5話
「ヨフィエラ様、道にお気をつけください。――あ」
ルーリの声は届かなかった。
ヨフィエラは悲鳴を上げて飛び退く。
昨晩の雨を受けてぬかるんだ道が、太陽を映して鈍く光る。
ヨフィエラはほんの少し汚れた靴を、呆然と見つめていた。
随従たちが、身を縮めた。
「どうぞ」
一行を救ったのは、優しく響く低い声。
少しだけ笑みを含ませて、ゼファウスはその場に膝をつく。
ヨフィエラに背中を向けて。
「え」
男は、足元のぬかるみを気にする様子もなかった。
ヨフィエラは、自らの靴と、婚約者の背を交互に見る。
「ど、どうしろっていうのよ?」
「乗ってください。道が安定するところまで、お運びします」
「子どもじゃないんだけど?」
「では、このまま歩かれますか?」
ヨフィエラの頬が膨らむ。
「ゼファのそういうとこ、嫌いだわ」
予告なく、彼女の小さな鞄が飛んできた。ルーリはなんとか受け止めて、ふたりに目をやる。
ヨフィエラの両手が、おそるおそる、その広い肩に置かれようとしていた。
「光栄です」
男の微笑は、文句のつけようのない形をしていた。
ヨフィエラはゼファウスの背中に体重を預ける。一気に上がった高さに、「きゃ」と悲鳴が上がった。
「立つなら立つって言いなさい」
口調こそ不満げだったが、首にしがみつくように腕を回した。
「怖くはありませんか?」
「あなた、私を落とすつもり?」
「滅相も」
「ならば何も問題ないわね」
風が吹いた。雲ひとつ見えない空。新緑が続く道。重なって歩くふたりの影。
よく似た光景が、ルーリの思考をかすめた。
黄金色の髪が、鼻先でそよぐ。
抱きしめた首元は、汗で濡れていた。
小さな背。
それでも、揺らがなかった。
「……」
ルーリは歩く。ゼファウスとヨフィエラのすぐ後ろを。
何も聞こえない。
記憶の景色は、高くなかった。
ゼファウスが、ヨフィエラを抱え直す。
大きくなった。
胸の奥で、羨望が疼いた。
首元の石に触れかけた手を制して、ただ、黙ってついていった。
「巫女姫ヨフィエラが、あなたがたに慈悲を授けましょう」
観衆に、彼女は告げた。目を閉じ、民の安寧を祈る。
ルーリも一緒に祈った。
明日晴れますように程度の、他愛のないことだったけれど。
ヨフィエラが開眼し、再び観衆に向かって微笑んだ瞬間、大きな歓声が湧き上がった。彼女は、それらを手の動きひとつで制してみせた。
自分にもできるだろうか、とルーリは自問する。
巫女姫は、ただ頷いた。
民に向かって、こともなげに。
日が傾き始める頃には、公務は終わっていた。
「寄りたいところがあるの」
御者へ指示を与えていたゼファウスは、顔を上げた。予定にはない言葉だった。
「どちらへ?」
「ゼファは駄目」
「……それは残念ですね」
「あなたへのお返しを選ぶだけよ」
ヨフィエラの耳元で、青いイヤリングが輝く。だから、とヨフィエラはルーリを見もせずに命じた。
「貴女が来なさい」
上質な木材と、様々な香りが混じり合う。ヨフィエラの足は迷いなく進む。見知った店らしかった。雑貨が多い。
横目で見る陳列棚の色とりどりなこと。素材の多彩さ。庶民との差はこういう所に出るのか、と思う。
ヨフィエラは、気まぐれに手にとっては棚へと戻す。戻しては触れていた。
ルーリは斜めに置かれた品を整えようかと考え、目を泳がせる。どこにでもあるような筆立てに見えた。値札以外は。店員が、無言でずれた商品を戻していった。
「男性物を探しているのだけど、どこかにまとめて……なに?」
立ち止まったルーリを、ヨフィエラが見咎める。
「これ、ヨフィエラ様にお似合いだなと思いまして」
ルーリは、思わず手に取った品物を差し出していた。
刺繍の髪飾り。
白と黄金の糸が羽根を縫い取り、まわりをいくつもの真珠が彩る。華やかでありながら繊細な雰囲気は、ヨフィエラの色彩によく似合いそうだと思った。
ヨフィエラは、立ち止まった。
「……どうしてここにきているかわかってる?」
「あ、そうでした。すみません」
「貴女。私を、巫女姫をなんだと思っているの?」
ルーリは髪飾りを棚に戻した。
少しだけ名残惜しさを込めて。
ヨフィエラはとっくに背を向け、歩き出していた。
その一角に並ぶ、色とりどりの瓶。
香水だ。ヨフィエラは、片っ端から試していった。
考え込んでいる。
「ゼファの香りってどんなだったかしら」
ゼファウスの香り。
ルーリは、脳裏に浮かびかけたそれに、一瞬息を詰めた。
「これが近いかしら」
ヨフィエラが、ひとつの瓶を手にした。濃紺の瓶の中、液体が波打つ。香気が、ふわりと散った。
――あまい。
ルーリの持つ彼の印象よりも、ずっと甘い。
ヨフィエラが、霧に包まれた。巫女姫の気配と、甘く、どこか異国めいた香水が、肌の上を這うように交ざり合う。
交ざり合って、ルーリを侵食していく。
一瞬、見てはいけないものを見た気がした。
上りかけた熱に、視線が彷徨う。
なにか、なんでもいい。
小さな男の子が、誰かの夫になる日。
『婚約おめでとう』
――あの時は、ただの言葉だったのに。
「そもそも、ゼファって何が好きなのかしら」
ヨフィエラが呟く。
ルーリは、香水瓶に視線を固定した。きらきらとして、視界が定まってくれない。
ゼファの好きなもの。平静を手繰り寄せながら、ルーリは思い描く。
孤児院出身だからこそ、お互い望めることは限られていて。
路傍の石。川辺の石。笑顔と一緒に太陽へ掲げた石。
息を吸った。
身体に残った甘さを吐き出す時に、無意識が漏れた。
「……鉱石、でしょうか」
言ってから、ルーリは思わず「あ」と口を開ける。
鉱石。
あまりに場違いな言葉だった。
おそるおそるヨフィエラを見ると、彼女はルーリを凝視していた。
無作法が咎められる気配は――未だ、ない。
ルーリはこほん、と空咳をした。
ペンダントの石に触れかけた手は、そっと戻して。
まっすぐヨフィエラに向かい合った。いつもより少し幼く見える、彼女の頬の線。
ゼファウスが喜ぶであろうものを、ゆっくりと思い描く。
ふしぎと答えはするりと出た。
「ヨフィエラ様の選んだものなら、なんでも喜ばれるかと」
誤魔化せたかはわからなかったが、本音だった。
ヨフィエラは動かない。
どれくらいの時間が経っただろう。
「あ、あなた馬鹿なの?」
ルーリは目を伏せた。
「適当なことを言うのね。呆れた」
ヨフィエラが、ルーリの黒いベールの奥を透かすように睨めつける。
「人形が、答えられるわけがなかったんだわ」
白と黒。
全く違う姿なのに、よぎる鏡。
次の瞬間、ヨフィエラの身体は勢いよく卓上小物の棚へと向いていた。
「これを包みなさい。それと、そちらの棚にある物も」
店員が駆けつける。
ルーリは、ヨフィエラが倒しかけた香炉を、慌てて支える。
棚の端で、瓶と瓶がかち合い、澄んだ音を立てた。
「何をしているの。さっさとしなさい!」
そして、彼女は踵を返す。
「これ以上、役に立たないなら――」
その先は、なかった。
音を立てて、帰還中の馬車が止まった。
「どうした」
同乗の随従の問いに、答える者はいなかった。ヨフィエラとゼファウスは、別の馬車だ。
やがて御者が応じる。
「事故のようです。道が塞がって、進めません」
ルーリは馬車のドアに手をかける。
「すみません。見てきます」
一歩踏み出した瞬間、ベールが風を孕み、視界が広がった。
傾きかけた陽が、ざわめきの輪郭をほのかに彩る。雑然と並んだ街角に、人だかりがあった。
降り立った瞬間、無数の目が黒衣へと注がれる。
石造りの角の前、形を留めない車輪。うずくまった人影。
「ちょっと見せてください」
駆け寄る。
立ち塞がりかけた群衆に、片手を軽く上げ制した。
膝を折る。
侍女のお仕着せが地面に広がる。
老人だ。腕を押さえて低く唸っていた。
「動かないで」
脇に手を入れて、近くの壁に寄せる。
「あなたさまは……」
ルーリの知識では、確認できることはほんのわずかしかない。
肘に滲む赤。そっと指を添えてみたが、老人は身じろぎしただけだった。
肩に触れる。手首に触れる。
こちらに痛みはなさそうだ。
「折れては、なさそうかな。少し待ってくださいね。……よっと」
ルーリは立ち上がり――自らの黒衣の下、白いパニエに指をかけ、ためらいなく破いた。布目が裂けていく音に、周囲が波打つ。手は止まらない。
破いた布を巻き付けていく。最低限だが、ないよりはましだろう。
最後に老人の肩に、小さく触れた。
「応急処置なので、あとでちゃんとお医者様にかかってくださいね」
巫女姫様の馬車だ、と誰かが言った。人々のざわめきが徐々に大きくなる。
老人が、ベールの奥のルーリの双眸を覗き込んだ。
ルーリはかすかに微笑み返した。
老人はぽかんと口を開ける。
「聖女様……!」
そして、震える声で叫んだ。
「え」
「ありがとうございます。この御恩は忘れません」
ルーリは首をかしげる。
「ええと、何か勘違いされた気もしますが。どういたしまして」
もう大丈夫そうだ。
「早く治るといいですね」
立ち上がると、西日の混じる風が黒衣を大きくたなびかせる。
ルーリは、裾の広がりに手を添えた。
「では失礼します。道を開けていただいてもよろしいでしょうか?」
道が開いた。
道端に停められた馬車の中、巫女姫とその婚約者は黙ってその光景を見つめていた。どちらからともなく外された目は、狭い座席へと戻る。
ゼファウスが窓のカーテンを引くと、外の歓声は遠のいた。
「なにあれ」
ヨフィエラの呟きが、抑揚なく落ちる。
男は無言で窓枠に頬杖をついた。
指が一度、とんと鳴る。
ヨフィエラは口を閉ざしたまま。
巫女姫の匂いを、ゼファウスは吸い込み、吐き出した。
馬車が動き出す。
窓の外の景色が流れていく。
ゼファウスは顔を上げる。
ヨフィエラの手が、彼の膝の上にあった。珍しい行動ではない。時折、そうやって甘えてくる。
白い指に力がこもる。
男は、わずかに顔を強張らせた。
初めての出来事だった。それは、何かを握り潰そうとするかのような、強さで――
隠しきれない驚きのまま、彼女の顔を見た。
俯いている。
巫女姫の装束が、表情を覆い隠す。
こちらを見ようともしない。
ゼファウスが、自分の膝と彼女の指を案じ始めた頃。
ヨフィエラが、ゆっくりと面を上げる。
「ねえ、ゼファ」
その目に、光はなかった。
「私、気づいちゃったの」




