2話
風の強い日だった。
木々が傾き、葉が落ちる。
神殿の回廊。書類が舞い上がる。
黄金の髪を風に遊ばせた男が、長い脚で駆け出した。
舞い上がる書類を、ひとつ捕まえる。
その反対側では、黒いベールの女が、広がるスカートをものともせずに跳んでいた。
書類に指が届く。
役人は、唖然と立ち尽くした。
不注意の結果、悲鳴を上げたのも、ほんの今しがたのこと。
男の方は――巫女姫の婚約者だ。その事実に気づいた時、役人は本日二度目となる悲鳴をなんとか飲み込んだ。
彼は見える範囲を拾い集めると、角を揃えて、役人に向かって差し出した。
その上に、反対方向から残りの書類が重ねられた。
振り向くと、そこには黒衣の侍女がいた。こちらの書類もまた、きちんと整えられている。
右からは男の視線。左からは女の視線。
役人は、大慌てで抜けがないか確かめ、顔を上げた。
礼を言うために開いた口が、次の瞬間、驚愕に広がった。
「あ、あれ?」
無人の回廊。言葉もなく、足音もなく。
ふたりはもうどこにもいない。
「風が強いな」
角を曲がったゼファウスを、侍女は足音もたてずに追い抜いていく。追い抜きざま、男の肩にかすかに触れた。
彼女はしばらく歩いてから、空へ向かって手を開く。
解き放たれた落ち葉が、灰色の空に吸い込まれていった。
いつの間に、くっついていたのやら。
世話を焼かれていたらしい。
男は吐息だけで笑う。
侍女はとっくに姿を消していた。
巫女姫の私室へ、客人の来訪を告げる声があった。
ルーリは、顔を上げる。
長椅子に横たわるヨフィエラの顔色は、あまり優れなかった。
当代の巫女姫は、虚弱だ。
影武者の存在は、神殿のごく一部の者しか知らない秘密である。
無造作に広がった髪。今朝は、整えることすら拒否された。
「……通して」
「失礼します」
ゼファウスは、婚約者の姿を見るやいなや、大股に彼女の寝そべる長椅子に近づいた。膝を折る。
ヨフィエラの瞼が、ゆるりと開いた。
彼女は婚約者の訪れを受け、緩慢な仕草で立ち上がった。
彼もまた、それにつられて立ち上がろうとしたが、ヨフィエラはその両肩に触れて制する。ゼファウスは、跪いたまま見上げる形となった。
見つめ合う。
男の凪いだ瞳が瞬きを挟んで、鮮やかに綻ぶ。
その、切り替わりの一瞬。
影武者としての自分も、あんな風に見えるのだろうか、とルーリは思った。
「……気に入らないわ」
ヨフィエラは、彼の双眸をしばらく眺めた後、眉をしかめた。
両肩を押す。
ゼファウスは、傾きかけたが、すぐに立て直した。案じる視線は、変わらずヨフィエラを追う。
ヨフィエラは、くるりと背を向けた。
「今日は無理よ。この体調じゃ、絶対に」
再び、長椅子に身を預けていく。
ルーリは、ヨフィエラに薄い毛布をかけようとし――
「今日の祈りは、貴女がやりなさい」
突然の指名に、思わず毛布を握りしめた。
今日の影武者は、想定していなかった。
ゼファウスは口を挟むことなく、流れるように立ち上がる。
巫女姫と、その婚約者の視線を一身に受けたルーリは、ゆっくりと頷いた。
拒否権は、ない。
「わかりました」
改めて、ふわりと毛布をかけて。
「では、行ってまいります。しばらくの間おそばを離れること、お許しください」
窓の外は曇り空。
窓枠ががたがたと音を立てる。
追われるように、ルーリは床を蹴った。
手のひらの中の香炉は、重い。着替えを済ませ、ルーリは香をくべていった。
巫女姫への、漠然とした憧れがあった。
空気が澄み切っていく様子が見えた、と――謁見した人々の、熱に浮かされた言葉が強く残っていたのだろう。
巫女姫は、生まれた時から神聖な香料を焚きしめた部屋で育つ。
肌に染み付いた香りこそが、証。この世のものとは思えないかぐわしさの正体が、特殊な香料によるものだったなんて。
真実を知った時の感情は、そっと沈めて。影武者は、香料を肌に塗り込んでいかなければ纏えない。すぐに落ちて、消えてしまうから。
息を止める。肌に刷り込む。疲労感。
ルーリは最後に、ペンダントを解いた。
きちんと、侍女服と一緒に仕舞う。
磨かれていない、緑の混じった青い石。
遠い昔、誰かがくれた誕生日プレゼント。太陽が最も高い日。
巫女姫の祈りは、この国の安寧そのものだと言われている。
神殿の奥、祈りの間。巫女姫だけが入ることを許されたその空間で行われるもの。
ルーリは最初、戸惑った。影武者で代理ができる類のものではないと。
返ってきた答えは単純だった。
前例がある。ただそれだけ。
超自然的な力は、とうの昔に失われたという。
今では象徴として受け継がれている。
それでも。
祈りとは何か。
ルーリの問いに、答える人はいない。
長い廊下を抜け、祈りの間にたどり着く。間、と名付けられてはいるが、屋外だ。端すら見えない、開けた空間。
見上げれば、広大な空。足元から正面へと、一本の道がまっすぐに伸びている。その道の両脇は、底が見えるほどの浅瀬が広がっている。道をたどった先に、祈りの場である高台がある。高台からは水が流れ落ち、遠く、滝のような音が響いていた。
ルーリは登る。
来た道が、背後で小さくなっていく。
高台の上では、水が縁から絶え間なく落ちていく。落ちた先は見えない。
音すら、吸い込まれていく。
落ちた先に何があるのか。
——知らないわ、とヨフィエラは以前言っていた。
『先代が、高台から物を落としたことがあるそうだけど。結局見つからなかったんですって』
まさか、怖いの? と彼女は興味なさげに聞いた。
何と答えたのか、思い出せなかった。
祈りの場に着いた。灰色の空を映した水面は、暗い。
ルーリは跪く。
ぽつ、と雨粒が波紋を作った。教わった作法通りに動く。
ルーリは祈る。
雨の音が増し、意識が宙に溶けていく。
届くかどうかは、関係なかった。
ただ、ここに在るだけ。
髪が水を含み、肌を雨が伝い、全てを洗い流していく。
雫が、廊下にじわりと滲んだ。
祈りを終え、ルーリが神殿に戻ると、神官たちが集まってきた。普段であれば、遠巻きに礼を取る彼らも、濡れそぼった巫女姫の姿は放っておけなかったらしい。
ルーリは、ヨフィエラの姿を思い浮かべる。こういう時は、どのような反応をするだろう。
濡れた髪を、耳にかけようとした瞬間、自らの過ちに気づいた。
――匂いが、ない。
雨で落ちた。
さあ、と血の気が引いた。
その間にも、神官たちは間合いを狭めてくる。露見すればどうなるか、おおよそ知っている。
一歩後ずさった。
二歩。
手を握りしめたその時、黒い背中が視界を埋めた。
「お気遣いなく。私が部屋までお連れしますので」
よく通る声が落ちる。
神官とルーリの間に、ゼファウスが立っていた。
「ゼファ」
「雨の中、お疲れではないですか」
「……疲れたに、決まっているじゃない」
ルーリは、差し出された彼の手を一瞬睨み、そのままするりと身を委ねた。
彼の腕に両手を絡める。
ヨフィエラの腕を組む力は、これくらいだろうか。
神官たちへ、ゼファウスが指示を与えている。水滴に霞んだ視界。人影が、示し合わせたように散っていく。
彼は、神殿内では巫女姫の隣に立つ者として、相応の影響力を持つ。
その声を聞くうちに、知らず全身が弛緩しかけていることに気づいた。
慌てて、絡めた腕に力をこめる。
「では、戻りましょうか」
歩き出す。
神官たちはついてこない。
彼の手が、ルーリの手の上から覆い被さる。動かそうとしても、揺らがない。
ルーリは横目で睨みながら、言葉を探して息を吸い込み――唇から出たのは、全く違う言葉だった。
「でもね」
窓の外は、灰色の雨がどこまでも続いている。
「雨は嫌いじゃないの」
「知ってますよ」
「そうなの?」
「そんな気がしただけです」
「意味がわからない」
彼は前を向いたまま、喉の奥を震わせた。
ヨフィエラが雨を嫌いかどうかは、実のところルーリは知らない。恐らくゼファウスも、知らないだろう。
雨の音が、静かに響く。
ルーリはくすりと笑った。
雨の神殿。
私室区画へ続く道に、人影はない。
「ルーリ。手を離してくれ」
「え」
ゼファウスの声に、反射的に組んでいた腕を離す。
次の瞬間、背中を回った男の腕は、腰にたどり着いて、ルーリの身体ごと、抱え込んだ。
ぬくもりが染み込んでくる。
「歩きにくい」
ルーリは不満を漏らす。
「別にいいだろ」
ゼファウスはあっさり封じた。
体温を分け合うように。
ただ身を寄せた。
私室区画の廊下に入り、扉が閉まった瞬間。
ふたりは、離れた。
ヨフィエラの私室を、ノックする。
「ルーリです。ご報告にあがりました」
「……いいわ。入りなさい」
雨の音が響く室内で、ヨフィエラは変わらず長椅子に寝そべっていた。猫のように、伸びをする。
温度のない双眸で、ふたりを順に見た。
「ヨフィエラ様、祈りは滞りなく、」
「近いんじゃない?」
ルーリとゼファウスは、目をあわせた。
近かっただろうか。とルーリが目で問う。彼もまた、視線で近かっただろうかと返してきたが、その目に、ルーリに対する興味は見事なまでに映っていない。
つい感心しそうになった。
ゼファウスは、ようやく得心がいったように微笑んだ。
「香が消えかかっていたので、人を近づけるわけにはいかず」
「所詮人形だものね」
彼女は、つまらなさげに天井を仰いだ。その仕草だけで、巫女姫の身体からは神聖な気配が漂う。
ゆるりと起き上がると、すぐそばの卓の上にある箱へ手を伸ばした。
緩慢な仕草で、手を一振り。
箱が薄煙を散らしながら放物線を描く。ルーリが身構えた時には、自身の全身から淡い香りが漂っていた。
空っぽになった入れ物が、ことりと床に落ちる。
餌を与えるような仕草だった。
「ヨフィエラ様」
「もういいわ。下がりなさい」
ルーリは止めていた息を吐き出し、黙して一礼する。
立ち去りかけたふたりの背に、眠たげな声が届いた。
「ゼファは残って」
ゼファウスの顔は見えない。
ヨフィエラに歩み寄る背中を見ながら、ルーリは扉を閉める。
木目に添えた手が、そっと離れた。
ヨフィエラの私室を辞して、ルーリは控室に戻る。
侍女服に着替えながら、散々な目にあったと項垂れた。
影武者の存在を知るわずかな随従たちに紛れ、濡れた髪で細々と業務をこなす。最近、人の出入りが多くて慌ただしい。
紅茶を淹れるために、湯を沸かした。
柔らかな湯気が、ほどけながら天井へ昇っていく。吸い込むと、少しだけぬくもりを感じた。
体質改善によいという茶葉を使ってみる。琥珀色の液体を、ポットの中でくるりと回す。
いい香りだったけれど、残念ながらヨフィエラは口にしようとしなかった。
水仕事が、染み付いた匂いを解いていった。
ようやく訪れた休み時間。
歩調を速めて、ヨフィエラの私室区画を出た。
悪寒。
「くしゅん」
髪はまだ湿っている。誰にも会わないうちに、部屋に戻らないと。駆け出すルーリの背後で、足音がした。
振り返ると、ゼファウスがあっという間に近づいてきて、なぜか毛布を頭からかぶせられた。
「……?」
撫でられている。毛布の上から。
優しくない。でも乱暴でもない。子供の頃から変わっていない接触の仕方で。
声は聞こえない。
ふと気づけば、すぐそばの体温は消えていた。
「相変わらず、かくれんぼが得意ね」
呟いて、少しだけ笑う。
しかし、その表情はすぐに引っ込めた。
毛布を抱きしめる。
そのまま、誰もいない廊下を歩き出した。




