第12話 渡していない
ハルの母は、こたつにお茶を二つ並べて、僕が切り出すのを待ってくれている。
居間には、ハルの写真が一枚だけ増えていた。小さい頃の、前歯の抜けた写真だ。最近の写真は、まだ飾れないんだと思う。近い顔は、近すぎて、毎日は見られない。僕はその写真に、初めて会う。ハルにも、僕の知らない十九年があった。
僕は鞄から、青いノートを出す。
「これ……ありがとうございました。まだ途中なんですけど、先にお礼だけでもと思って」
「?」
「葬式の日、うちの前に。置いていってくださったんですよね。ハルの、その、日記みたいな」
母の顔から、表情がゆっくり下りていく。
「ノート?」
「はい」
「……私は、そんなもの、渡していません」
こたつの上で、お茶の湯気がまっすぐ立っている。部屋のどこかで時計が鳴っている。それ以外の音が、ぜんぶ消える。
「ユウくんの家、私、知らないもの」
そうだ。教えたことがない。ハルは知っていた。でもハルは、もういない。
頭の中で、可能性の名簿をめくる。ミナ。ミナはうちを知らない。ハルの父は、単身赴任先から葬式に来て、そのまま戻った。友人たち。後輩。名簿は、どのページも白い。最後のページに、僕の名前だけが載っている。
じゃあ、誰が。
母は僕の手からそっとノートを取って、表紙を見る。長いあいだ、見る。指先が、表紙の字の上をゆっくりなぞる。
「――でも、この青」
声が、少しだけやわらかくなる。
「あの子が好きだった青ね。傘も、この色にしてた」
母はノートを開かない。開かないまま、僕に返す。
「中は、読まないでおく。あの子が私宛てに書いたものなら、いつか私のところにも届くでしょう。これは……ユウくんのところに、届いたんだから」
届いた。その言い方が、玄関先の紙袋を思い出させる。雨の日に、濡れていなかった紙袋。ついさっき置かれたばかりの。
お茶は、もう湯気を立てていない。母は僕の湯呑みに、新しいお茶を注ぎ足す。この人はあの日から、こうやって目の前の小さなことだけを、丁寧にやり続けているんだと思う。花瓶の水を、替えるみたいに。
帰り際、母は玄関で、独り言みたいに言った。
「読み終わったら、教えてね。あの子が最後に、何を選んだのか」
ドアが閉まってから、僕は気づく。母は「何があったのか」とは、言わなかった。
何があったのかは、訊かない。何を選んだのかだけを、知りたがる。それはたぶん、母がもう、半分わかっているからだ。娘が何かを決めていたこと。決めたことの中に、僕がいなかったこと。バス停まで歩くあいだ、雨は降らなかった。降られたほうが、楽だった。
家に帰って、傘立てを確かめるなら、第15話へ。
ミナにノートの筆跡を見てもらうなら、第16話へ。




