第8話 ミナ
佐伯ミナは、約束の場所に来た。来ないと思っていた。
連絡先は、知っていた。ハルのいた頃、三人で一度だけ海に行ったことがある。ハルが真ん中で、僕とミナは端と端。写真もそういう並びで撮った。ハルがいないと、僕たちはただの、知らない者同士だ。
大学の裏の、屋根のある渡り廊下。外は今日も雨で、ミナは僕から二メートル離れて立つ。近づく気はない、という二メートルだ。
「で、何」
「ハルのことで、聞きたいことがあって」
「あんたが?」
笑ってはいない。ミナはずっと、僕の目じゃなくて、僕の少し後ろを見て話す。
「あの日のこと、教えてほしい。ハルが誰と会う予定だったのか、どうして駅にいたのか、僕は何も――」
「何も知らない、って顔、するんだ」
雨の音が、少しだけ大きくなる。
「あのね。あの日、ハルはあんたに会いたくなかったんだよ」
意味が、すぐには入ってこない。
「ハルは、あんたと別れたがってた。夏ぐらいから、ずっと。言えなかっただけ。……あんたが、こわれそうだったから」
「噓だ」
「噓だと思うなら、それでいいけど」
反射的に出た「噓だ」の声が、まだ自分の耳に残っている。大きすぎた。渡り廊下を通る誰かが、こちらを見て、目をそらす。ミナは、僕の言葉じゃなくて、僕のその声の大きさのほうを、じっと見ていた気がする。
ミナはそこで初めて、僕の目を見る。怒っている目だと思った。違う。もっと別のものだ。たとえば、こわいものを見る目。
「ねえ、蒼井くん。あんた、ほんとに何も覚えてないの」
「……何の話」
「あの日、どこにいたの」
「家にいた」
答えは、すぐに出た。すぐに出すぎた、と自分でも思う。家にいて、何をしていた。夕方の記憶を探すと、そこだけ引き出しが空になっている。
家にいた。同じ問いに同じ三文字を、僕はこれまで何度、誰に向かって言っただろう。警察に。自分に。言うたびに三文字は軽くなって、いまはもう、発泡スチロールみたいな音がする。
ミナは長いあいだ黙って、それから雨の中へ傘を開く。去りぎわに、一度だけ振り返る。
「……ハルから、預かってるものがある。でも、まだ渡さない。あんたがそれを読んでいいのか、私にはまだわかんないから」
預かってるもの。それが何なのか訊く前に、ミナの傘は雨に紛れて見えなくなる。
ハルは最後の夏、いくつのものを、いくつの人に預けて逝ったんだろう。ミナには何かを。母には沈黙を。僕には――選択肢だけを。
警察に事故のことを確かめるなら、第11話へ。
ハルの母を訪ねるなら、第12話へ。




