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虚空の街  作者: 数ビット
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19/19

19

 雑然とした騒音で目を覚ますと、僕は安アパートの前の道路脇に突っ伏していた。

 見慣れた光景だったが、既に日が昇って結構な時間が経っているらしい。

 僕は記憶を辿って「歪んだ丸い影」に足を踏み入れた事を思い出した。結局どうなったのかはよくわからないが、影に取りこまれた部屋の中から道路脇まで転げ落ちた筈はなく、寝惚けてアパートの外まで徘徊した筈もなかった。


 あの影に取りこまれてからどうやって出てこられたのかはわからないが、厳密に取りこまれた場所から出てきたわけではなかったようだ。随分と大雑把な誤差だ。


 僕は酷く疲れていて、このまま眠りたい気分だったが、近所の家屋のあちこちから様々な声が響いていたので、消え去ったと思われた人々が戻ってきたのだろうという事がわかった。

 人がいるなら近所の目もあるので、これまでの3年半の生活のようにはいかない。軋む身体に力を込めてなんとか身を起こすと、近くで「ギャッ」という悲鳴が聞こえた。


 見ると見知らぬ高齢の女性が僕を見て固まっていた。近所の家の住人だろう。


「……いやね、てっきり死んでいるかと思ってね。ごめんなさいねぇ」


 僕は3年半ぶりの……もっと長かったかもしれないが、ともあれ久しぶりに誰かに話しかけられたので何と返事をすればいいのか思い浮かばなかった。


「なにしろ停電だし、電話も通じないし、機械とか全部壊れてるし、何があったのか誰もわからないしで、そんな時にアンタ道端で一晩中ピクリとも動かないんだからねぇ……」


「は、はぁ、どうも」


「まぁ無事なら良かったよ。役所に電話して片付けてもらう事も難しそうだし、いや無事で良かったよ」


「はぁ……」


 僕は高齢の女性にうまく返事が出来ず、相手も忙しそうに立ち去ろうとした。

 僕はふと声をかけた。


「あ、あの、一体どうなったんですか? みんな無事でしょうか?」


 うまく質問できたとは思えないが、それだけ言葉にするのが一杯だった。


「ウチやご近所さんは無事だけど、一体何がどうなっているのか誰も知らないんだよ! テレビも電話も壊れてるし、私きょうは病院に行く日だっていうのになんにも出来やしないんだから」


 理由も顛末もよくわからないが、どうやら街から誰もいなくなった大異変は解消しているようだ。

 僕は高齢女性に挨拶して別れ、ふらふらと安アパートの部屋に戻った。


 部屋は昨日と同じ様子に見えた。

 歪んだ丸い影に取りこまれる前に飲んでいたコーヒーカップはそのままだった。

 つまり大異変は僕の夢などではなく、3年半もの長い孤独の日々も幻想ではなかったという事になる。


 僕は街の騒音を聞きながら布団に潜った。久しぶりにリラックスした気分だった。

 昼下がりに目覚めた僕は散歩に出かけた。

 街の混乱は一向に落ち着く気配はなく、しかしパニックになる様子もなかった。あちこちで井戸端会議が開かれ、役所が用意した発電機の周囲にずらりと自動車のバッテリーの充電を待つ人が並んでいた。

 病院の前を通りかかると頻繁に看護師が出入りしている様子が見えた。この大異変の影響で不幸があったのではと思いしばらく眺め、通りかかった病院関係者に「何か手伝いましょうか?」と声をかけたが「いまのところは大丈夫です。ただどうしてなのか埃が積もっていて掃除が大変なのです」と困惑した様子だった。


 見知らぬ何人かとの世間話で、大異変が起きたと思われる深夜の時間に一体何が起きたのか?を尋ねた。しかし誰からも明確な返事は得られず「よく覚えていない」「ボーっとしていた」「ふと気付いたら停電になっていた」という曖昧なものばかりだった。


 後日、停電の復旧は数日から3週間ほどかかった。世間では梅雨時期だった筈が既に初冬になっている現実を理解し始め「消えた夏」と伝え始めた。更にその後には夏だけではなく数年の時間が経っている事が明らかになって「時間の地滑り現象」と言われた。人類史初めての歴史の完全空白が生じ、様々な考察が世界中で行われた。3年半前と同じように騒々しい世の中になった。

 どうやら世界中の誰にとっても「時間の地滑り現象」は一瞬の出来事だったようだ。


 枯れた木々や腐らない肉などは人々が戻ったと同時に元に戻ったようだ。食べ物は腐るし、木々は数ヵ月後に新芽をつけた。秋に収穫される筈だった農作物の半分ほどは出荷できない状態だったそうだが、僕としては残りの半分が収穫できた事に驚いた。畜産などは殆ど被害がなかったようだ。世界的な現象だったようだが、これによる暴動や紛争は起きなかった。誰もが突然過ぎ去った3年半の対処に忙しかったのだ。


 世の中が元に戻り始めると、僕が経験した孤独な3年半は一体なんだったのだろうか?と疑念が湧いた。

 どうやら世界で僕一人が3年半分の時間老けこんでしまったようだが、もちろん誰も気付かなかった。幸いにも僕が盗んだ食料やガス缶などの犯人捜しが行われる様子はなく、あちこちに不法侵入した事も騒動にはなっていなかった。


 唯一、近所のコンビニの防犯カメラに大異変直後に煙草を買いに行った僕の姿が映っており世間を賑わせる事となってしまった。空白の3年半を知る人間ではと誰もが注目し、僕はそのコンビニに行きにくくなった。しかし防犯カメラに映っている僕は3年前の僕の姿で、白髪交じりの随分とみすぼらしい姿だった。僕は世間を賑わす謎の人物である事は隠す事にした。ただ3年半孤独に生きただけで、大異変については僕も何も知らない。人がいない時に何をしていたのかはあまり知られたくない。


 停電が解消されると人々の生活はあっさりと元に戻り、大異変からの復興を手伝うボランティアのようなものも求める者はいなかった。実に呆気なく僕は元の安アパートに引き篭もる中年に戻った。


(あの歪んだ丸い影は一体なんだったんだろう)


 僕は煙草とコーヒーを嗜みながら呆然と考えた。

 もちろん答は出ないし、あの影も姿を現す事はないだろう。


 僕の鬱屈した気分が改善した様子はなかったし、僕の抱えていた問題が解決したわけでもなかったが、とりあえず冬を越すだけの米や缶詰めが部屋の片隅に詰まれており、少しばかりの金も失敬しておくべきだったと邪な事を考える余裕があった。


 冬が過ぎたら自転車を買おう、と僕は思った。


(完)

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