6話
『ねえ、ゼファ。私、気づいちゃったの』
ゼファウスは昨日のヨフィエラの様子を思い返していた。
目まぐるしく思考を巡らせる。
夕暮れの馬車内、彼女の声はひどく穏やかに落ちた。
「あなたって、案外いじわるね。ううん、うっすらわかってはいたけど」
ゼファウスは呆気にとられた。
「……私が、ですか?」
「そう。だってあなた、自分のこと、あまり話さないでしょ」
ヨフィエラは、婚約者の顔を覗き込んだ。
「私のことを、婚約者をろくに知らない女にするつもり?」
「……」
男の表情は微動だにしない。瞬きをひとつ。彼の目に、眼前の女性への思いやりがゆっくりと灯る。
「いじわる、のつもりはありませんでしたが……」
言葉に余計なものが混じりかけて、ひっそりと飲み込んだ。
それが安堵であると悟られないように。
膝に置かれたままのヨフィエラの手に、自らの手のひらを重ねた。
熱をこめていく。
「自分のことを語るのは、なかなか難しいものですよ」
「ほんとう?」
ヨフィエラは、目を細めた。
「もちろん。では、何がお知りになりたいですか、我が婚約者殿」
重心を、ゼファウスへ預けていく。唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「私に捧げるべき全てを」
膝への圧迫は、いつの間にか消えていた。くすくすと、軽やかな笑い声が馬車内に響く。
ヨフィエラはいつまでも楽しそうに、他愛もないことを喋っていた。
朝の光の差し込む部屋、その影の中で、ゼファウスの唇がきつく結ばれる。喉の奥で押し殺された音が、低く漏れた。
確かに、様子がおかしかった。
だが、それがどこから来るのか、彼にはわからなかった。
大人しくしていてほしい。
このまま、滞りなく――
男は眉を寄せたまま、自室を出る。無意識にいつもの道を辿っていた。
いつもの仕事、いつもの日課。
だが、その日に限って、思い描く場所にルーリはいなかった。
ルーリは真剣に悩んでいた。
いつの間にか、古くなっていたペンダントの紐。
彼女が向かったのは、雑踏にある露店だ。並べられた紐には、色々な素材があったけれど、最後は値札で決める。
ただ、色で迷った。白、黒。それとも、思い切って桃色はどうだろうか。
昔の癖で、どうしても買い物が苦手だった。自分のためにお金を使う時、とても躊躇してしまう。
それでも今日は買おう。ルーリの決意は固かった。
結局、選んだのは白の紐。大切な石を通して、いつものように首にかける。
急に与えられた休みだった。
ヨフィエラの気まぐれで、今日は別の人を侍らせたいらしい。
色々とやらかしたという反省はあるものの、今の自分にできることは何もない。
だから、ルーリは久々の休みを満喫することにした。
空を見上げる。太陽はまだ高く、伸びる影は短い。
靴底が、自らの影の上を往復した。
いつもなら、さっさと帰るけれど――気がつくと賑やかな市場へと向かっていた。
喧騒が心地よい。
大道芸人が、無言劇を披露している。あれなら自分でもできるかもしれない。
「今日は炭火串焼きが安いよー」
「……ぐ」
匂いが大変魅力的だった。
ヨフィエラの衣服のサイズを思い出す。これ以上は危険だ。
青果の露店は、鮮やかだった。
「お姉さん美人だね。一個おまけしておくよ!」
「そうですか」
常套句はさておき、おまけにはぐらりときた。
野菜が限界まで積まれた籠の中に、ひときわ鮮やかな人参を見つける。ふと甦るのは、ささいな思い出。どうにかして人参を食べさせようと試行錯誤した記憶。
騙し合いの毎日。人参だけはどう調理してもバレた。
最後には、あんまり腹がたったから、あいつの口に直接人参を突っ込んでやったっけ。
三日三晩口をきかなかった。
最近似たようなことがあったような。
――指先で、唇をなぞる。
苺の味。
自らの唇に、一瞬だけ触れた男の指の記憶。
ルーリは足早に歩き出した。
目に留まったのは、恋愛劇の看板だった。
「おねーさん、ぜひ恋人と観てよ!」
売り子の道化師の声。気がつくとまわりは恋人同士で溢れていた。
「一枚下さい」
いつもなら、素通りしていただろうに。
今日は、そう口にしていた。
「一枚でいいの?」
「一枚下さい」
一緒にみたいひとは、ここにはいない。
みたいとさえ、願ってはいけない。
音楽がはじまる。照明が踊る。ドレスが花のように広がる。
出会いと、別れと。それでも諦められない想いと。
ルーリは、静かに眼差しを注いだ。
大歓声の中、幕は下りる。拍手のしすぎで、両手が痛い。
ヒロインがとても可愛かった。ヒーローは……うーん、そこまででもなかったかな?
流れにのって劇場を出ながら、余韻に浸った。言葉になり切れないものが、胸に沈んでいく。
すこし上気した肌を、外気が穏やかに撫でてゆく。空を見上げる。
日が傾いていた。
このまま、どこかに行ってしまおうか。
ルーリは、ひとり、立ち止まった。
瞬きをする。
そうするべきなのかもしれない。
太陽の落ちる方角。
そこで暮らす自分は、どんな顔をしているのだろうか。
笑い声に、耳を澄ました。
一歩足を進める。
二歩。三歩。
そして、大きく伸びをした。
――帰ろう。
斜陽の中、劇中の踊りを真似てみる。
ルーリは神殿へ戻る道を歩き出した。
夕暮れ。門を潜り、いつもの角を曲がる。窓が続く広間。白亜の神殿が、この時間は赤く染まる。
ルーリは働く人の邪魔にならないように、窓のそばを歩いていた。
カーテンがそよぐ。
一日の終わり。片付ける人、これから夜に備える人。
聖布が畳まれ、遠くに灯が見えた。
神官の白と、召使の黒が、同じ廊下を交わることなく行き交う。
背後に気配が生じたのは、その時だった。
振り返る。
ゼファ。
ルーリは内心、首をかしげた。
乱れた髪。ぽたりと一粒落ちたのは、汗だろうか。
逆光のせいで、表情は見えなかった。
目だけが見える。
どこか異様だった。
ルーリは自らの衣服に一瞬目を落とした。このまま、礼を失しない距離で、彼にかけるべき言葉は。
「どうかされましたか? ゼファウス様。私になにか……?」
その時、強い風が吹いた。カーテンが、ふたりの方に向かって強くなびく。
包まれる。
喧騒が、途絶えた。
夕陽に染め抜かれたカーテン。
真っ赤に染まる。ふたりだけの世界。
ゆら、とゼファウスが揺れた。黒く長い影が、意思を持って傾いてくる。
ルーリは息を飲む。
背後に立たれた時点で普通ではなかったのに。踏み込んでくるなんて。
光と影に縁取られた顔が、近づいてくる。
ゼファウスの唇が動く。
ルーリはその唇を凝視した。
吐息が、重なる。
動けない。
ゼファウスの手が、カーテンに触れる。逃げ場を断つように。
目の前に迫った男の胸に、かろうじて手を当てた。
抵抗だったかさえ、もうわからない。
衣服を握る。
身体に、触れられたわけではなかった。
耳がかすかな空気の軋みを拾う。
掠れた声が呼んだのは、自分の名前と。
「 どこにもいかないで 」
足が、動かない。
身体が、そちらに引かれていくようだった。
腕に力を入れなければならない。
――本当に?
逃げなければならない。
――どうして?
永遠とも思える時間が過ぎて。
風が止む。
舞い上がったカーテンが、沈む。
ふたりは、同じ瞬間に離れた。
残ったのは、ゼファウスの衣服に刻まれたルーリの手の跡だけ。
夏至が近い。




