第7話
茜色に染まる王都の裏通り。
石畳に伸びた二つの影が、ぴたりと重なって止まっていた。人通りの絶えた狭い路地には、遠くの大通りのざわめきが微かに届くだけで、吹き抜ける夕風がショールの端を冷たく揺らしている。
「……ルーファス?」
もう一度、名前を呼んだ。
振り返った彼の顔には、市場で揚げパンを頬張っていた時の笑みも、軽口を叩いていた悪友の面影も、少しも残っていなかった。夕闇に沈んだ彫りの深い顔は、戦場に立つ時のように張り詰めている。
「さっき、聞いたよな」
低く抑えた声が、路地に落ちた。
「なんで俺が、十年前のお前の約束を覚えてたのかって」
「……ええ」
「五年間、お前があの石頭と婚約してた間、俺が何を考えてたか。話してもいいか」
心臓が、どくんと鳴った。
抱えた『星詠みの航海録』の革表紙が、指先に硬い。いつもの私なら、「何よ急にしみったれた顔して」と笑い飛ばしていただろう。茶化して、冗談にすり替えて、この空気ごと煙に巻いて逃げていたはずだ。
けれど、目の前の琥珀色の目は、あまりにまっすぐで切実で、私の唇は凍りついたように動かなかった。
「五年前、お前が十五の時だ」
ルーファスが、ゆっくり歩み寄ってくる。一歩、また一歩。石畳を踏む靴音が、夕暮れの静けさに重く響いた。
「アシュトン伯爵家が財政難に陥りかけて、クロフォード侯爵家との縁談が持ち上がった。親父さんに言われて、お前がその婚約を受け入れた日のことを、今でも覚えてる」
「…………」
「あの日、お前は俺の前で、初めて完璧な淑女の笑顔を作ったんだ。『家のために、立派な侯爵夫人になってみせるわ』ってな」
記憶の蓋が、きしんだ音を立てて開いた。
そうだ。十五歳のあの日。家の重みを背負わされ、大人の階段を無理やり登らされる怖さを押し殺して、私は幼馴染の前で強がってみせたのだ。泣き言は言わなかった。助けてほしいなんて、口が裂けても言えなかった。
「お前は震えてたよ。指先が白くなるまで拳を握りしめて、それでも涙ひとつ見せずに笑ってた」
ルーファスが、私の目の前で足を止めた。見上げるほどの長身が、夕陽の残り火を背負って、大きな影を落とす。
「俺は当時、もう公爵家を継いで、近衛の小隊を任されてた。力ずくで婚約を潰すことも、伯爵に掛け合って、俺との縁談を無理やり結ばせることも、やろうと思えばできた」
「……じゃあ、どうして」
掠れた声が、喉からこぼれた。どうして、何も言わなかったのか。どうして五年間、ただの悪友として私の周りをうろついて、くだらない軽口を叩くだけで済ませていたのか。
「壊せなかったんだよ」
ルーファスは、自嘲するように口の端を歪めた。
「お前が伯爵家のために、自分の我が儘を全部捨てて選んだ覚悟を、俺の独占欲で踏みにじれなかった。必死で完璧を演じようとしてるお前を、俺の都合で泥沼の政争に巻き込むわけにはいかなかった。……それに、何より情けねえのは、俺の臆病さだ」
男の喉仏が、苦しげに上下する。
何事にも動じず、王宮の誰もが恐れる若き近衛騎士団長が、許しを乞う罪人のように視線を伏せた。
「もしあの時『俺を選べ』って迫って、拒まれたら。お前が重荷に感じて、俺から逃げたら。悪友としてお前の隣にいられる場所まで失うんじゃないかと思うと、怖くてたまらなかった」
「っ……」
息が詰まった。刃物で胸を貫かれたようだった。
「だから俺は、悪友のふりを続けた。お前の婚約者が無能な石頭だと知ってて、お前が裏でどれだけ身を削って帳尻を合わせてるかも知ってて、傍で茶化して、愚痴を聞いて、たまに美味い菓子を差し入れることしかできなかった。毎日後悔してたよ。なんであの日、お前を奪わなかったのかってな」
握りしめたルーファスの拳が、微かに震えている。
五年間。私がジェラルドの隣で、完璧な淑女の仮面に押し込められていた五年間。この男もまた、私を奪えない苦痛と、悪友の仮面とに自分を縛りつけて、地獄のような時間を過ごしていたのだ。
頭を殴られた気がした。
あの夜のテラスで、彼が婚約解消の場面を聞いて爆笑した理由。あれは、ただジェラルドを笑っていたんじゃない。私が五年の呪縛からやっと解放されたことへの。そして、彼自身が待ち続けた瞬間が訪れたことへの、どうしようもない歓喜だったのだ。
「……ルーファス」
私は『星詠みの航海録』を、さらに強く抱きしめた。
逃げてはいけない。茶化してはいけない。いつものように「馬鹿ね」「大袈裟よ」と笑って流したら、この男が五年も血を吐く思いで隠してきた本心を、踏みにじることになる。
背筋を伸ばして、琥珀色の目をまっすぐ見返した。
「あんたは、臆病なんかじゃないわ」
「……クラウディア?」
「あの時、あんたが強引に割り込んできてたら、私はきっと、あんたを恨んでた。自分で選んだ覚悟を侮辱されたと思って、意固地になって、あんたを遠ざけてたと思う」
十五歳の自分を思い出す。完璧でなければと自分を追い詰めて、プライドだけが高かったあの頃の私に、ルーファスの強引な救いを受け入れられたはずがない。
「あんたが悪友でいてくれたから。くだらない悪口を言い合える場所を残してくれたから、私はあの息苦しい五年間を、壊れずに耐えられたのよ」
「クラウディア」
「だから、後悔なんてしないで」
震える声を必死で抑えて、一言ずつ、言葉を置いていく。誰かの期待に応えるためじゃない。私自身の本当の気持ちを、この男に届けるために。
「十年前の約束を覚えていてくれて、嬉しかったわ。本当に、嬉しかったのよ」
夕風が吹き抜けた。
ルーファスは、息を止めたまま私を見ていた。そして、張り詰めていた肩から、すっと力が抜けた。
「……敵わねえな、お前には」
低く掠れた笑い声がこぼれる。伸びてきた大きな手が、私の頭を乱暴に、けれど壊れ物に触れるようにそっと撫でた。掌の熱が、頭のてっぺんから全身へ染み込んでいく。
「もう二度と、逃がす気はねえよ」
「っ……」
「お前がどれだけずぼらだろうが、どれだけ本ばっかり読んで引きこもろうが、全部俺が面倒を見る。覚悟しとけよ、クラウディア」
彼の目に灯る熱は、もう隠されていなかった。悪友の仮面を脱ぎ捨てた、一人の男の執着と覚悟だった。
求婚は、冗談でも気まぐれでもなかった。五年の沈黙を破って、彼が差し出してきた、切実すぎる本気だったのだ。
心臓が痛いほど鳴っている。夕陽のせいだけじゃない熱が、頬から耳まで駆け上がる。私は何も言い返せないまま、こくんと小さくうなずくことしかできなかった。
その後、私たちは黙って路地を出て、待たせていた馬車に乗り込んだ。
車内の沈黙は、市場へ向かう時の気安いそれとは、まるで違った。向かいに座るルーファスと目が合うたびに、胸が跳ねる。彼は何も言わず、窓の外を眺めたり、時々私をじっと見たりしていた。その視線に当たるたび、私は抱えた本に顔を埋めたくなった。
悪友なんかじゃない。最初から、この男は私を、そんなふうには見ていなかった。
そして私も、この男を、ただの幼馴染として片付けられなくなっている。
馬車が公爵邸の車寄せに滑り込む。扉が開いて、差し出されたルーファスの手を、私は今度は少しためらってから取った。革手袋越しにも、掌の硬さと熱が伝わってくる。
「お帰りなさいませ、閣下、クラウディア様」
玄関ホールで、執事長が恭しく頭を下げた。けれどその表情には、わずかな困惑と緊張がにじんでいる。
「どうした。何かあったのか」
ルーファスが眉をひそめて尋ねた。執事長は銀のトレイを差し出しながら、困り顔で私を見る。
「お留守の間に、王都の急使が参りまして。クラウディア様宛ての親書を届けてまいりました。『至急、本人に手渡してほしい』とのことでございます」
「私に?」
首をかしげてトレイの封書へ手を伸ばした。上質な羊皮紙の裏に、赤い封蝋。その紋章を見た瞬間、全身の血が、すっと冷えた。
波打つ蔦と、交差した剣。
見間違えようがない。五年間、書類で何度も見せつけられた、クロフォード侯爵家の家紋だった。
「…………ジェラルド」
私の唇からこぼれた名前に、隣のルーファスの空気が、一瞬で氷点下まで凍りついた。




