第2話 青いノート
結局、僕はノートを開く。
「泣けないなら、まだ読まないで」の次のページから、ハルの字が始まっている。丸くて、少し右上がりで、ところどころ跳ねすぎる字。何百回も見た字だ。
最初に書いてあるのは、僕たちが初めて話した日のことだった。
二年前の六月。夕立に降られて、大学の裏の高架下に駆けこんだら、先客がいた。同じ学部の、名前だけ知っている子。傘はふたりとも持っていなくて、雨は三十分やまなかった。
「ねえ、雨の音って、数えたことある?」
と、その子は言った。意味がわからなかった。
「一定に聞こえるけど、ほんとはちょっとずつずれてるんだよ。数えてると、そのうち音楽になる」
変な子だと思った。それで、たぶんそのときにはもう、好きだった。
ノートの字は、そこだけ少し丁寧になっている。書きながら、ハルも思い出していたんだと思う。高架下のトタンに当たる雨の音。濡れた前髪。三十分がもっと長ければいいと、僕が思っていたこと――それは書いていない。僕しか知らないことだ。
――ここまでは、僕の記憶と同じだ。
でもノートには、その続きがある。あの日ハルが本当は傘を持っていたこと。折りたたみの、小さいやつ。出さなかったこと。理由は書いていない。
知らなかった。二年間、一度も聞いていない。
どうして傘を出さなかったのか。あの三十分を、ハルも終わらせたくなかったのか。それとも、初対面の男と相合傘になるのが嫌だっただけなのか。訊く相手は、もういない。答えだけが、ノートの中で二年遅れて届く。
ページをめくる。ハルの字は続く。雨の日のこと、晴れの日のこと。ハルは雨が嫌いだったくせに、ノートに書いてあるのは雨の日のことばかりだ。
そして、あの口癖。
「雨の日は、会えない気がするんだよね。だから――晴れたら、駅の反対側で」
反対側に何があるのか、僕は最後まで聞かなかった。聞けば教えてくれた気がする。聞かなかったのは、僕だ。
ページの余白には、ときどき小さな落書きがある。傘の絵。水たまりの絵。てるてる坊主は、なぜか逆さに描いてある。逆さのてるてる坊主は、たしか、雨乞いだ。雨が嫌いなくせに、どうして。わからないことが、ページをめくるたびに増えていく。
その章の最後のページで、字は急に小さくなる。
「ここから先は、順番に読まないで。君が選んで」
日記のはずのノートに、選択肢が書いてある。まるで、僕がこれを読む日が来ると、わかっていたみたいに。
――ハル。君は、いつからこれを書いてたんだ。
ノートに日付は、ひとつもない。
ページをめくりつづけるなら、第5話へ。
ノートを閉じて、ハルの部屋へ行くなら、第6話へ。




