第22話 晴れた日の約束
五日待って、晴れた。
洗いたての空だ。雲が高い。僕は駅の改札を抜けて、いつものホームには下りずに、跨線橋の階段をのぼる。一段ごとに、窓から光が差しこんでくる。六週間ぶんの夜を、まとめて精算するみたいな光だ。
改札の駅員に、なんでもない朝の挨拶をされて、なんでもなく返せた。それだけのことに、少し驚く。今日の僕は、外から見れば、ただの学生だ。花も持っていない。まだ。
橋の真ん中で、一度だけ立ち止まる。
下には線路。あの踏切も、ここから見える。今日は誰もが、ただ普通に渡っている。買いものの自転車が渡る。犬が渡る。何も知らない顔で、世界は渡っていく。それでいいと、初めて思う。
反対側に、下りる。
ほんとうに、違う街だった。商店街のアーケードに、布団屋と、金物屋と、小さな花屋。パンの焼ける匂い。ハルの言うとおりだ。線路一本挟んだだけで、時間の流れかたまで違う。
ハルはこの街を、どんな顔で歩いたんだろう。ひとりで来たのか、誰かと来たのか。訊けなかったことが、またひとつ増える。増えても、いい。訊けないまま持っているのも、思い出の持ち方のひとつだ。
ハルは、ここで何を見せたかったんだろう。
パン屋か。花屋か。それとも、こういう光の中を並んで歩く、なんでもない三十分か。
花屋の店先に、オレンジのガーベラがある。一本だけ買う。店のおばあさんが「お見舞い?」と訊くので、「約束です」と答える。われながら、変な答えだ。おばあさんは、それ以上訊かなかった。
ガーベラを持って歩くと、街の人がときどき、花のほうを見る。花を持つ人間は、少しだけ、まともに見えるらしい。まともに見られながら、僕は歩く。それが今日は、嫌じゃない。
アーケードの天井の隙間から、光が等間隔に落ちてくる。ハルと歩いていたら、たぶんこの光を数えた。ひとりでは、数えない。数えないで、ただ歩く。それが今日の、僕なりの数え方だ。
アーケードの出口の、光のいちばん濃いところで、僕は立ち止まる。
ハルは、いない。
当たり前だ。わかっていた。わかっていて、来た。それでも、来た。それが、たぶん、だいじなことだ。
「……来たよ」
声に出して、言う。誰も振り向かない。商店街の音が、やさしくそれを消してくれる。目の奥が、六週間ぶりに熱くなって、僕は初めて、少しだけ泣く。泣きながら、少しだけ笑う。どちらが先だったかは、わからない。
ノートの続きは、まだ読んでいない。いつか読む。読まないかもしれない。どちらを選んでも、今日のこの光は、もう僕のものだ。
帰ろうとして、上着のポケットに手を入れる。
指先に、小さくて冷たいものが触れる。鍵だ。見覚えのない、古い鍵。僕の部屋の鍵じゃない。実家の鍵でもない。
それが何の鍵なのか、今日は、考えないことにする。
END5 晴れた日の約束
雨の日に戻るなら、第1話へ。




