1話
婚約者に腰を抱かれ――ルーリは微笑み返してみせた。
影武者の仕事は、指先まで。
男の瞳は、愛していると告げていた。
ルーリはその視線を、影武者として正面から受け止めた。
一拍おいてから、小首をかしげる。
巫女姫ヨフィエラの、いつもの癖を思い浮かべながら。
「つまらないわ、ゼファ」
腰を抱いたままの美貌の青年――巫女姫の婚約者ゼファウスが、名を呼ばれて顔を上げる。
彼の黒手袋に包まれた指は、なだめるようにルーリの髪を滑り、ゆっくりと耳朶をなぞった。
ぞわりと背筋に這い上がりかけたものを遮って、ルーリは声色を整える。
「ねえ。遊んでないで。なんとかしなさい」
ペンを握った手を、気だるげに振る。
神殿の一室。
神官たちが、遠巻きに見ている。
「愛には障害がつきものですが」
ゼファウスはルーリを見つめ、悲しげに眉を下げた。
――下げてみせた。
「それだけ、我々の結婚に必要な認可が多いということです。代理できればいいのですが、こればかりは」
「……」
「あと少しだけ、お付き合いいただけますか」
ルーリは、不貞腐れた表情で彼を睨んだ。巫女姫として。
男は、群青色の瞳で、その視線を絡め取る。まつげの微細な揺らぎまで、隠せない距離で。
ちり、と散ったものを、何と呼ぼうか。
「……いいわ」
ルーリは頷いた。
「私、行きたい所があるのよ」
婚約者は、考える仕草を挟んだ。
「以前、おっしゃっていた庭園ですか」
「花が咲いたの。次に、あなたが成すべきことはわかっているわよね?」
「もちろん。――お供いたします」
署名は、繰り返し練習した。
たったひとつの文字でも、足を掬われる。影武者に許可されている仕事とはいえ、正式な書類として扱われるのだから、責任重大だ。
ゼファウスは下働きに命じて書類を揃え、並べ、終わったものから片付けていく。この男は、昔からこういった作業が得意だ。神殿の書庫も、人の動きも、気がつけば彼の手元にまとまっている。
「ここでいいの?」
「いえ、次の頁の、……そこです」
彼の横顔が思ったより近く、視界の右半分を埋める。
両家と神殿、三者の承認が揃わなければ、この婚姻は成立しない。
書類が、山のようだった。
「仲睦まじいことですな。巫女姫は、よき婚約者を持たれた」
司教が様子を見に来ていた。白い髭の奥で、相好を崩す。
「でも、代わってはくれないのよ」
「御身にしか担えぬ、尊きお務めでございますゆえ」
ルーリは頬を膨らませる。
けれど、完遂してみせた。
これも、与えられた職務だ。
「では、帰りましょうか。ご一緒しても?」
腕の中に収めようとしてくる男の手。ルーリは手のひらを重ね、指を絡めて握る。
「私が何と答えても、来る気なのでしょう?」
手袋に爪を立てた。
痛い。
「好きになさい」
ゼファウスの目元が、ふっと和らいだ。
ルーリは前を向いた。
軽やかに、巫女姫の白いベールを翻す。
彼は何も言わず従った。
神殿の廊下を抜け、巫女姫の私室区画にたどり着く。
私室の前にある、無人の控室に入った瞬間、カチリ、と音が鳴った。
ゼファウスが、後ろ手に鍵を閉める。
音が途絶えた。
誰の目も届かない場所に入った瞬間、彼は迷いのない動作で、自身の右手の指先を唇で咥える。
そのまま、引き抜く。
漆黒の布地がゆっくりと、彼の長い指から剥がれ落ちていった。
「おつかれ、ルーリ」
「……触りすぎよ、ゼファ。あんなに腰を抱く必要はなかったでしょう」
幼馴染の唇の端がごくわずかに持ち上がり、ルーリの抗議は遮られた。
ゼファウス・アウゼン。黄金の髪を持つ貴族の次男坊であり、政略によって巫女姫の婚約者となった男。
そして、ルーリの幼馴染でもある。
正面に立った彼は、無遠慮に伸ばした素手を、ルーリの指先に重ねた。
布の隔たりが消えた瞬間、お互いの体温が、遮るものなく伝播する。
彼は、ルーリの手をしばらく見つめてから、壊れ物を扱うように薬指をなぞった。
そのまま、自らの唇へと引き寄せる。
――ベシッ、と。
乾いた音が、沈黙を切り裂いた。
「あだっ」
ルーリの容赦ない手刀が、ゼファウスの額に真っ向から食い込む。
触れられた薬指を、こぶしに隠す。
うずくまり、額を押さえる男を、ルーリは冷ややかな、しかしどこか幼い頃と同じ呆れを含んだ目で見下ろした。
「誤解されるのは勘弁よ」
定められた距離というものがあるはずだ。
ルーリは、巫女姫の象徴である白いベールを外した。
薄茶の髪が鎖骨に落ちる。
ゼファウスは、目を細め、幼馴染を見つめた。口元には、表舞台とは異なる笑みの形を浮かべて。
「誤解されない程度にしているつもりだが」
「よく言う」
ルーリはため息を飲み込んだ。
付き合っていられない。
今日の巫女姫の影武者は、ここまでだ。
「時間がないの。ヨフィエラ様が起きてこられる時間だから」
必要のない時は、侍女に戻らなければならない。
「邪魔しないで」
ためらいなく、襟元のボタンを外した。
「っておいルーリ」
ゼファウスが、うろたえたように目を瞬かせ、一歩後ずさった。
「いきなり脱ぎだすな!」
袖から上手く腕が抜けない。
騒いでいる幼馴染を横目に、ルーリはもどかしげに呟いた。
「わ、引っかかってる」
彼は目を逸らした。
首筋から肩、背中へと続く曲線から。
「俺は! 外に出てるから!」
「さっきまであれだけ触っておいて……」
なにをいまさらだ。
ルーリの呆れた声を背に受けて、彼は退室していった。
「……」
静かになった室内でひとり。ルーリは唇を閉じた。
自らの腕を、反対の手で押さえ込んだまま、少しだけ立ち止まる。
巫女姫の影武者。
自分で選んだ職業だったけれど、――色々想定外のことも多い。
行く道さえ決められなかった頃を思えば、余程ましだ。
飾り気のない黒い侍女服を身に着けていく。帽子から繋がる、短い黒のベールが、巫女姫とよく似た風貌を覆い隠してくれる。
侍女服の下にあるペンダントの膨らみを、指で一瞬なぞった。
いつかの誕生日の、思い出の石。
着替える手は、止まらなかった。
巫女姫の私室。
豪奢な香炉から、冴えた香りが立ちのぼる。大きな窓から入り込む光の中、まばらに置かれたぬいぐるみが、愛らしい。
鳥の吊り飾りが、かすかに揺れた。
ヨフィエラが寝室から現れた瞬間、空気が変わった。
待機していた随従の背筋が伸びる。召使の膝が折れる。慌てて位置についたルーリもまた、礼をとった。
この世のものとも思えない神聖な香りが、部屋中を支配していく。
ゆらめく空気を纏い、一歩一歩、優雅に進む若い女性。
巫女姫ヨフィエラ。
艶やかに波打つ髪を、白いベールが覆う。華奢な額飾りが、その両方をまとめていた。
衣装は鮮やかな青。
巫女姫の公式衣装である。
透き通ったよく通る声で、彼女は笑った。
「ねえ、あの退屈な署名、終わらせてくれたの?」
「はい」
ルーリは黒い侍女服で、頷いた。
「お役目おつかれさま」
ゆっくりと歩み寄り、自らの影武者の前で微笑む。
「貴女って本当に筆が早いのね」
ヨフィエラは唐突に、侍女のベールを指で軽く弾いた。
隔たりを失い、素顔を晒されたルーリは、思わず息を詰めた。
香りが強まる。
不快ではない。
先程まで、自分も身につけていた香りなのだから。
なのにどうして、本物と自分だと、こうも存在感が違うのだろう。
自然と居住まいを正してしまった。
「冴えない顔ね。そんな顔では――人が、心配するでしょう」
ルーリは慌てて気を引き締めた。
「ご心配には及びません。お気遣い感謝いたします」
「そう」
ヨフィエラの興味は、あっさりと次へ移った。
「ゼファ」
呼ばれた婚約者は、口元に柔らかな微笑を浮かべた。
手袋をきちんと着け直している。
「ご機嫌麗しく。本日は、一段とお美しい」
ヨフィエラは、瞳をあでやかに細めた。
「あなたも書類仕事を手伝っていたの?」
「婚姻の日までに、一点の滞りも出したくないのです」
「巫女姫の結婚式だものね」
当然ね、とヨフィエラは頷いた。
自然な仕草で、長身の男の腕に、自らの腕を絡める。
「行きましょう」
「庭園ですね」
「ええ。薔薇が見頃だそうよ。婚約者と並んで見るのなら、一番きれいな時期であるべきだわ」
その発言に慌てたのは、控えていた随従のひとりだ。
「恐れながら姫様。このあと、ご予定がございます」
「知らないわ」
「ですが」
ヨフィエラは振り返ると、近くにあった鳥のぬいぐるみを、随従に向かって投げた。
「巫女姫の行くべき場所は、巫女姫が決めるの」
「ご公務に、巫女姫が不在という訳には……」
投げ終わったヨフィエラの手を、ゼファウスは自らの手で包みこんだ。
言葉はない。ただ、案じる目を向けた。
ヨフィエラは、周囲を見渡す。視線は複数の召使の上を素通りし、ルーリの真上で止まった。眼差しに射抜かれる。
「そこに、身代わりの人形があるでしょう」
そして、巫女姫は慈悲をくだした。
「使いなさい」
随従はびくりと身体を震わせた。ルーリは、薄布の下、目を伏せる。
こんな時、ルーリはいつも思う。
ヨフィエラが万が一、自らの婚約者と、自らの人形の関係を知ったら――
目の端に映るゼファウスの顔に、感情は見えない。次の瞬間、彼は、何事もなかったようにヨフィエラに微笑んでいた。
「日傘をご用意しましょう。暑くなってきました」
庭園への道が開かれる。
太陽の光が、巫女姫とその婚約者を明るく照らし出す。
ゼファウスは、澄み渡った空を仰いだ。
ルーリが日傘を差し出すと、彼はそれを開き、ヨフィエラを招き入れた。
「夏至が近いな」
男の呟きが、ひっそりと落ちた。
ふたりが去るのを見届け、室内に戻ると、ルーリはそっと鳥のぬいぐるみを拾い上げる。
青い鳥。
柔らかな手触り。
ほっぺをつんとしてから、定位置に戻した。
初夏の光が、眩しかった。
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