8話
朝。ゼファウスは神殿内を見渡した。
日々の一幕に過ぎないはずだった。
「ゼファウス様、お待たせして申し訳ありません。巫女姫様はまだお戻りではないようです」
慌ただしく働く人々の中に、探し求める黒衣の侍女はいない。
となると、今日は彼女が祈っているということだ。
恐縮するように頭を下げる随従に、穏やかに頷く。
「とんでもない。会いたくて来てしまった私が悪いのですから。お構いなく」
このまま待たせてもらいますよ、と言いかけた口がふと止まった。
手元の帳簿を置く。
指が、陽射しを掴み損ねる。
何かが掠めた。
今日は、彼女のサイズの指輪ができあがってくる日だ。
薬指の感触を思い出す。ずっと温めていたものが、遂に形になる。
それは、何より待ち望んだものであり、同時に決着をつける瞬間が来たことを意味していた。
――だが。なんだろう、これは。
どこかで取り落とした感触が、指に残る。
人知れず唇を引き結ぶと、随従に一礼し、足を踏み出した。
警備が敬礼する。
ゼファウスは無表情に尋ねた。
「巫女姫様は、まだ祈りの間にいらっしゃるか」
「今朝のお勤めに出られてから、まだお戻りではありません」
「かなり経つか?」
「そうですね、確かにお戻りが遅く感じますが。……ゼファウス様?」
「いや」
男は、意識して柔和な表情を作る。
「あの方は、お体が弱いから、少し心配になってしまっただけだ」
「左様でございましたか」
「規則通り、祈りの間には入らない。が、その前の廊下で待たせてもらいたい」
「承知いたしました」
廊下は広く、長い。ゼファウスは、一歩足を踏み出した。
背後で、扉の閉まる音が鈍く響いた。
祈りの間へと繋がる扉の前で、足を止める。
壮麗な文様の刻まれた巨大な扉。
巫女姫たちの祈りの場。何も聞こえない。
待つべきだった。
胸騒ぎが消えない。
ルーリなら、大抵のことは自力で切り抜けられると、ゼファウスは信じている。
規則を破ってまで祈りの間に入る必要など、あるはずはない――
ゼファウスは唇を噛み締める。
身体が動いていた。扉を、開けていた。
静謐な空気。祈りの間。水の流れる音。はじめて見る神聖な光景に、呼吸を忘れた。
周囲を探る。
数歩進んで、また数歩。
声を出してもいいものか。逡巡すらもどかしく、歩みを進める。
ルーリ。どこだ。ルーリ。
来た道の浅瀬に、白い影が見えた。
ゆらゆらと不自然に歩いては、がくりとバランスを崩す。
水飛沫が上がった。
白いベール。顔は見えない。だが、見間違えようがなかった。
「ルーリ!」
ゼファウスは床を蹴った。
両手を目いっぱいに伸ばし、揺らぐその身体を抱きとめる。
震えていた。
濡れていた。
彼女自身の香りが、ゼファウスの全身を貫いた。
「――、……――!!」
誰かが呼んでいる。
白く霞む視界の中、ルーリはなんとか目だけを動かした。
感覚がなかった。
足は動く。他人事のように。前へ、それとも後ろへ。時折宙に浮いては、落ちた。
水音が、はじめて遠のいた。
喘ぐ。空気が胸に落ちる。息を継ぐ。その中に、見つけた。
ぬくもりと共にあった香り。
包みこまれている。
視界が再び霞む。水滴が滑り落ち、白さが取り払われていく。
彼が、覗き込んでいた。
「……ゼ、ファ」
彼の唇が動く。何も聞こえない。絶え間なく動いては閉じる。
どうしてここにいるのだろう。
どうして、私を。
彼の顔は歪んでいた。
こんなにも近くにいるのかさえ、わからない。
ひときわ大きな水音が、耳奥で鳴り響いた。
ルーリはきつく目を閉じる。
悲鳴を飲み込む。
どれくらいの時間が経ったのか。
ふと、背中に何かを感じた。手のひら。微動だにしない指。
じわ、と通い出すのは、なんだろう。
不思議な気分で、ルーリは手を伸ばした。
眼前に、ゼファウスの顔がある。
彼の唇は震えながら、ひとつの言葉を繰り返し描く。
頬にそっと触れてみる。指先に、小さな振動。
彼が見ている。滲む瞳で。
瞳の中にいる。
水音が響く。
跳ねかけたルーリの身体を、彼は瞬時に抱き込んだ。背中にある手が、優しく上下した。包み込まれたまま、びくとも動かない自分の体。
ああ。
――ああ。
頬を合わせた。
子どもの頃みたいに。でもその頃とはまったく違う体温で。
金色の髪がかすかに揺れた。
両腕を広げる。
あの時止めた指を、今度こそ。
首筋に顔を埋めた。
甘えるように。
なんども。
何度も。
自らの匂いを移すように。
抱きしめた。
言葉にしたら、他愛もなかった。
「あなたが好き」
あなたが好き。
「ルーリ」
ゼファウスの喉仏が、一度だけ大きく動いた。
今しかない、と思った。
あれからずっと、耳にこだまする水の音。
心の奥底に沈めたままでは、二度と歩けないことをルーリは知っていた。
「……、わた、し」
呼吸がおかしな音を立てる。喉に、焼き尽くされるような痛みが走った。
それでも。
「私」
それでも、ルーリは、それを飲み込んだ。
飲み込んで、吐き出そうとした。
「――ヨフィエラ様、を」
ゼファウスの身体が跳ねた。
遅れて限界まで見開かれた目が、ルーリを映したまま離さない。
「待て」
短い制止。
彼の指が、ルーリの二の腕を掴んだ。
反対側の手が背中を滑り、ゆっくりと降りていく。腰に触れた瞬間、強く引き寄せられた。戸惑いが形を成し、次第に鋭くなっていく。
祈りの間に視線をやる。
何かを探すかのように。
返ってくるのは、水音だけ。
「待て、ルーリ」
二度目の制止は、確信に満ちていた。
ルーリは身をすくませる。
ゼファウスが、何を言おうとしたのかわからなかった。彼のことなら、何でも読めると思っていたのに。
無意識に掴んでいた彼の衣服を、さらに自分の方に手繰り寄せながら、行き場をなくしたように怯えた。
「それ以上は」
そこまで言うと、ゼファウスは口を閉ざす。
腕に置かれた指が、食い込んでいく。
ルーリは顔を上げることもできず、言葉の続きを待った。
彼の呼吸音が、短く切れる。押し潰されて、音にならない。
喉が、波打った。
ぽたり。
頬に落ちたぬくもり。
何かが降ってくる。
上から。上からだ。
ルーリは自らの頬を手の甲で拭い、見上げた。
「ゼファ」
泣いていた。
ゼファウスが泣いていた。
「ご、ごめ……ん」
大人になった彼が、子どもの頃と変わらない泣き顔で。
「ごめん、ルーリ。俺が……」
暗さを帯びた瞳が、にじむ涙に上書きされていく。
そして、笑っていた。
泣いているのに、どうしようもなく。
笑った瞬間に、彼の目尻から大きな涙がこぼれて落ちる。
降り注ぐ。
ルーリは、彼の眼差しの奥に数え切れない言葉を見た。
その瞳を見つめ、見つめ続け――、
やがて安堵したように、うんと頷いた。
ゼファウスはひとしきり涙をこぼすと、ルーリの手のひらに触れる。
おそるおそる持ち上げた手をしばらく見つめていたが、やがてそっと口付け、また少し泣いた。
指が絡まる。
ふたりは、額を寄せ合った。
言葉は必要ない。
これまでもそうだったように。
これからもまた。
「ゼファ」
ゼファウスは水面に揺れる眼差しを、そっと細めて。
その先の言葉を音にしなかった。
「 それ以上は、言わなくていい 」
ただ、重なる唇の熱量で伝えてきた。
骨が軋む。
やっと届いた。
――もう逃さない。
影武者は死んだ。
表向きには、ひとりの侍女が、事故により落ちた。
そのまま、恐らく死んだ。
死体は発見されないまま。
それだけのことだった。
彼の手によって整えられた調査報告書は、やがて忘れ去られる。段取りは影に沈み、事は静かに収まった。
そして、彼は愛する人のもとへと向かった。
秋は、予定通りに来るだろう。
※物語はこのあとエピローグへ続きます。エピローグも同日公開しています。




