第5話 反対側
駅前の喫茶店は、何も変わっていない。ドアベルの音も、コーヒーの匂いも、窓ぎわのいちばん奥の席も。
ハルの指定席だった。雨の日は窓に水滴がつたうのを眺めて、「ほら、競走してる」と言った。どの粒が勝つか、ふたりで賭けた。負けたほうがコーヒー代を払う。だいたい僕が負けた。いま思えば、あれはたぶん、わざとだ。
ドアベルを鳴らした瞬間、カウンターの奥で新聞が下がって、マスターの顔が出る。この店の時間は、外より少しゆっくり流れている。ハルは「ここは雨宿りのために造られた店だよ」と言った。たしかに、晴れの日に来た記憶が、ほとんどない。
カウンターの中から、マスターが顔を上げる。
「……いらっしゃい。ひさしぶり、でもないか」
でもないか、の意味が、わからない。
「この間も来てくれたでしょう。雨の日に。おひとりで」
僕は、来ていない。ハルが死んでから、この店の前を通ることさえ避けていた。そう言おうとして、言えない。マスターの顔に、噓の色がないからだ。
「いつもの、奥の席でね。ずっと窓の外を見てた」
運ばれてきたコーヒーを、僕は奥の席で飲む。窓の外には駅が見える。改札と、跨線橋と、反対側のホーム。
思い出す。青い傘を買った日のことだ。
去年の梅雨、駅ビルの傘売り場で、ハルは三十分悩んで青い傘を選んだ。雨が嫌いなくせに、と笑ったら、ハルは真顔で言った。
「嫌いだから、ちゃんと選ぶの。嫌いな日に差すものだから」
その日、僕も傘を買った。同じ棚から、たいして選びもせずに。ハルは「ちゃんと選びなよ」と怒って、それから笑った。あの傘を、最近見ていない。どこにやったんだっけ。
それから、窓の外の駅を指さして。
「ねえ、知ってる? この駅、反対側に出ると、ぜんぜん違う街なんだよ」
「行ったことないの?」
「あるよ。だから今度、晴れたら――」
晴れたら、駅の反対側で。約束はいつも、そこで終わる。反対側に何があるのか、ハルは最後まで言わなかったし、僕は最後まで聞かなかった。いつでも聞けると思っていた。
席を立つとき、マスターがぽつりと言う。
「そういえばこの間、傘、忘れていったよ。青いの。――持って帰る?」
心臓が、一拍遅れて跳ねる。振り向いた僕を、マスターは不思議そうに見ている。だいじょうぶです、と答えた声が、自分でも聞いたことのない高さで出る。何がだいじょうぶなのか、自分でもわからないまま、僕は受け取らずに店を出る。雨はまだ、降っている。
ミナに会いに行くなら、第8話へ。
家に帰って、ノートを確かめるなら、第10話へ。




