第6話
公爵邸に転がり込んで一週間。
私は、絵に描いたような自堕落な日々を満喫していた。
朝は好きな時間に起きて、コルセットもドレスも放り出し、肌触りのいい綿の部屋着一枚で図書室へ直行。ふかふかの特注ソファに埋もれて、日がな一日、活字の海を泳ぐ。お腹が空けば呼び鈴ひとつで食事や焼き菓子が運ばれてくるし、小言を言う親も、仕事を押しつけてくる元婚約者もいない。ここは間違いなく、地上に現れた楽園だった。
ただ、ひとつだけ問題があった。
「……着替えが足りない」
ソファの上で、私は部屋着の袖をつまんでつぶやいた。
実家からアンナに運ばせた荷物は、ほとんどが夜会用のドレスと外出着だ。当然だ。これまでの私は『社交界の至宝』として、人前で気を緩めることを許されなかったのだから。ゆったり着られる部屋着は、洗い替えを入れても二、三着しかない。毎日同じものを着回すのも味気ないし、何より。
「もっとこう、襟ぐりが広くて、袖が邪魔にならなくて、寝転がってもシワが気にならない、究極のずぼら服が欲しいわ」
「ずぼらを極めすぎて、悟りでも開く気か、お前は」
後ろから、呆れた声が降ってきた。
見上げると、仕事を切り上げてきたらしいルーファスが、腕を組んで私を見下ろしている。
「なによ。衣食住の『衣』には妥協しちゃいけないのよ。あとついでに言うと、公爵邸の図書室は最高だけど、学術書や名作が多すぎて、市井で流行ってる下世話な大衆冒険小説の新刊が足りないわ!」
「贅沢言うな。王立図書館より揃ってる場所で、文句垂れる奴があるか」
「だって、怪盗と魔術師が共闘するシリーズの最新刊、先週出たばかりなのよ! 続きが気になって、夜も八時間しか眠れないじゃない!」
「十分寝てんだろ」
小さく吹き出して、ルーファスはやれやれと首を振った。それから何か思いついたらしく、悪戯っぽい顔でにやりと笑った。
「じゃあ、買いに行くか」
「……は?」
「下町の中央広場の市場だよ。庶民向けの着心地のいい服も、下世話な新刊小説も、山ほど売ってるぞ」
「行けるわけないでしょ! 私が今どんな立場か分かってるの!? 婚約を解消されたばかりの伯爵令嬢が下町をうろついて、社交界のハイエナに見つかったら……」
「見つからなきゃいい」
ルーファスはあっさり言い切って、壁の呼び鈴を鳴らした。
数分後、使用人が運び込んできたのは、貴族の気配など微塵もない、素朴な平民の服。
馬車を降りて下町の通りに立った瞬間、私は目を丸くした。
私の格好は、藍染めの飾り気のない綿のワンピースに、地味なウールのショール。金髪はゆるい三つ編みにしてショールの中に押し込み、キャスケットを目深にかぶっている。隣のルーファスは、上等な軍服を脱ぎ捨てて、飾りのない麻のシャツに革のベスト、動きやすいズボン。どこからどう見ても、腕利きの傭兵か旅の護衛だ。ちなみに、少し離れた後ろを、私服の護衛が二人ついてくるのは見なかったことにしている。
「どうだ? これなら誰も気づかねえだろ」
「すごい! 何これ、信じられないくらい体が軽いわ! コルセットがない! ヒールじゃないから足の裏が痛くない! 大股で歩ける!」
「お前、本当に伯爵令嬢だったのか疑わしくなるな」
石畳をばたばた跳ねる私を見て、ルーファスが苦笑する。でも私にとって、この身軽さは奇跡だった。背筋を定規で測られたように伸ばさなくていい。歩幅を一歩三十センチに縛られなくていい。吸い込める空気の量まで、いつもの倍ある気がした。
通りには露店がひしめいて、商人たちの威勢のいい掛け声と、香ばしい匂いが渦巻いている。
「おい、腹減ってんだろ。これ食うか?」
ルーファスが近くの屋台で買ってきたのは、油で揚げた細長いパンに、シナモンシュガーをたっぷりまぶした菓子だった。紙袋から立つ甘い湯気が、鼻をくすぐる。
「市場名物の揚げパンだ。ほら」
「で、でも私、買い食いなんてしたことなくて」
「至宝サマは廃業したんだろ? ほら、口開けろ」
差し出された揚げパンに、抗えず、おそるおそるかじりついた。
サクッ、と小気味いい音がして、ふわふわの生地の甘みと、シナモンの香りが口いっぱいに広がる。
「んんっ、美味しい!」
「だろ? 気取ったサロンの干からびた焼き菓子より、揚げたてのほうが百倍美味い」
「おいひい。止まらないわ、これ」
夢中で頬張る私を見て、ルーファスが目元をゆるめた。そして、ごく自然に伸びてきた彼の親指が、私の唇の端をトンと拭う。
「っ!?」
「砂糖ついてるぞ」
「じ、自分で拭くわよバカ! 急に触らないで!」
「手が砂糖まみれだろ。じっとしてろ」
私の抗議を聞き流して、ルーファスは親指についた砂糖をぺろりと舐めた。
その仕草が無駄に色っぽくて、心臓が変な音を立てる。平民の服を着ていても、この男の色気は隠しようがない。すれ違う町娘たちが、赤くなってちらちらと振り返っていた。本当に、無自覚にたちが悪い。
それから仕立て屋の露店で、肌触り抜群のゆったりしたワンピースを三着買い込み、私たちは目的の古書店街へ足を向けた。
埃っぽい紙の匂いが立ち込める、狭い路地。
目当ての大衆冒険小説の最新刊を見つけて、私はほくほく顔で胸に抱きしめた。
「よしっ! これで今夜の楽しみは確保できたわ!」
「安上がりな女だな。宝石のひとつもねだりゃいいのに」
「宝石なんて、重いだけで読めないじゃない。私には、紙とインクの束のほうが、何百倍も価値があるわ」
「相変わらずだな、お前は」
呆れたように笑って、ルーファスは古書店の軒先で足を止めた。肩から提げていた革鞄を下ろし、丁寧に油紙で包まれた平たい小包を取り出す。
「ほら、これ」
「え? なに?」
「お前にやる」
手渡された小包は、ずしりと重かった。首をかしげながら油紙を解くと、中から出てきたのは、深い藍色の革表紙に銀の箔押しが施された、二冊の本だった。
「これ……!」
表紙の流麗な題字を見て、呼吸が止まった。
『星詠みの航海録』。上巻、下巻。
「嘘でしょ。これ、半世紀前に数部だけ刷られて、出版社が火事で焼けて絶版になった、幻の……!?」
「ああ。ずっと探してたんだ。王都中の古書店に手を回して、地方の書肆まで調べさせてな。先週やっと、上下巻揃いで手に入った」
ルーファスは事もなげに言った。
私は本を抱きしめたまま、震える手で表紙を撫でた。
覚えている。十年前、私が十歳で、まだ『完璧な令嬢』の仮面をかぶる前のこと。裏庭の木の上で、泥だらけのルーファスと遊んでいた頃に、私がぽろりとこぼした言葉。
『私ね、大きくなったら、絶版になった星詠みの航海録を絶対に読むの。どんな冒険が書いてあるのか、知りたくてたまらないのよ』
子どもの頃の、他愛のない夢だった。私自身、淑女教育の激流の中で、半ば諦めて心の底に沈めていた。
「……なんで、覚えてるのよ」
「忘れるわけねえだろ。お前が目を輝かせて話してたんだから」
照れくさそうに視線を逸らして、ルーファスは後頭部をがりがり掻いた。
「探し始めたのは、五年前だ。けど、渡す口実がなかった。人の婚約者に本を贈る悪友なんて、お前が困るだけだろ。……やっと渡せる」
五年間。私がジェラルドの隣で息を詰まらせ、完璧な淑女を演じていたあいだも、この男は、十年前のあの一言を抱えていてくれたのだ。
胸が、ぎゅっと痛んだ。
ジェラルドは五年一緒にいても、私の好きな本を一冊も知らなかった。知ろうともしなかった。私の本当の姿を見失わずにいてくれたのは、他でもない、この悪友だけだった。
「……ばか」
目の奥が熱くなるのをごまかして、本を胸に押しつける。鼻をすすり、キャスケットのつばをぐっと引き下げた。
こんなの、ずるい。悪友のくせに。幼馴染のくせに。そんな顔で、そんな贈り物をされたら、どうしていいか分からなくなる。
「おい、泣いてんのか?」
「泣いてない! 埃が入っただけ!」
ぷいと横を向いた私を、ルーファスが困った顔で見ている。その戸惑った様子を眺めていたら、胸の底から、ふつふつと温かい勇気が湧いてきた。
いつも受け取ってばかりだ。公爵邸の図書室も、お菓子も、安全な居場所も。
私だって、この男に、何か返したい。完璧な淑女の義務としてじゃない。ずぼらで我が儘な、ただのクラウディアとして。
「ねえ、ルーファス」
「ん?」
「これ、上下巻あるじゃない」
「そうだな」
「私、読むのが早いのよ。だから今夜、私が先に上巻を読み終わったら、あんたに下巻を貸してあげる」
「へえ」
「図書室のソファ、あんたが座るくらいのスペースは空けといてあげるわ。お茶くらいなら、私が淹れてあげてもいい。だから……一緒に、読まない?」
言い終えた瞬間、顔が沸騰するように熱くなった。
私の聖域に。誰にも邪魔されたくなかった、私の夜の読書時間に。自分から、この男を招き入れたのだ。
ルーファスは固まっていた。
それから、これ以上ないほど嬉しそうに、顔いっぱいで笑った。
「ああ。絶対に行く」
低く響いたその声に、心臓が大きく跳ねた。
並んで歩き出す。夕暮れの市場を抜けて、人気のない裏通りのほうへ。
茜色の夕陽が長く伸びる路地の途中で、前を歩いていたルーファスが、ふいに足を止めた。
「……ルーファス?」
呼びかけた私の前で、振り返った彼の顔から、さっきまでの笑みが消えていた。
夕闇の影が落ちた横顔は、近衛騎士団長のものだった。冷えるほど真剣な目が、まっすぐ私を捉えている。




