第8話
玄関ホールから、音が消えた。
銀のトレイの上の一通の手紙。上質な羊皮紙を留める深紅の封蝋には、見間違えようのないクロフォード侯爵家の紋章、絡みつく蔦と交差する剣が、嘲笑うように刻まれている。
「……あいつが」
隣に立つルーファスの声が、低く沈んだ。
市場から戻ったばかりの穏やかな気配は消え失せ、全身から近衛騎士団長の殺気が立ちのぼっている。琥珀色の目が獲物を射抜く獣のように冷えて、執事長が一歩下がった。
「どこで嗅ぎつけやがったのか知らねえが、虫唾が走るな。破り捨てて燃やすか? それとも送り主にそのまま突き返して、近衛総出で警告を叩き込むか?」
「待ちなさい、ルーファス」
私は静かに息を吐いて、トレイから手紙を取り上げた。
指に触れる羊皮紙の感触。つい先週まで、この紋章の手紙を受け取るたびに、私は胃を痛めて「今度はどんな無茶な要求かしら」と身構えていたのだ。
「私宛ての手紙よ。処分は私が決めるわ」
「読むのか?」
不機嫌に眉を寄せるルーファスには答えず、私は手紙を持ったまま図書室へ向かった。
暖炉の薪が、ぱちぱちと爆ぜている。机の前に立って、ペーパーナイフで封蝋を切った。中から出てきたのは、見慣れた、けれど今となってはひどく拙く見える、流麗を気取ったジェラルドの筆跡だった。
『我が愛しのクラウディアへ。
君が今どこにいるのか、血眼になって探した。アシュトン伯爵は口を割らないが、君がヴァレンタイン公爵邸に匿われているという噂を聞き、筆を執った。
単刀直入に言おう。君の冷静さと聡明さが、今になって痛いほど恋しい。
エレノアとの交際は思わぬ困難に直面している。彼女は愛らしいが、領地の収支計算も社交の根回しもまるでできず、私は疲弊し切っているのだ。君のあの完璧な手腕が、今すぐにでもクロフォード侯爵家に必要だ。
かつて君を息苦しいと言った私の非は認めよう。だから一度会って、これからのこと、そして領地の問題について、相談に乗ってほしい。君も五年間を共にした私を、見捨てることなどできないはずだ』
「……は」
乾いた笑いが、喉から漏れた。
「相談に乗ってほしい、ですって? 君の冷静さが恋しい? 五年間を共にした私を見捨てられないはず?」
背後から手紙を覗こうとしたルーファスを、手で制した。見る価値もない。
この男は、何ひとつ反省していない。私がどれほどの思いで完璧を演じ、どれだけ血を流して彼の無能を埋めていたのか、いまだに理解していない。新しい恋人が使い物にならないから、便利な道具だった私を呼び戻そうとしているだけだ。
『見捨てることなどできないはずだ』
おめでたい頭にも、ほどがある。
「クラウディア?」
心配そうに呼ぶルーファスの目の前で、私は手紙を二つに折った。そして迷わず、赤々と燃える暖炉の火の中へ投げ込んだ。
ぼっ、と小さな音を立てて、火の粉が舞い上がる。
ジェラルドの身勝手な未練と甘えが綴られた羊皮紙は、みるみる黒く縮んで、灰になり、煙突の奥へ吸い込まれていった。
「読まなくてよかったのか?」
「読んだわよ。斜め読みで十分だったわ」
暖炉の火を見たまま、ふんと鼻を鳴らす。
「息が詰まるって切り捨てておいて、困ったら『相談に乗って』だなんて、図々しいにもほどがあるわ。私を何だと思ってるのかしら。燃えるゴミの処分が終わったから、今日の業務は終了よ!」
両手をぱんぱんと払って振り返ると、ルーファスがぽかんとした顔で私を見ていた。
次の瞬間、彼は心底痛快そうに笑い出した。
「ぶはっ! 容赦ねえな、おい!」
「当たり前でしょ。あんな石頭の相手をするくらいなら、壁のシミを数えてるほうがよっぽど有意義だわ」
「違いねえ。最高だよ、お前は」
満足そうに笑って、ルーファスは私の頭をぽんぽんと乱暴に撫でた。大きな手の温かさで、手紙を読んだ瞬間にこみ上げた不快な澱が、きれいさっぱり消えていく。
「さて! 嫌な気分はお風呂で洗い流してくるわ! あんた、今夜の約束、忘れてないでしょうね!?」
「忘れるわけねえだろ。早く着替えてこい、本の虫」
一時間後。
湯浴みを済ませた私は、今日市場で買ったばかりの新しい部屋着に着替えていた。生成りの綿で仕立てた、ゆったりしたワンピース。締め付けは爪の先ほどもなく、髪はタオルで適当に乾かして肩に流しただけ。
図書室のローテーブルには、私が自分で淹れた温かいベリーティーのポットと、二つの陶器のカップ。そして特注ソファの上には。
「……はい、これ。下巻」
「おお。もう上巻読み終わったのかよ」
同じく風呂上がりで、シャツの胸元をくつろげたルーファスが、手渡された『星詠みの航海録』の下巻を受け取る。
「当たり前でしょ、私の読書スピードを侮らないで。最高に面白かったわ。主人公が嵐の海を越える場面なんて、手に汗握ったんだから!」
「ネタバレすんなよ、今から読むんだぞ」
文句を言いながらも、ルーファスは嬉しそうにソファの端へ腰を下ろした。大人三人が寝そべれる巨大なソファなのに、彼が座ると、その体格のせいで、なぜか空間が狭く感じられる。
「ちょっと、狭いんだけど」
「どこがだよ。あんなに広いだろ」
「あんたが無駄に大きいのが悪いのよ」
ぶつぶつ言いながら、私もソファの反対側に座り、クッションを抱えて、上巻の余韻を噛みしめるようにページを開き直した。
ところが、少しずつ姿勢が崩れていく。足を投げ出して、クッションを背中に挟んで、読みやすい体勢を探しているうちに、気がつけば私とルーファスの距離は、肩が触れそうなほど縮んでいた。
「…………」
「…………」
図書室を満たすのは、暖炉の薪が爆ぜる音と、紙をめくる乾いた音だけ。窓の外は深い夜で、王都のざわめきは遠く霞んでいる。
静かだった。息が詰まる静けさじゃない。何も言わなくても、お互いがそこにいるだけで満たされる、不思議と穏やかで甘い沈黙。
横に目をやる。ランプの淡い光に照らされたルーファスの横顔。眉間に小さく皺を寄せて、真剣な目で活字を追っている。近衛騎士団長の厳しい顔じゃない。十年前、裏庭の木の上で宝の地図を広げていた悪ガキの、あの顔だった。
胸の奥が、とくん、と小さく鳴る。
ジェラルドと過ごした五年間、沈黙はいつも恐怖だった。「何か気の利いたことを言わなければ」「相手を立てる言葉を探さなければ」と、頭の中で何重にも計算を回していた。
でも、ルーファスといる時は違う。何も話さなくていい。完璧でいなくていい。ただ同じ空間で同じ本を読んで、時々触れる肩の温もりを感じているだけで、どうしてこんなに満たされるのだろう。
「……ん? なんだよ、クラウディア」
視線に気づいたルーファスが、本から顔を上げた。至近距離でぶつかる視線。濡れた黒髪から、石鹸の匂いと、彼特有の白檀の香りがふわりと混ざって届く。
「な、なんでもないわよ。ちゃんと読んでるか監視してただけ」
「読んでるよ。めちゃくちゃ面白いな、これ。お前が好きそうな話だ」
「でしょ? 主人公の皮肉屋なところが、ちょっとあんたに似てて癪に障るけどね」
「おい」
低く笑って、ルーファスは空いた手で、私の頭を軽くこつんと小突いた。触れられた額がじんと熱い。その手が離れていくのを、ほんの少し名残惜しいと思ってしまった自分に気づいて、私は慌てて本で顔を隠した。
「……冷めるから、お茶飲みなさいよ」
「ああ。美味いぞ、お前の淹れた茶」
「お世辞なんていらないわよ」
本の陰で、小さく呟く。顔が熱い。暖炉のせいだけじゃない熱が、耳まで赤く染めていく。
悪友の皮をかぶったこの居心地のよさは、危険すぎる。この男の隣にいると、私の築いてきた頑丈な防壁が、音を立てて溶けていってしまう。
それから、どれだけ時間が経っただろう。
物語の佳境に引き込まれた私は、時計の針が深夜を大きく回っていることにも気づかず、夢中でページをめくり続けていた。下巻を読んでいたルーファスもすっかり没頭していて、二人とも会話を忘れ、ただ活字の世界を冒険していた。
そして、最後の一行。
「ふぅっ!」
読み終えた満足感たっぷりのため息をついて、本を閉じた。傑作だった。十年前の約束が、こんなに素晴らしい形で果たされるなんて。
「あー、面白かった! ねえルーファス、あんたどこまで……」
言いながら、ぐっと体を伸ばそうとした、その瞬間。
「ッ……痛ッッ!?」
首筋から両肩にかけて、ビシリと激痛が走った。
「う、嘘でしょ。な、なにこれ、動かない!?」
「あ? どうしたクラウディア」
本から顔を上げたルーファスが、目を丸くして私を見る。
私は両手を胸の前で固めたまま、亀のように首を縮めて、脂汗を流していた。
「い、痛い! 肩が、首がバキバキで回らない! 息を吸うだけで激痛が走るんだけど!?」
「は?」
「同じ体勢で、四時間ぶっ通しで前屈みになってたせいよ! 痛たたたた! 動かせない、ルーファス、助けて!!」
完璧な至宝令嬢の面影など、微塵もない情けない悲鳴。
それを見たルーファスは、一瞬ぽかんとして、それから深いため息をつきながら、ゆっくりとソファから立ち上がった。




