第16話 筆跡
ファミレスの隅の席で、ミナは長いあいだ、ノートをめくっている。
頼んだドリンクバーには、ふたりとも手をつけていない。僕は待つ。ミナの表情が、ページをめくるたびに変わっていくのを見ながら。最初は警戒。それから懐かしさ。それから――途中で、手が止まる。
ミナを呼び出すのに、長い文章はいらなかった。「見てほしいものがある」。それだけで、ミナは三十分後に来た。まるで、この連絡をずっと待っていたみたいに。
「……ねえ」
ミナの声が、さっきより低い。
「これ、どこまでがハルの字だと思って読んでた?」
「どこまでって……ぜんぶ、だけど」
ミナはノートを開いたまま、くるりと僕に向ける。前半のページと、後半のページ。指で二か所を押さえて。
「最初のほうは、ハルの字。私、高校からずっと隣で見てたから、わかる。ノートの貸し借りも何百回もした。――でも、こっち」
後半。「そこまでは、思い出せたんだね」のページ。
「これ、ハルの字じゃない。似せてあるけど、違う。はねが強すぎる。ハルはこんなに、力んで書かない」
じゃあ誰の字だ、と訊こうとした僕より先に、ミナが言う。
「あんたの字に、似てる」
否定したい。でも僕は、さっきから自分の手を見ている。
手は、何も言わない。ペンだこの位置も、爪の形も、いつもどおりの顔をしている。共犯者みたいに。
沈黙のあと、ミナは静かに話した。夏からのハルのこと。別れたいと相談されていたこと。でも言えば僕が壊れると、ハルが怖がっていたこと。「壊れる」というのがどういう意味だったのか、ミナも訊けなかったこと。
「壊れそう」と言われた男が、いま、テーブルを挟んで座っている。ミナはたぶん、まだ少し、僕がこわい。それでも来た。それはハルのためで、僕のためじゃない。それで、いいと思った。
「あの日ハルが駅に行ったのは、たぶん、決めたからだよ。ちゃんと言うって。……なのに、あんたが」
ミナはそこで言葉を切って、代わりにこう言った。
「ハルの部屋の合鍵、まだ持ってるんでしょ」
「……持ってない。そんなの、もらってない」
「そう」
それ以上、ミナは言わない。でも帰り道、コートのポケットに手を入れて、僕は指先で触れてしまう。小さくて、冷たい、見覚えのない鍵に。
鍵がいつからそこにあるのか、思い出せない。このコートを着るのは、今日が初めてじゃない。ポケットには何度も手を入れた。触れていて、気づかなかったのか。それとも、今日までそこに、なかったのか。どちらの答えも、同じくらいこわい。駅までの道で、僕は一度も、ポケットから手を出さなかった。
その鍵で、ハルの部屋へ行くなら、第21話へ。
自分の字かもしれないと、認めるなら、第17話へ。




