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2/9

2話

 風の強い日だった。

 木々が傾き、葉が落ちる。

 神殿の回廊。書類が舞い上がる。


 黄金の髪を風に遊ばせた男が、長い脚で駆け出した。

 舞い上がる書類を、ひとつ捕まえる。

 その反対側では、黒いベールの女が、広がるスカートをものともせずに跳んでいた。

 書類に指が届く。


 役人は、唖然と立ち尽くした。

 不注意の結果、悲鳴を上げたのも、ほんの今しがたのこと。

 男の方は――巫女姫の婚約者だ。その事実に気づいた時、役人は本日二度目となる悲鳴をなんとか飲み込んだ。

 彼は見える範囲を拾い集めると、角を揃えて、役人に向かって差し出した。

 その上に、反対方向から残りの書類が重ねられた。

 振り向くと、そこには黒衣の侍女がいた。こちらの書類もまた、きちんと整えられている。

 右からは男の視線。左からは女の視線。

 役人は、大慌てで抜けがないか確かめ、顔を上げた。

 礼を言うために開いた口が、次の瞬間、驚愕に広がった。

「あ、あれ?」

 無人の回廊。言葉もなく、足音もなく。

 ふたりはもうどこにもいない。


 

「風が強いな」

 角を曲がったゼファウスを、侍女は足音もたてずに追い抜いていく。追い抜きざま、男の肩にかすかに触れた。

 彼女はしばらく歩いてから、空へ向かって手を開く。

 解き放たれた落ち葉が、灰色の空に吸い込まれていった。

 いつの間に、くっついていたのやら。

 世話を焼かれていたらしい。

 男は吐息だけで笑う。

 侍女はとっくに姿を消していた。

 


 巫女姫の私室へ、客人の来訪を告げる声があった。

 ルーリは、顔を上げる。

 長椅子に横たわるヨフィエラの顔色は、あまり優れなかった。

 当代の巫女姫は、虚弱だ。

 影武者の存在は、神殿のごく一部の者しか知らない秘密である。

 無造作に広がった髪。今朝は、整えることすら拒否された。


「……通して」

「失礼します」

 ゼファウスは、婚約者の姿を見るやいなや、大股に彼女の寝そべる長椅子に近づいた。膝を折る。

 ヨフィエラの瞼が、ゆるりと開いた。

 彼女は婚約者の訪れを受け、緩慢な仕草で立ち上がった。

 彼もまた、それにつられて立ち上がろうとしたが、ヨフィエラはその両肩に触れて制する。ゼファウスは、跪いたまま見上げる形となった。

 見つめ合う。

 男の凪いだ瞳が瞬きを挟んで、鮮やかに綻ぶ。

 その、切り替わりの一瞬。

 影武者としての自分も、あんな風に見えるのだろうか、とルーリは思った。

 

「……気に入らないわ」


 ヨフィエラは、彼の双眸をしばらく眺めた後、眉をしかめた。

 両肩を押す。

 ゼファウスは、傾きかけたが、すぐに立て直した。案じる視線は、変わらずヨフィエラを追う。

 ヨフィエラは、くるりと背を向けた。


「今日は無理よ。この体調じゃ、絶対に」

 再び、長椅子に身を預けていく。

 ルーリは、ヨフィエラに薄い毛布をかけようとし――

「今日の祈りは、貴女がやりなさい」

 突然の指名に、思わず毛布を握りしめた。

 今日の影武者は、想定していなかった。


 ゼファウスは口を挟むことなく、流れるように立ち上がる。

 巫女姫と、その婚約者の視線を一身に受けたルーリは、ゆっくりと頷いた。

 拒否権は、ない。


「わかりました」

 改めて、ふわりと毛布をかけて。

「では、行ってまいります。しばらくの間おそばを離れること、お許しください」

 窓の外は曇り空。

 窓枠ががたがたと音を立てる。

 追われるように、ルーリは床を蹴った。


 

 手のひらの中の香炉は、重い。着替えを済ませ、ルーリは香をくべていった。


 巫女姫への、漠然とした憧れがあった。

 空気が澄み切っていく様子が見えた、と――謁見した人々の、熱に浮かされた言葉が強く残っていたのだろう。


 巫女姫は、生まれた時から神聖な香料を焚きしめた部屋で育つ。

 肌に染み付いた香りこそが、証。この世のものとは思えないかぐわしさの正体が、特殊な香料によるものだったなんて。


 真実を知った時の感情は、そっと沈めて。影武者は、香料を肌に塗り込んでいかなければ纏えない。すぐに落ちて、消えてしまうから。

 

 息を止める。肌に刷り込む。疲労感。

 ルーリは最後に、ペンダントを解いた。

 きちんと、侍女服と一緒に仕舞う。


 磨かれていない、緑の混じった青い石。

 遠い昔、誰かがくれた誕生日プレゼント。太陽が最も高い日。


 巫女姫の祈りは、この国の安寧そのものだと言われている。

 神殿の奥、祈りの間。巫女姫だけが入ることを許されたその空間で行われるもの。

 ルーリは最初、戸惑った。影武者で代理ができる類のものではないと。

 返ってきた答えは単純だった。

 前例がある。ただそれだけ。

 超自然的な力は、とうの昔に失われたという。

 今では象徴として受け継がれている。


 それでも。

 祈りとは何か。

 ルーリの問いに、答える人はいない。



 長い廊下を抜け、祈りの間にたどり着く。間、と名付けられてはいるが、屋外だ。端すら見えない、開けた空間。


 見上げれば、広大な空。足元から正面へと、一本の道がまっすぐに伸びている。その道の両脇は、底が見えるほどの浅瀬が広がっている。道をたどった先に、祈りの場である高台がある。高台からは水が流れ落ち、遠く、滝のような音が響いていた。

 

 ルーリは登る。

 来た道が、背後で小さくなっていく。

 高台の上では、水が縁から絶え間なく落ちていく。落ちた先は見えない。

 音すら、吸い込まれていく。


 落ちた先に何があるのか。

 ——知らないわ、とヨフィエラは以前言っていた。

『先代が、高台から物を落としたことがあるそうだけど。結局見つからなかったんですって』

 まさか、怖いの? と彼女は興味なさげに聞いた。

 何と答えたのか、思い出せなかった。

 

 祈りの場に着いた。灰色の空を映した水面は、暗い。

 ルーリは跪く。

 ぽつ、と雨粒が波紋を作った。教わった作法通りに動く。

 ルーリは祈る。

 雨の音が増し、意識が宙に溶けていく。



 届くかどうかは、関係なかった。

 ただ、ここに在るだけ。

 髪が水を含み、肌を雨が伝い、全てを洗い流していく。



 雫が、廊下にじわりと滲んだ。

 祈りを終え、ルーリが神殿に戻ると、神官たちが集まってきた。普段であれば、遠巻きに礼を取る彼らも、濡れそぼった巫女姫の姿は放っておけなかったらしい。

 ルーリは、ヨフィエラの姿を思い浮かべる。こういう時は、どのような反応をするだろう。

 濡れた髪を、耳にかけようとした瞬間、自らの過ちに気づいた。


 ――匂いが、ない。

 雨で落ちた。

 さあ、と血の気が引いた。

 その間にも、神官たちは間合いを狭めてくる。露見すればどうなるか、おおよそ知っている。


 一歩後ずさった。

 二歩。


 手を握りしめたその時、黒い背中が視界を埋めた。

 

「お気遣いなく。私が部屋までお連れしますので」

 よく通る声が落ちる。

 神官とルーリの間に、ゼファウスが立っていた。

「ゼファ」

「雨の中、お疲れではないですか」

「……疲れたに、決まっているじゃない」

 ルーリは、差し出された彼の手を一瞬睨み、そのままするりと身を委ねた。

 彼の腕に両手を絡める。

 ヨフィエラの腕を組む力は、これくらいだろうか。


 神官たちへ、ゼファウスが指示を与えている。水滴に霞んだ視界。人影が、示し合わせたように散っていく。

 彼は、神殿内では巫女姫の隣に立つ者として、相応の影響力を持つ。

 その声を聞くうちに、知らず全身が弛緩しかけていることに気づいた。

 慌てて、絡めた腕に力をこめる。


「では、戻りましょうか」

 歩き出す。

 神官たちはついてこない。

 彼の手が、ルーリの手の上から覆い被さる。動かそうとしても、揺らがない。

 ルーリは横目で睨みながら、言葉を探して息を吸い込み――唇から出たのは、全く違う言葉だった。


「でもね」

 窓の外は、灰色の雨がどこまでも続いている。

「雨は嫌いじゃないの」

「知ってますよ」

「そうなの?」

「そんな気がしただけです」

「意味がわからない」

 彼は前を向いたまま、喉の奥を震わせた。

 ヨフィエラが雨を嫌いかどうかは、実のところルーリは知らない。恐らくゼファウスも、知らないだろう。

 雨の音が、静かに響く。

 ルーリはくすりと笑った。


 雨の神殿。

 私室区画へ続く道に、人影はない。


「ルーリ。手を離してくれ」

「え」

 ゼファウスの声に、反射的に組んでいた腕を離す。

 次の瞬間、背中を回った男の腕は、腰にたどり着いて、ルーリの身体ごと、抱え込んだ。

 ぬくもりが染み込んでくる。

「歩きにくい」

 ルーリは不満を漏らす。

「別にいいだろ」

 ゼファウスはあっさり封じた。

 体温を分け合うように。

 ただ身を寄せた。


 私室区画の廊下に入り、扉が閉まった瞬間。

 ふたりは、離れた。


 ヨフィエラの私室を、ノックする。

「ルーリです。ご報告にあがりました」

「……いいわ。入りなさい」

 雨の音が響く室内で、ヨフィエラは変わらず長椅子に寝そべっていた。猫のように、伸びをする。

 温度のない双眸で、ふたりを順に見た。

「ヨフィエラ様、祈りは滞りなく、」

「近いんじゃない?」

 ルーリとゼファウスは、目をあわせた。


 近かっただろうか。とルーリが目で問う。彼もまた、視線で近かっただろうかと返してきたが、その目に、ルーリに対する興味は見事なまでに映っていない。

 つい感心しそうになった。


 ゼファウスは、ようやく得心がいったように微笑んだ。

「香が消えかかっていたので、人を近づけるわけにはいかず」

「所詮人形だものね」

 彼女は、つまらなさげに天井を仰いだ。その仕草だけで、巫女姫の身体からは神聖な気配が漂う。


 ゆるりと起き上がると、すぐそばの卓の上にある箱へ手を伸ばした。

 緩慢な仕草で、手を一振り。

 箱が薄煙を散らしながら放物線を描く。ルーリが身構えた時には、自身の全身から淡い香りが漂っていた。

 空っぽになった入れ物が、ことりと床に落ちる。

 餌を与えるような仕草だった。


「ヨフィエラ様」

「もういいわ。下がりなさい」

 ルーリは止めていた息を吐き出し、黙して一礼する。

 立ち去りかけたふたりの背に、眠たげな声が届いた。

「ゼファは残って」

 ゼファウスの顔は見えない。

 ヨフィエラに歩み寄る背中を見ながら、ルーリは扉を閉める。

 木目に添えた手が、そっと離れた。



 ヨフィエラの私室を辞して、ルーリは控室に戻る。

 侍女服に着替えながら、散々な目にあったと項垂れた。

 影武者の存在を知るわずかな随従たちに紛れ、濡れた髪で細々と業務をこなす。最近、人の出入りが多くて慌ただしい。


 紅茶を淹れるために、湯を沸かした。

 柔らかな湯気が、ほどけながら天井へ昇っていく。吸い込むと、少しだけぬくもりを感じた。

 体質改善によいという茶葉を使ってみる。琥珀色の液体を、ポットの中でくるりと回す。

 いい香りだったけれど、残念ながらヨフィエラは口にしようとしなかった。

 水仕事が、染み付いた匂いを解いていった。


 ようやく訪れた休み時間。

 歩調を速めて、ヨフィエラの私室区画を出た。

 悪寒。

「くしゅん」

 髪はまだ湿っている。誰にも会わないうちに、部屋に戻らないと。駆け出すルーリの背後で、足音がした。

 振り返ると、ゼファウスがあっという間に近づいてきて、なぜか毛布を頭からかぶせられた。


「……?」

 撫でられている。毛布の上から。

 優しくない。でも乱暴でもない。子供の頃から変わっていない接触の仕方で。

 声は聞こえない。

 ふと気づけば、すぐそばの体温は消えていた。

 

「相変わらず、かくれんぼが得意ね」

 呟いて、少しだけ笑う。

 しかし、その表情はすぐに引っ込めた。

 毛布を抱きしめる。


 そのまま、誰もいない廊下を歩き出した。

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