第19話 空白
捨てるのは、思ったより簡単だった。
決めたのは、傘立ての前だ。青い傘を見た瞬間、体のどこかで小さな音がして、それきり、何かを感じる回路が静かに落ちた。こわい、の次は、何も、だった。何も感じないなら、何も残さなくていい。
傘は、燃えないごみの日に出した。回収車の音を、部屋の中で聞いた。写真は一晩かけて消した。バックアップも、クラウドの分も。トーク画面は最後に長押しして、「削除」を選んだ。「この操作は取り消せません」と画面が言うので、はい、と答えた。
ノートだけは、ごみに出せなかった。ベランダで、ステンレスのボウルに入れて、少しずつ燃やした。青い表紙は最後まで残って、それから急に、灰になった。
燃やしながら、一度だけ手が止まった。「泣けないなら、まだ読まないで」のページが、炎の中でこちらを向いたときだ。読まないで。はい、もう読みません。声に出したら、少しだけ笑えた。笑えたことが、たぶん、最初の兆候だった。
それで、終わりだった。
よく眠れるようになる。食事の味が戻ってくる。講義に出て、ノートを取って、笑うべきところで笑う。誰も何も言わなくなる。夜、部屋が静かでも、もう数えない。雨の日は傘を差して、濡れずに帰る。それだけのことが、ちゃんとできる。
季節がひとつ、進む。
梅雨が来て、僕は新しい傘を買う。何色でもよかった。店先のいちばん手前にあった、灰色を選ぶ。三秒で選んで、レジに持っていって、それきり色のことは忘れる。傘は、そうやって買うものだ。ずっとそうだった気がする。
駅前で、ミナに呼び止められたのは、初夏のことだ。ミナは少し迷ってから、意を決したように言う。
「ねえ。……そろそろ、渡そうと思って。ハルから預かってたもの」
ハル。
僕は、その名前を頭の中で繰り返す。はる。ハル。春。誰のことだろう。
思い出そうとする。何かがあった場所に、きれいな空白がある。痛くない。まったく、痛くない。掃除したての部屋みたいに、なんにもない。
「……ごめん。ハルって、誰だっけ」
ミナの顔が、ゆっくり白くなっていく。その表情の意味も、僕にはもうわからない。
言ってから、自分の声のなめらかさに驚く。つっかえもしなかった。喉のどこにも、引っかかる場所が残っていない。
ミナは結局、何も渡さずに行ってしまう。遠ざかる背中が、一度だけ止まって、また歩き出す。呼び止める理由を、僕はもう、持っていない。
頭上には、雲ひとつない空。いい天気だ。こんなに晴れているのに、どうしてだろう、駅の反対側だけが、少しだけ暗く見える。
END 2 空白
思い出すところから、もう一度。第1話へ。




