3話
「巫女姫様、このひと、こいびと?」
聖歌隊の少年のソプラノが、場違いなほどよく通った。
その一瞬。ルーリの頭のすぐ上で、ゼファウスの息がほどける。
「そうだよ」
低く、やさしい声で、彼はかすかに笑った。
神殿の庭には、聖歌隊の子どもたちが集められている。慰問と、祈りの歌の披露。その後の、ささやかな懇親。
巫女姫を囲むことは、よくある光景のはずだった。
子どもたちの手が、あちこちから伸びてきた。その間に、不意に、手袋の手が割り込んだ。
子どもの手首を、ひとつ。
やわらかく外す。
もうひとつ。
いつの間にか、彼の腕の中にいた。
今日もまた、距離が曖昧になる。
「こら、失礼なことを。……口を慎みなさい」
焦る司教に、白いベール姿のルーリはなんでもないことのように首を振ってみせる。
「構わないわ」
司教は無言で頭を下げ、ルーリは歌に意識を沈めた。
問題は子どもたちじゃない。
回された手に、そっと触れる。押し返すように、指先で力をかける。
けれど、ゼファウスの指は、わずかに応じただけで、離れなかった。
ヨフィエラはあくびをした。
塵ひとつなく整えられた巫女姫の私室に、呼吸音が溶け込んでいく。
部屋の硝子飾りが、床に澄んだ輝きを散らす。淡い青色と相まって、水底を思わせた。
伸びをした拍子に、象牙色の部屋着がわずかにめくれる。
「かびくさい行事、いつまで続けるつもりかしら。……寝ていたのに、起こされたじゃない」
その後しばらく、美しい歌に対する不満が並んだ。声に、色は薄い。
表では聞かせられない話だ。侍女姿のルーリはこっそり苦笑しつつ、運んできた封筒をヨフィエラの前に置いた。
「それに、聖歌隊の服って、手入れされているのかいつも不安になるの」
ヨフィエラは、ひょいと封筒をつまんだ。窓から差し込む光が、現れた便箋を透き通った金色に変えた。遠ざけ気味にしながら、横目で見る。
「また来ているわ。祝賀状」
「前と同じ対応でよろしいですか? でしたらお預かりしますが……」
言葉は届かなかった。
「あら」
便箋は、すでに破かれていた。文字が、ばらばらになって、机に積もっていく。
形式的なものだから、対応自体は難しくない。
それより心配なのは、とルーリは窓をちらと見る。開いていない。よかった。外気と紙片。紙吹雪。
あれは大惨事だったっけ。
「あの子たちと会ったあと、ゼファに変な匂いが移っていないか、心配なのよね」
ぱらぱらとヨフィエラの指から紙片が落ちる。片付けるため屈みかけたルーリに、ヨフィエラは少し鼻を動かした。
「あなたも、そばにいた割には、移ってないみたいね」
ルーリは薄布の下で、曖昧に微笑む。
客人の来訪を告げる声。ヨフィエラはあくびをしかけた口を、急いで閉じた。
「ゼファウス様がご面会を希望しています」
随従の声に、訝しげに目を細める。
「何かしら。ゼファにしては珍しい時間ね」
「お通ししましょうか?」
その瞬間、ヨフィエラは立ち上がる。
手元の紙片が、光を照り返しながら、舞った。床に張りついたルーリの足。室内に容赦なく降り注ぐ紙吹雪と、ヨフィエラの声。
「ねえ。ぼーっとしてないで。着替えるから、服とって」
ルーリは駆け出す。
立ち止まっている時間はなかった。
ゼファウスは、婚約用のイヤリングの完成を告げた。
「今から受け取りに向かいますが、よろしければご一緒できればと思いまして」
「行くわ」
ヨフィエラの返答は素早かった。少しだけ億劫さを滲ませて、窓の外を見やる。
日差しは強さを増している。
「夏至はもっと暑いのよね。当日も晴れるかしら」
夏至。
婚姻の日。
最も華々しい日。
無邪気に微笑んでいるヨフィエラを、ルーリは静かに見ていた。
馬車は進む。
予想外な出来事がひとつあった。巫女姫の馬車と知った市民から、献上品があったことだ。
「姫様! 婚約おめでとうございます!」
「これ、うちの一番良いやつで」
「どうかお納めを!」
ゼファウスは、見事に輝く苺が収められた籠を手に戻ってきた。
「このあたりの苺は、最高級品として有名ですね」
「苺? 食べたいわ」
馬車を止められ、不満げだった表情を一転。ヨフィエラは、見事な赤に目を奪われていた。
「だめです」
ゼファウスの反応はつれない。
「私のものよ」
唇を尖らせたヨフィエラを、彼は宥めた。
「毒見が必要です」
礼儀正しく、その籠を持ち直しながら言う。
「それが済み次第、落ち着いたところでお渡ししますよ」
「ならいいわ。忘れないことね」
ゼファウスは完璧な微笑で、婚約者に応じた。
「御意」
「宝飾品の店……ではないのね」
日傘をルーリに手渡しつつ、ヨフィエラは首を傾げた。
「宝飾に限らず、女性が身に纏うものを総じて扱う店です」
ヨフィエラは、婚約者の腕にエスコートされ玄関を潜った。
「気に入っていただけるとよいのですが」
巫女姫の来訪。
店内は人払いがされていた。
わずかな店員も、その神聖な香りの広がりに、礼と距離を取る。
「どうぞ。お受け取りください。我が婚約者殿」
ビロードの中で、青がきらめく。
磨き上げられた石。
深い色が、光の加減によって、空のようにも、水の色のようにも見える。
それは、ゼファウスが選んだ形。
――色。
「私によく似合うわ」
ヨフィエラは微笑み、髪をかきあげる。ゼファウスは黙って、その仕草に応えた。
長い指が、慎重にイヤリングに触れる。
「尊き御身に触れさせていただく幸せ」
舞台役者のように告げると、彼女の耳へと指を滑らせた。
「せっかくだし、ドレスも見せてもらおうかしら」
ヨフィエラの声に、ゼファウスは心得たように頷いた。
控えていた店員に視線をやると、奥への道が開く。予定された動きだった。
「姫様。こちらが試着室になります」
「何着か持ってきて。イヤリングに合わせるのよ」
ルーリは一歩踏み出しかけ、止めた。店員に任せるべきだろう。
「こちらで、お待ちしております」
ゼファウスの声は、すでにヨフィエラには届かない。
彼女の背は楽しげに、店員と共に奥へと消えていった。
残されたのは、ふたり。
ふたりきり。
影の落ちた店内で、ふたりは重心を変えた。
「……はあ」
無造作に、ため息ひとつ。
ゼファウスはゆるく髪を払い上げると、周囲を見渡した。
少し離れた壁際に立つルーリの姿も、あっさりと素通りし――探していたものに、目を留めた。
籠を手に取る。
真っ赤な苺。
無言のままつまもうとし、そこで何かに気づいた。
手袋。
やや乱雑な仕草で、さっさと外すと、今度こそ籠から苺をひとつ取り出す。
そして、素早く自らの口へ放り込んだ。無表情のまま、ゆっくりと食む。
咀嚼音。
ルーリは苺の籠をぼんやりと見つめ、
――あ。
気づいた時には、ベールの縁に彼の指がかかり、わずかに持ち上げられていて。
そのまま、苺がまっすぐ差し込まれた。
「む、」
噛むことすら、一瞬遅れた。
瑞々しい香りが鼻腔を抜ける。
脳裏をよぎったのは、かつて泥まみれの手で分け合った、あの酸っぱい木苺の味。
果汁は抗いようもなく甘い。
悪戯を成功させた男が、笑いの気配を滲ませている。
耳に吐息が触れた。
「なあ、苺うまかった?」
ルーリは身じろぎした。
「……味なんて、わかるわけないでしょ」
「その割に、顔に出てたように見えたぞ」
距離が詰まる。
覗き込んでくる長身に半歩下がると、背中に壁が当たる。
ルーリは、苺の最後のひとかけらを飲み込み、ゼファウスの唇の曲線に半眼を返した。こいつは、どうしてこんなに楽しそうなのだろう。
ルーリは姿勢を正す。真正面から向き合って――笑ってみせた。
「そういえば。ねえゼファ」
見つめられたゼファウスは、少しばかりたじろいだ。
その隙を逃すルーリではない。
「ほら、先日。ヨフィエラ様とのお食事をご一緒していたでしょ」
政治的な晩餐会。侍女として、ただ、見ているだけの時間だったけれど。
「人参を食べた時。顔に出てたわよ。子どもじゃないんだし、いい加減なおったと思っていたのに」
ゼファウスは呆気にとられ、次の瞬間に天を仰いだ。
「……マジかー。いや、お前しかわからんだろ」
男の手が、反射的に小突くような形をとる。いつかの手刀に似た、でもそれよりもずっと頼りない速度で。
額に迫る。
「そうだといいわね?」
ルーリはその手を睨んだ。
ゼファウスはその視線に、なんともいえない表情で、眉を下げた。
自らの手を見る。
ルーリを再び見つめる。
行き場を失った手は、触れることなく、ひらひらと空中でおどっていた。
毒見は済んだとばかりに、ゼファウスは籠に布をかぶせる。それから立ち位置を変え、ルーリの真横に立った。立ち姿だけ見れば、一分の隙もない貴公子だ。
正面にヨフィエラの消えた試着室の扉がある。あとは、待つだけ。
そのはずだったのに。
――気づいたら体重をかけられていた。
傍目にはわからないだろう。
様子を探る。
慌ただしさと衣擦れが混じる音。
まだかかりそうだ。
横を向いて、見上げてみても、彼の視線はこちらを向かない。
体温が伝わる。それだけの距離。
ルーリが押し返す。
ゼファウスが少しよろめいた。
よろめくフリをしている。
それでも、離れようとしなかった。肩がかすかに震えている。
くっつきあっているのか、喧嘩しているのかも、わからなくなってきた頃。ふたりの視線が同時に試着室を向いた。
遅れて、奥から音が近づいてくる。
ゼファウスは何事もなかったように、指先を手袋へ滑らせた。
「さて、そろそろか」
ルーリはそっと、髪を耳にかけた。
「どうかしら」
現れたヨフィエラは、微笑んだ。
繊細なレースのドレス。
裾へと向かうにつれ、青が深みを増していく。緻密に仕立て上げられた袖口から、ほっそりとした腕が、可憐に覗く。
耳元できらめく、青い愛の結晶。
ヨフィエラは、軽やかに回ってみせた。
言葉より先に、その場の誰もが見入った。店員が深く頭を下げる。
ゼファウスは、瞬きすら忘れたように彼女を見つめていた。
「巫女姫の結婚式はめでたいものだから、みんなにも楽しんでもらわなくちゃ」
白い手が、男に向けて差し出される。
「花婿さん。さあ、あなたも」
男は、うやうやしくその手のひらを取って、自らの黒い指で包みこんだ。
ふたりは身を寄せ――
ルーリの視界の中で、青さだけが揺れていた。




