこんな生活にも飽き飽きしてきた。早く世界を元に戻してくれ)
どうしてこんな事になったのだろう? どうして世の中は幸せになっていかないのだろう? 映画ならヒーローが頑張って戦って、どうにもならない大問題さえ解決してくれる筈だ。
僕のように世の中の不景気とか時代の流れとかに翻弄されて落ちぶれた中年はヒーローじゃない。他の何処かにヒーローがいる筈なのだ。大異変の謎を解き明かすのでも、タイムマシンで過去を修正するのでもいい。映画「タイムマシン」では過去に戻っても直せない事があると描かれていたが、僕が過去に戻っても同じ失敗を繰り返すだけだろう。僕以外の誰かがヒーローなのだ。早く世界を救ってくれ。
悶々とした陰鬱な気分に苛まれる日々を続けていると、かつてこの安アパートに鳴り響いていたほかの住人の迷惑な騒音さえ懐かしく思えてくる。木造アパートに響く騒々しい足音が幸せだった時代の事のような気がしてくる。
いまはもう季節の変わり目の気圧変化も静かになったようで春一番の突風も梅雨も台風もとても静かにやってくる。桜も咲かず紅葉もなく、誰とも共有できない季節の変化を眺め続ける事さえ苦痛になっていった。
どうして僕はこれほど無力なのだろうと落ち込むが、理由は僕がさほど考えず何も努力してこなかったからに過ぎない。僕が落ちぶれた不幸の原因は僕自身にしかなかった。誰かに狡猾だと思われようとも卑怯と言われようとも僕は僕の幸せの為に努力すべきだったし、誰かに何か批判される事を恐れて行動しない事を是としてきたように思う。貧しくとも正しく生きようという志も持っていなかったので、街から人が消えてからの不法侵入や泥棒への罪悪感も薄っぺらだ。僕は僕が思うほど真っ当な人間ではなかったという事を、街から誰もいなくなった事で一層痛感せざるを得なくなった。僕の本質は卑怯者なのだ。
では僕はどうだったなら幸せになれたのだろう?と考えた。
いまこの街に誰もいなくなった情況は幸せではないのだろうか?
街にある全てのものの所有者が姿を消し、唯一残っている僕が好き勝手自由にしても構わない状況は幸せと考えられないのだろうか? そこら中の建物に火をつけても、目につく金銭を全て持ち帰っても、誰にも咎められる事が無いのだ。法律も無い完全な自由な世界なのだ。完全な自由を手に入れている僕は幸せとは言えないのだろうか?
確かに料金も払わず不法侵入して何週間でも露天風呂に入れるし、立派なホテルのベッドで眠る事も出来る。食べられる食品ならば何を食べても構わないし、禁煙指定区域で煙草を吸っても罰金を払う必要も無い。人目を気にするストレスもなく、どのような服装で外出しても構わないし、いっそ全裸で街を歩いても何の問題も無い。
なにしろ「落ちぶれた」と自分を蔑む必要もなくなった。比較対象となる他の誰もいないのだから、誰かが現れない限りは僕は世界一の人間なのだ。僕以上の人間も僕以下の人間もいない。
しかしその自由も「だからどうした?」という結論でしかなかった。
僕の幸せというものは一体どこにあったのだろう?と考えても、僕の中に無い事だけは確かなようだった。
本当は、若かった頃の僕が幾度も人生の道を誤らないように導いてくれる誰かがいなかった事が不幸であり、落ちぶれた僕を奮起させる言葉をかけてくれる誰かがいなかった事が不幸だったのではないだろうか?
誰もいない街で自由を謳歌している僕が幸せでは無いとすれば、不自由であっても誰かがいたほうが幸せなのだろうか? もちろん誰でもいいわけがないだろう。僕に迷惑をかける人もいるだろうし、僕を嫌な気分にさせる人もいるだろう。では孤独な不幸と迷惑な誰かのどちらのほうがマシなのだろうか?
そして僕の孤独を打ち消す誰かがいたとすれば、それが親しい人だけでなく単に世間話の相手であったりごく普通の他人であっても、そういった誰かにとって僕は幸せを与える人間なのだろうか? それとも不幸せを与える人間なのだろうか?
僕は一体どういった人間なのだろうか? 本当に落ちぶれた中年でしかないのだろうか? 誰かを不幸にする存在? 誰もいなくなった世界に残る価値のある存在? 僕の過去は本当に間違いだらけだったのだろうか? 僕の現在はその罰を受けているのだろうか?
……そんな事、わかる筈がない。
僕がわからないのなら、他に答を示す事が出来る誰かはいないのだから。
では現在の僕にとって、3年半も完全に孤独な日々を生きてきた僕にとって、一体何が幸せなのだろうか?
腐らない生肉ではなく普通の新鮮な肉を食べられる日々だろうか? 木造の安アパートに騒々しい住人の足音が響く毎日だろうか? ガス缶の入手と処分に苦労しなくていい日々だろうか? インターネットに絶え間なく無責任な世間話が垂れ流される世界だろうか? コンビニの自動ドアを手で開け閉めしなくていい世界だろうか?
ひとつだけ確かな事は、歪んだ丸い影に怯えずにいられる日々のほうが幸せだったという事だ。




