第21話 鍵
鍵は、回ってしまう。
回らなければよかったのに。合わない鍵で、ただの拾いものの鍵で、そうであってくれれば、僕は引き返せた。でも鍵は、油の切れた小さな音を立てて、素直に回る。この鍵は、この家のために作られた鍵だ。そしてそれを、僕が持っている。
留守の家は、暗くて、線香の匂いがする。
母が出かけるのを、通りの向かいで見送った。自分のしていることの名前を、考えないようにしながら。階段は、二人で上がったときと同じ場所で、同じ音を立てて軋む。その音に、家じゅうが聞き耳を立てている気がした。ハルの家の匂いを、僕は泥棒の鼻で嗅いでいる。
二階のハルの部屋。オレンジのガーベラ。伏せられた写真立て。僕は机の引き出しを開ける。上の段には、シールと、ヘアゴムと、映画の半券。二段目には、便箋。いちばん下の、深い引き出しに――ノートの束がある。
青い表紙の、同じノートが、四冊。
手が冷たくなっていくのがわかる。四冊。四回ぶんの、やり直し。僕は一冊ずつ、めくっていく。めくるしか、なくなっている。
一冊目を開く。「雨が、朝からやまない」。僕の六週間が、そこに書いてある。二冊目。文章は似ているのに、細部が違う。喫茶店に行かない僕。ミナと会わない僕。三冊目は、途中から白紙。四冊目は、表紙の題字だけ。
下書きだ。
誰かが、何度も書き直している。僕の物語を。僕が選びそうな選択肢を、僕が信じそうな記憶を、試し書きしては、捨てて。
筆跡は、ハルの字に似せてある。でも、はねが強い。力んで、はねている。
この字を、僕は知っている。毎日見ている。講義のノートで。レポートの下書きで。
いつ書いた。どこで書いた。この部屋に、いつ、何度、来た。問いは束になって落ちてくるのに、答えのある側の記憶は、きれいに、雨音になっている。
気づいたら、破いていた。一冊目から順に、ページを、束で。紙の裂ける音が、静かな家に響く。破って、破って、破りながら、どこかで思っている。破るところまで、もう書かれていたんじゃないか。
家を出るとき、雨が降りはじめる。
破いた紙の束は、鞄に詰めて持ち帰った。ハルの家に残していくことは、できなかった。それが罪の意識なのか、証拠隠滅なのか、区別は、もうつかない。
雨は、朝までやまなかった。
翌朝。僕のアパートのポストに、青いノートが一冊、入っている。新品みたいにきれいな表紙に、あの字でこう書いてある。
『君が選ばなかった日のこと』
一ページ目を、僕は立ったまま開く。
「泣けないなら、まだ読まないで」
END 3 鍵
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