第9話
第九話 深夜の揉みほぐしと、ゼロ距離の体温
「い、痛い! 首が、本当に一ミリも動かないんだけど!?」
特注ソファの上で、私は亀のように首をすくめた姿勢のまま固まって、脂汗を流していた。
四時間。面白さに我を忘れて前屈みで一気読みしたツケが、ここへ来て容赦なく襲いかかってきたのだ。首の筋から両肩、背骨の付け根まで、鉄板を埋め込まれたようにがちがちに凝り固まっている。息を吸うだけでずきりと響いて、涙目になる私を見下ろし、ルーファスは深いため息をついた。
「自業自得だろ。同じ体勢で何時間も本にかじりついてりゃ、そうなるに決まってんだろ」
「わ、分かってるわよ! でも痛いの! 笑ってないで何とかしなさいよ、この筋肉馬鹿!」
「筋肉馬鹿に助けを求める態度かよ、それが」
肩をすくめて、ルーファスはシャツの袖を肘の上までまくり上げた。そして音もなく、ソファの背もたれの後ろへ回り込む。
「ほら、力抜け」
「え? ちょっと、何する気よ」
「何するって、揉みほぐすんだよ。放っといたら、明日の朝には首が回らなくなって寝込むぞ」
「い、いいわよ! アンナを呼ぶから、あんたは触らないで!」
「こんな夜更けに侍女を叩き起こす気か? だいたい、近衛の連中が訓練で筋を違えた時の応急処置なんざ、俺のほうが百倍慣れてる。四の五の言わずに背中を預けろ」
低く、言い聞かせる声。
悪友としての意地を張りたかった。いくら幼馴染でも、部屋着一枚の無防備な背中を男に預けるなんて、淑女教育を受けた身としてはあり得ない暴挙だ。けれど、ぴきっ、と首筋に走った激痛が、私の意地をあっさりへし折った。
「ひぃっ! わ、分かったから、優しくしなさいよ」
「へいへい」
観念して目をぎゅっとつぶる。
薄い綿の部屋着越しに、大きくて熱い掌が、両肩に置かれた。
「っ!」
熱い。布一枚を隔てただけの手のひらから、体温がそのまま肌へ染み込んでくる。剣ダコで硬くなった指。骨張った、男の手。それが、私の凝り固まった肩の筋肉を、ずしりと重い力で捉えた。
「おい、力抜けって言っただろ。肩が上がってんぞ」
「だ、だって!」
「息を吐け。いくぞ」
ぐっ、と親指の腹が、肩甲骨の際にめり込んだ。
「ぎゃっ、痛い痛い痛い痛いっ!!」
「声がでけえ。最初は痛えんだよ、ここが完全に固まってやがる。石でも詰まってんのか? よくこんなになるまで我慢してたな」
「本が面白かったんだから仕方ないでしょ! あぐっ、痛っ!」
悲鳴を上げる私の肩を、ルーファスは容赦なく、けれど驚くほど的確な角度で揉みほぐしていく。ツボに入るたびに電撃みたいな痛みが走った。それでも三度、四度と揉まれるうち、不思議なことに、鉄板みたいだった筋肉がじんわり温かくなって、ほどけ始めた。
「……ん」
「どうだ、少しは楽になってきたか」
「うん。痛いけど、ちょっと軽くなったかも」
「だろ。ここをこう流して、首の付け根もいくぞ」
ルーファスの指が、肩から首筋へ這い上がってくる。
その時、激痛が引いたせいで、別の感覚が猛烈な勢いで意識を占領し始めた。
近い。
あまりにも、近すぎる。
背後から覆いかぶさるように手を動かすルーファスの胸が、私の背中に触れそうなところまで来ている。耳元をかすめる、規則正しい息遣い。首筋にかかる熱。静まり返った図書室の中で、自分の心臓の音ばかりが、やけに大きく響く気がした。
「……っ」
「おい、また力が入ってるぞ。リラックスしろ」
「む、無理よ!」
「なんでだよ」
「なんでって!」
言えるわけがない。あんたの手が大きくて熱くて、触れられたところから全身に痺れが広がって、頭がおかしくなりそうだから、なんて。
ルーファスの指が、うなじの生え際をぐっと押し上げた。頭蓋骨の奥まで響くような心地よさに、小さく掠れた声が喉まで出かけて、私はクッションに爪を立てて耐えた。
「クラウディア」
「な、なに」
「お前、本当に細いな」
低く掠れた声だった。悪友をからかう時の軽さは少しもない。熱を含んだ、男の声。
「肩も首も、こんなに華奢なのに。よくあの石頭の前で、背筋伸ばして平気な顔して立ってられたよな」
「……それが、私の役目だったからよ」
「役目、ね。あんな奴のために、擦り切れるまで頑張ることなかったんだよ」
ルーファスの手が、揉むのをやめた。私の首筋から肩にかけてを、そっと包むように撫で下ろす。
その触れ方は、騎士の応急処置なんかじゃなかった。壊れやすい宝物を慈しむみたいな、甘すぎる愛撫だった。
「ひゃんっ!」
うなじの皮膚を親指の腹でやさしく撫で上げられて、背筋を甘い痺れが走り抜けた。跳ね上がった私の肩を、ルーファスの腕が、後ろからふわりと抱き込む。
とん、と私の後頭部が、彼の胸板に預けられた。
「ちょ……ルーファス!?」
「動くな。まだ終わってねえ」
「うそ、もう肩は動くわ! 治ったから、離し……」
「治ってねえよ。お前の心臓、壊れそうなくらい跳ねてんぞ」
耳のすぐ後ろで、ルーファスが低く笑った。唇が触れそうな距離。白檀と、風呂上がりの清潔な匂いが、思考を端から麻痺させていく。
「……誰のせいだと、思ってんのよ」
「俺のせいだな。嬉しいぜ、お前がちゃんと俺を、一人の男として意識してくれて」
「ば、か……っ」
言い返そうとしたのに、声は情けないほど震えて上ずっていた。顔から火が出そうに熱い。首の凝りどころか、全身の血が煮えている。
ああ、もう、ごまかせない。
胸の中で、白旗を揚げる音がした。
泥団子を投げ合った悪友。愚痴を言い合える幼馴染。そんな便利な隠れ蓑は、跡形もなく消えていた。私は今、この男の腕の中で、熱い体温に包まれて、息もできないほど胸を締めつけられている。完璧な淑女でなくても、情けない姿をさらしても、私を丸ごと愛おしそうに受け止めてくれるこの男に。
恋をしていないなんて、自分にさえ嘘をつけなくなっていた。
「……ルーファス」
「ん?」
「本当に、首は治ったから。……離して」
小さく、懇願するように言った。これ以上この距離にいたら、本当に心臓が破裂する。
ルーファスは私の頭のてっぺんにふっと息を落とすと、名残惜しそうに腕を緩めて、ようやく背中から離れてくれた。
「じゃあ、今夜はもう寝ろ。これ以上本を読んだら、明日は本当に針治療送りだからな」
「よ、読まないわよ! 言われなくても寝るわ!」
クッションを抱え直して、逃げるようにソファから立ち上がる。首も肩の痛みも嘘みたいに消えていたのに、足元がおぼつかなかった。扉に駆け寄る私の背中に、ルーファスの満足げな笑い声が追いかけてくる。
「おやすみ、クラウディア。いい夢見ろよ」
振り返れないまま、私はバタンと扉を閉めて、自室へ逃げ込んだ。
熱を持った頬を両手で押さえて、ベッドに倒れ込む。
悪友のくせに。幼馴染のくせに。
あんな触り方、反則じゃない。
翌朝。
昨夜のことが夢だったのではと思うほど、肩も首も羽が生えたように軽くなっていた。十時過ぎに起きて、ゆったりした部屋着のまま図書室へ向かうと、朝の鍛錬と公務の一部を片づけて戻ってきたルーファスが、紅茶を飲んで待っていた。
「よお。首は回るか?」
「おかげさまで、完璧に治ったわよ」
昨夜のことを思い出して赤くなりそうなのを、必死で澄まし顔を作ってごまかす。ルーファスは動揺をお見通しの顔で、意地の悪い笑みを浮かべて、向かいの椅子を勧めてきた。
「そりゃよかった。だがな、クラウディア。朝から面倒なものが届いたぞ」
「面倒なもの?」
首をかしげる私の前に、執事長が恭しく一枚の書状を差し出した。昨夜のジェラルドの薄っぺらな手紙とは、まるで違う。純白の厚手の紙に、眩い金箔押し。中央に刻まれているのは、王冠と二頭の獅子だった。
「これ、王家の紋章……?」
「ああ。来週、王宮の庭園で開かれる『公式園遊会』の招待状だ」
ルーファスの目が、冷ややかに細くなる。
「近衛騎士団長の俺はもちろん、高位貴族の当主とその家族は、全員強制参加だ。当然、お前の親父さんも、あの石頭と、石頭の親父のクロフォード侯爵も、全員来る」
心臓が、冷たい水に浸されたようにすっと冷えた。
王家主催の公式園遊会。社交界の頂点に立つ貴族が一堂に会する、もっとも華やかで、もっとも残酷な品評の場だった。




