4話
ルーリが形式的なねぎらいの言葉をかけた瞬間だった。
「あの日の御言葉を、今も胸に。本日は勤めさせていただきます」
ざわりと、梢が鳴った。
声の先には、新緑の木立。
聖騎士の鎧を着た若い男性が、直立不動で佇んでいる。
影武者として、神殿内のただの移動だったはずなのに。一歩踏み出すと、木漏れ日の中に包まれた。
――彼は、なんと言った?
ルーリの視線を受け、彼は勢いづいた。
「以前、修練中にお声かけをいただきました」
覚えていない。
汗ばんだ首元に、髪が張りついた。
聖騎士は、神殿には珍しくはない存在である。護衛として巫女姫を遠くから守っているのも彼らだ。
「無礼かとは思いましたが、一言ご挨拶をしたく」
葉の重なりを縫って、光が一筋落ちる。
白銀の金属が、光を弾いた。
以前、という言葉に思考を沈める。
ヨフィエラの行動を思い出す。彼女は、あまり下々には声をかけない。
ルーリは改めて彼の顔を見た。
「……あら、忘れてたわ。そんなこともあったわね」
唇に爪が当たる。柔らかく握ったこぶしの中に、吐息を隠す。
瞼が落ちる。ゆるりと開く。微笑みは、慣れた形。流れるように、彼を見た。
「変わりはない? 今はどのような修練を?」
そう言った瞬間、聖騎士は恐縮しながらも表情に明るさが灯った。
続く彼の言葉を、ルーリは胸をなでおろしながら聞いた。
彼の修練の話は案外面白かった。重い装飾を背負っての儀式。身に馴染むまでの反復と、共通項が多い。
「思ったより話し込んでしまったわね。――今後も聖騎士として、励みなさい。あなたに加護を」
聖騎士は、感極まったように頭を下げた。
彼に背を向けて、ルーリは歩き出す。
木漏れ日を抜ける。梢が風にさやぐ。
気づけば、汗は乾いていた。
木立を抜け、ルーリは告げる。
「部屋に戻るわ。今日はこれ以上何も持ってこないでちょうだい」
随従たちは無言で頭を下げた。そろそろヨフィエラが起き出す頃だろう。
太陽は、ほぼ真上にあった。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
ゼファウスが隣の区画で書類を抱え、背中を向けて立っていた。
雑にまとめられた束から、妙に折れ曲がった紙が一枚ひらりと落ちた。
確かに、視線を感じたような気がしたのに。紙は拾わないのだろうか。
「ゼファウス様、先ほどの件ですが」
役人が声をかける。
「婚礼用の花の手配は、慣例通りで結構です」
「巫女姫様の指示は、仰がずともよいでしょうか」
「お手を煩わせたくありません。……資料は追って届けさせます」
いつもより、ほんの少し低い声。彼は、ようやく落ちた書類へ手を伸ばした。
ルーリは歩く。石畳が応える。
ゼファウスの陽光に照り映える後ろ髪。
肩幅の線が、右から左へと視界を流れていく。
白いベールが、風に舞い上がる。
香りは、届いただろうか。
ヨフィエラの私室へ続く廊下に入ると、表の喧騒はあっという間に遠のいた。
ルーリは耳を澄ます。何も聞こえない。
ぽっかりと空いた感覚に、周囲を見渡しつつ、控室へ足を向けたその時。
何かが割れる甲高い音が、静寂に波紋を落とした。
駆け出す。扉を押し開け、左右を見る。
巫女姫の部屋、右手奥。鏡台の前に、ヨフィエラの後ろ姿があった。
髪は、寝起きのまま。
ルーリの双眸は、素早く異変を探る。
床に、陶器の破片と、湯気のない紅茶が広がっていた。
「ヨフィエラ様」
手元を見ていた後ろ姿が、びくりと反応した。その手に赤みは見えない。
視線を上げる。
鏡を、見た。
顔色を失ったヨフィエラと。
その後ろに、よく似た白いベール姿の女。
お互いの視線が交わって。
ふたりの巫女姫が、そこにいた。
どちらかが、瞬きをした。
ルーリは迷わず、足を踏み出した。
床に散らばる陶器の破片。紅茶が染み込んでいくヨフィエラの象牙色の夜着。
ヨフィエラの喉が、かすかに動いた。
響いたのは、どんな音だったか。
わずかに、けれど明確に後ずさった彼女へ、ルーリは手を伸ばした。
「動かないでください。お怪我はありませんか?」
「!」
ヨフィエラの瞳が、鋭くルーリを捉える。
伸ばした手は、――乱暴に払いのけられた。
「近寄らないで」
声は明瞭だった。震えてもいない。
ただ、瞳だけが、いつもと何かが違う。
ヨフィエラは戸惑うルーリを見据え、一度唇を引き結んでから、それを押し開けた。
「あなた! 巫女姫の衣装を汚すつもり?」
「え、ええっ」
ルーリは飛び上がった。
鏡の中で、巫女姫も飛び上がる。
光を受けるためだけに織られた、繊細なドレス。ルーリの動きに合わせて、足首まで覆うレースが、濡れた床との境目で揺れた。
「す、すみません、いつもの癖で。思わず」
足元で陶器の破片がかちりと鳴る。
「……きもちわるい」
ルーリはしずしずと後ずさった。
そっとつまんでみたドレスに、今のところ紅茶の染みは見えない。
次の反応を、恐る恐るうかがう。
「下がって」
「……承知しました」
ヨフィエラは、背を向ける。
濡れたままの夜着に構うことなく、奥へと消えていった。
驚かせてしまった。肩を落とすと、鏡の向こうの女も情けなく肩を落とす。
脳裏に、ヨフィエラの眼差しがよぎる。
ルーリは服を着替えることにした。部屋に戻って、破片を拾う。
とはいえ、やってしまったことは仕方がない。動きながら、そう決めた。
破片をゴミ箱に捨て、紅茶を拭いて。
それから――うん。
ルーリは自室に戻っていた。
きちんと片付けられているというべきか、ものがないというべきか。
「あ、あった」
目的のものはすぐに見つかった。
ルーリは昔から、飴が好きだ。
安価で、お祭りで売られていて、皆で分け合えるもの。
何より、色とりどりで見ていて楽しい。
小さな紙袋に入ったそれを、そっと懐にしのばせる。
顔を上げると、小さな鏡が目に留まった。ルーリにとって、巫女姫と似ても似つかぬ女の顔。にこりと笑ってみる。
笑顔より、声のトーンの方が大事かもしれない。
色々思い描きながら、部屋を後にした。
歌い終えた聖歌隊に、黒衣の侍女が一人、近づく。大の大人でさえ、警戒させてしまう姿。わかっている。
案の定、子どもたちの塊が、じりと後ずさる。
ルーリは慌てて両手を振った。
「ち、違うの。怪しくないから」
今日で三度目。
声をかけたのは初めてだった。
ええと、と声色を整える。
「とっても素敵でした」
小さな手に、そっと飴の包みを押し込む。
「内緒ね?」
ベールの下で、微笑んでみせたけれど、伝わったのかはわからない。
ルーリはそれだけ言って、背を向けた。
黒い薄布が空気に遊ぶ。
足早に去る背へ、一拍置いてわあっと明るい歓声が響いた。
笑い声。
ほんの少しだけ、足取りが軽くなった。
歓声の余韻が、しばらくの間廊下に残っていた。
青衣の巫女姫にとって、世界は騒音に満ちていた。
ヨフィエラは、無意識に髪をいじる。
気分が乗らず、足取りは軽くなかった。
わあっと響いた明るい歓声。白いベールの下、わずかに眉をひそめる。
背を向けた瞬間には、慈悲深き微笑を浮かべていた。
人々は見惚れ、順に礼を取る。彼らの目に映るのは、美しい巫女姫。
ヨフィエラは、それらを覗き込み、――次の瞬間、全て意識の外に追い出して、ひとつの扉の前で足を止めた。
「退屈だわ。まだなの?」
執務室に現れたヨフィエラへ、室内の随従が音もなく深々と頭を下げる。
ゼファウスは普段と変わらぬ所作で、すぐに椅子から立ち上がった。
外気を連れて入ってきたヨフィエラの姿を一瞥し、目を細めて微笑む。
「お手間をとらせて申し訳ありません。あと少しで終わります」
彼女は彼の方を見なかった。かすかに、肩を上下させる。
唐突に命じた。
「……窓を開けて」
室内で、紙束を整える音が重なる。
随従はただ従った。
「仰せのままに」
流れ込む風が書類を散らしたが、ゼファウスが淡々と手元へ引き寄せた。書類の上に鉱石の文鎮を置く。
「……ゼファ、何をしているの?」
ヨフィエラは、窓際の椅子へと歩いていく。
「秋の行事についての確認です。実務的なことですよ」
「そう」
興味なさげに、ヨフィエラは言った。
椅子に座り、頬杖をつく。
視線は外へと向かい、空を映した。もう、室内の音は届いていなかった。
指が、ビーズの腕輪の上を彷徨う。
時折ビーズ同士が擦れて音が響いた。
ゼファウスは、顔を上げる。
役人が、彼の名を呼んでいた。
「秋の収穫祭の件ですが……行程に無理があるかと存じます」
答えは短い。
「問題ありません」
「……しかし、――」
「問題ない、と言っている」
ゼファウスの視線は、婚約者の背中と、その先へと注がれた。
唇だけが微かに弧を描く。
どこか、うっすらと冷たかった。
ヨフィエラが、無意識に腕輪を握り込む。白い指が押しつぶす。糸が千切れる。
弾けた青いビーズが、磨き上げられた床を染めていく。
ヨフィエラは空を見続けていた。




