7話
またあの日の夢を見た。
鏡の中に、男がひとり。
黒い上着を、着るでもなしに肩へかけたまま。
夢の名残に、鼓動はいつも以上に波打つ。
孤児院の少年と少女。お互い望む道に進めることはないと知っていても、――それでも、願えば繋がり続けると信じていた。
消えた少女。彼女自身の選択ではなかったが、当時は知る由もなく。
どこにもいない。先に引き取られた少年は、あの日の絶望を忘れはしない。
彼女と再び会えたとき、彼は決意した。
告げはしない。告げれば彼女は去る。わかっている。
ゼファウスは音もなく上着の袖に腕を滑らせていく。いつも通りに髪を整え、内心を表情で覆っていく。
かすかに、神聖なあの気配が立ちのぼる。
唇を閉ざした。上着に残されたその残滓に、顔をしかめて。
鏡の中の男は、暗い目で見つめ返してきた。
それでも、二度と、離しはしない。
彼は、ゆっくりと部屋を後にした。
鎖骨に、結わえていない髪が滑る。
鏡の中に、女がひとり。
黒い侍女服は脱いだ。
鼓動は平然を装い、いつもと変わらず波打つ。
白い衣装に伸ばした手が、ふと止まる。
身体が声を上げていた。
恐る恐る、手を向ける。
自分自身の身体のはずだったが、同時に、彼が触れようとした肉体でもあった。
抱え込もうとして、なんとか直前で止めた。
ルーリは音もなく巫女姫の衣装を纏っていく。いつも通り化粧を施し、白いベールで表情を覆っていく。
最後に、神聖なあの香りを。
唇を閉ざした。一気に纏う。
鏡の中の女は、まっすぐに見つめ返してきた。
迷いがないわけではなかった。それでも。
彼女は、ゆっくりと部屋を後にした。
朝の日差しが淡く落ちる巫女姫の部屋。
香炉の煙だけが、ゆらゆらと立ちのぼる。いつもと寸分違わぬ透明感の女が、目を開ける。
喧騒は遠い。
寝台の上のヨフィエラは、青い鳥のぬいぐるみを、真上に投げた。ぽん、と手元に戻って来る。何事もなかったかのように。
もう一度投げた。
青い鳥は飛翔し、布でできた体は呆気なく墜落した。
やわらかな感触が、手に返る。
「鳥のくせに、飛べないのね」
ヨフィエラはこぶしを振り上げた。青い鳥が大きく歪んだ。爪が食い込む。歪んだぬいぐるみを、不思議そうに見つめる。
「人形のくせに、抵抗するのね」
腕いっぱいに、大きく投げた。
青い鳥のぬいぐるみは、今度こそ高く飛び立ち、遠くの床にぽとりと落ちた。
点々と転がるぬいぐるみを、色のない目で追う。
人形は、どこまでも人形だった。
物音ひとつない部屋。誰も来ない。
以前はもう少し、賑やかではなかっただろうか。
ヨフィエラはふと、瞳を上げた。
何かを、思いついた表情で。
「それなら、いらない」
彼女は身を起こし、ゆっくりと部屋を後にした。
青い鳥は、転がったまま残された。
祈りの間。
水の流れる音だけが、鳴り響く。
ルーリはひとりで高台に佇んでいた。
縁から水が落ちる。
遥か彼方へと向けて。
今日は、快晴だった。広大な空。澄み渡った色が、混じり合って水面でたゆたう。
ルーリが胸の前で両手を組みかけたそのとき、背後で、鳴るはずのない音がした。
聞き慣れぬ軋み。扉の閉じる音。規則正しく、近づいてくる足音。
現れたのは、ヨフィエラだった。
光を含んだ毛束を、ふわりと空気にそよがせている。象牙色の部屋着。金糸の刺繍が、わずかに輝く。
巫女姫の衣装は、ルーリが身につけている。だから、彼女が部屋着であることは自然なこと。なのに、不自然に見えるのはなぜだろう。
胸中の警鐘が鳴る。今日のヨフィエラは、体調不良で部屋にいるはずだった。いつもと変わらない朝。
だからこそ、ルーリが祈りを任されたはず、だった。
なのに、なぜ。
祈りの間に、ふたりの女。
真の巫女姫は慎ましく、偽の巫女姫は華麗に装って。
「貴女、そんな顔で巫女姫として働いているのね」
身軽な足取りで現れたヨフィエラは、その足取りと同じくらい軽やかに笑った。
「初めてちゃんと見たわ」
ルーリは戸惑う。なぜここにと、問うことは許されているのだろうか。
ヨフィエラは歩みを止めない。階段を登りきると、当然のように中央に――その場の主として、立った。慌てて場所を譲るルーリに、目もくれず。
「ヨフィエラ様……」
「腕の角度が少し違うかしら。立ち方も」
ヨフィエラは、淀みなく胸の前で両手を組む。二の腕の角度。見上げる首の曲線。
よく似ていたけれど、だからこそ違いがよく見えた。
「貴女は私の人形」
ヨフィエラは、祈りのポーズのまま、淡々と告げる。
「勝手は、許さないわ」
ルーリの足は、縫い止められるように止まった。
ヨフィエラは、再び、歩き出す。
高台の縁へと向かって。踊るような足取りだった。
ルーリの両手に、力がこもる。
怖い。
高いところが苦手なわけではない。ただ、危険だという意識が拭えない。
ヨフィエラはルーリの視線に気づくことなく、悠々と空を見上げると、目を細めた。
「今日はいい天気ね。こんな日は、空も飛べそう」
空気が一筋、流れる。ヨフィエラの部屋着が乱れる。彼女はそっと裾を押さえた。
ルーリを見る。空を見る。
次の瞬間には、はるか下方にある水面を覗き込んだ。
忙しない仕草で、くるりと振り向く。
そういえば――
と、ヨフィエラは言った。
「貴女も祈りの体勢はとるのね。誰も見ていないのに」
瞳孔が、ルーリを射すくめた。何かを、見定めようとするかのように。
「それで、何を祈っているつもりなの?」
ルーリは、その双眸から目を逸らせない。
「形になるものは、何も」
影武者だから。
巫女姫のようには、祈れない。
「そうね。ただの人形にはそうするしかないもの」
ヨフィエラは、揺るぎなく微笑んだ。
空気を染めゆくのは、巫女姫の香り。
影武者の存在を呑み込むように。
ルーリは無意識に、冷たい指先を握り込んだ。
「祈ってみなさい」
命令は短かった。
「見てあげるわ」
ルーリは自らのつたない祈りを思い返した。
ヨフィエラは、逡巡を許さない。
せめて伝えよう、と心に決める。
「私は何も持っていないので。ただ……」
言葉を探して、彷徨う。
ひとりで過ごした祈りの間。
晴れた日も雨の日も。
ただ、そこに。
胸の前で両手を組む。高台の更に上、空を見上げる。
遠くに鳥が飛んでいるのが見えた。
「ただ、――そこに在ればいいなと思っています」
そして、ルーリは瞳を閉じた。
瞼の内で光が滲む。
ヨフィエラの鋭い呼吸音は、ルーリに届くことなく。
風が、香りを残らず攫っていった。
祈る。
呼吸を――そう、深呼吸を。
何を祈ろう。わからない。
巫女姫の影武者として祈れと命じられても、何を祈れとまでは教えられなかった。
だからルーリは、ずっと昔からしていた通りに、祈ろうとした。
とどくかどうかは、かんけいなかった。
ただ、みんながしあわせであれば。
「……?」
風がルーリを包み込む。髪が、ベールが、舞い上がる。
声が聞こえた。
あの人の、声が、心の一番深いところから。
ルーリ。
身体の奥で、熱がぱっと弾けた。
毛布を奪い合った。別離に歯を食いしばった。
寂しかった。だから、会いに来た。それだけのはずだったのに。
その手で、触れて。
もっともっと奥まで。
ゼファ。
祈りが、塗りつぶされていく――
ルーリは目を開ける。
祈ることができなかった。その事実に、身体が言うことを聞かない。
目に映るヨフィエラもまた、立ち尽くしていた。肩が上下する。
彼女はただ、そこにいた。立っているだけなのに、立ち方を忘れたように見えるのは、なぜだろう。
その表情に名付けるすべを、ルーリは持たない。
ただ、ほんの少し。あの日、鏡の前で見た表情に似ていた。
『きもちわるい』
声が、耳の奥でこだまする。
ルーリは、彼女の名を呼ぼうとした。
ヨフィエラの指先が、わずかに震える。
声にならない息が、ふたりの間に横たわっていた。
ルーリは知らず、一歩後ずさった。
「祈りは、巫女姫のみに許されたものよ!」
放たれた言葉は、予想外のものだった。
ヨフィエラは、一歩踏み出す。ルーリに向かって。もう一歩。
意図が掴めず、ルーリは動けない。
「ヨ、ヨフィエラ様」
声は掠れた。
もう一歩、彼女は歩みを進める。
「人形は、動かないで」
ゆっくりと、ヨフィエラの両手がルーリの肩に触れた。
時が流れる。
やがて、ヨフィエラは、何かを呟いた。
そして、あまりにも自然な動きで、
――押した。
悲鳴は、喉の奥で詰まった。
ぐらりと傾く体幹。回る視界。膝に痛みが走る。
ルーリは咄嗟にこらえる。
高台の縁ぎりぎりに膝と手をついて、なんとか放り出されずに済んでいた。
心臓が暴れる。
今、何をされた? 一歩間違えれば、どうなっていた?
ルーリは片膝を立てる。
視線を上げると、ヨフィエラは、いつもと全く変わらない表情で見下ろしていた。
いや。何かが、違う。
人形と呼んだ彼女自身が、誰よりも人形のような。硝子のような双眸で――
ヨフィエラが、再び手を突き出した。
手が、迫る。
今度こそ、半ば転げるように、横へ避けた。
ヨフィエラの手が、空を切る。
重心が大きく前へ崩れる。
「――!」
声を上げたのはどちらだったのか。
バランスを失った彼女は、宙に放り出されていた。
ルーリは息を飲む。
ヨフィエラに向かって踏み出しかけ、初めてそこが高台の縁の向こう側であることに気づいた。
なにもない。
踏み出せる場所が、なかった。
白い手が、羽のように空中に舞う。
ルーリは、歯を食いしばって、手を伸ばした。
距離は足りている。
届く。伸ばせば、届く――
ヨフィエラの髪が舞う。
その刹那。
ルーリの足裏の感覚が失われ、音が消えた。
胸の奥に灯った熱が、たったひとりを求めて燃え広がっていく。
彼へと続く道。
抗いようもなく引き寄せられて。
ヨフィエラの姿は、いつの間にか意識から消えていた。
祈りは死んだ。
そこに在るのは、ただ。身体の記憶だけ。
あの人の、記憶だけ。
雨よりも鮮烈に、全てが洗い流されて。残ったのは、ただひとつの色。
あの日の夕陽。真っ赤に染め抜かれた世界。カーテンがなびく。
衣服を握りしめた指を解く。両手を広げて、その首にまわす。
自分だけが知る匂いに包まれて。
腕に力を入れる。
どこにもいかない。だから、どこにもいかないで。
願いに、応える。
今度こそ。
意識が浮上する。
瞼を開く。
音が蘇る。
ルーリの瞳は、祈りの間の空を映していた。
あまりにも晴れやかな、青。
素足にサンダル。ふくらはぎは応じず。
腹は固まって、胸はただ時を刻む。
その先に、いつの間にか突き出ていたのは——己の手。
誰もいない虚空へとまっすぐに伸び、そのままの姿で固まっていた。
一筋、伸びた指。
その指が半ば曲がり、びく、と震えた。
ルーリは、その指をただ、見つめ続ける。
呼吸が、凪いでいく。熱が引いていく。
そして、見た。
指は、震えたまま、――
空中で、止まっていた。
指の先には、もう、誰もいない。
目の端を、鳥が落ちていく。
——鳥?
違う。あれは、ヨフィエラだ。
そう気づいた時には、もう。
太陽を瞳に宿して、笑った、ように見えた。
それが、ルーリの見た、最後の姿だった。
遠くで、水音が聞こえた。
取り残されたのは、ルーリ、ただひとり。
鼓動が胸を突き上げる。覚束ない足裏を、どれくらい耐えただろう。
ふと、伸ばしたままの手首が、軋んだ。
手のひらが、少しずつ、こちらを向いていく。
彼へ、焦がれた手だけが。
後退しかけた足に、力を込める。
それでも、ルーリは、立ち続ける。
ああ、そうか。
私は、今、
――止めた。
そう、この手に名づけよう。
私の手は、たったひとりだけを、求めて。
私の意思で、その名を、選んだ。




