第15話 傘立て
玄関の傘立てなんて、毎日視界に入っている。入っているだけで、見てはいなかった。
帰り道からずっと、鼓動が速い。角を曲がるたび、階段を一段のぼるたび、確かめる前の答えが、少しずつ体に染みてくる。人は、開ける前の箱の中身を、たぶん本当は知っている。知らないのは、頭だけだ。玄関の鍵を差すとき、手が一度、空振りした。
部屋に帰って、電気をつける前に、僕はまずそこを見る。
ビニール傘が一本。折りたたみが一本。それから――青い傘が、一本。
濃い、夜の海みたいな青。持ち手は木で、先端に小さな傷がある。
僕はこの傘を、買った覚えがない。
でも、見覚えはある。それが最悪だ。買った覚えはないのに、持ち手の感触を、手が知っている気がする。
電気をつけないまま、僕は傘立ての前にしゃがみ続ける。外の街灯が、ドアの磨りガラス越しに、傘の青をかろうじて見せている。夜の海の色。ハルが三十分かけて選んだ色。そして僕が、三分で――思い出しかけて、やめる。
近づいて、しゃがむ。骨の先に、乾いた泥が点々とついている。布の折り目には、砂。長いあいだ使われていないのに、一度だけ、ひどい雨の日に使われた傘。
ハルの傘だろうか。それなら、まだいい。ハルがうちに置いていった。それなら、まだ。
でもハルの傘は、ハルと一緒に事故のあとの雨に濡れて、それきりのはずだ。それに、ハルの家の傘立てに青い傘はなかった。喫茶店のマスターは「青い傘を忘れていった」と言った。ミナは僕のビニール傘を見て、目をそらした。黒川は訊いた。ご自宅の傘立てに、何本ありますか。
みんな、僕より先に、この傘を知っている。
知らないのは、僕だけだ。いや、違う。僕は「知らない」を選んで、六週間、毎日それを更新し続けてきただけだ。傘立ては毎日、視界に入っていた。視界に入れたまま、見ないでいること。人間には、それが、できてしまう。
柄に手を伸ばす。指が触れる寸前、ふっと、呼吸の音を思い出す。走っている呼吸。雨の音。水たまりを蹴る音。「待って」という声。あれは、ハルの声じゃない。もっと低い。あれはたぶん、僕の声だ。
手が、柄をつかんでいる。
木の持ち手は、手のひらの形を覚えているみたいに、しっくりと収まる。
留め具を、親指で外す。乾いた布の、ほどける音がする。それだけで、雨の匂いがした気がした。開くのは、まだだ。まだ、開いていない。開いていないうちは、僕はまだ、知らない側にいられる。
開けば、何かを思い出す。開かなければ、思い出さずに済む。玄関の電気は消えたまま、雨音だけが近い。
傘を開くなら、第17話へ。
傘もノートも、ぜんぶ捨てるなら、第19話へ。




