第5話
あの夜、王宮夜会のテラスでクラウディアに婚約解消を告げた時、私、ジェラルド・クロフォードは、自分が正しい選択をしたと信じて疑っていなかった。
非の打ちどころのない完璧な令嬢。だが冷淡で、愛想がなく、何を考えているのかわからない氷の彫刻。隣に立つたびに劣等感を刺激され、私は息苦しさに喘いでいたのだ。
私を頼り、見上げ、「ジェラルド様が一番ですわ」と甘えてくれる愛らしい女性こそ、未来の侯爵夫人にふさわしいはずだった。
それなのに、わずか数日で、私の足元は崩れ始めていた。
「ジェラルド! 貴様、この大赤字の決算書は何の冗談だ!」
クロフォード侯爵邸の執務室に、父上の怒号が雷のように轟いた。机に叩きつけられた羊皮紙の束が、ばさばさと床に散らばる。
「申し訳ございません、父上。ですが今年は領地の物流が滞り、輸送費が想定以上にかさんでしまいまして……」
「言い訳をするな! 輸送費の高騰など、クラウディア嬢が前もって手を打っていたはずだろうが! 彼女が組んだ迂回ルートを勝手に切り替え、免税枠の更新まで放り出したのは誰だ!」
「そ、それは、新しく契約を結んだハドソン男爵家の商会を立てるために……」
「あの吹けば飛ぶような零細商会か! おかげで港の使用料は倍に跳ね上がり、穀物の流通は遅れ、領民からの陳情が殺到している! 何を考えているんだ貴様は!」
父上は額の血管を浮き上がらせ、私を睨みつけた。
「そもそも、なぜアシュトン伯爵家との婚約を解消などした! 夜明けにヴァレンタイン公爵直々に乗り込まれ、破談の合意書を叩きつけられた私の身にもなってみろ! 『息子の不始末でクラウディア嬢の名誉を傷つけた』と冷たく詰められて、ぐうの音も出なかったのだぞ!」
「くっ……公爵閣下がなぜそこまで首を突っ込むのかは存じませんが、クラウディアは私にふさわしくない女だったのです! 彼女は可愛げがなく、私を侮辱し……」
「馬鹿者が!!」
父上の怒声が、私の弁明を叩き潰した。
「五年だ! 五年もの間、貴様が遊び歩きながらも『有能な若き跡取り』で通っていられたのは、誰のおかげだと思っていた! 貴様が適当に書き散らした書類の裏で、彼女がどれだけ帳尻を合わせ、どれだけ根回しをしていたか、本当に何ひとつ理解していなかったのか!」
「な……」
「今期の収支を立て直せなければ、廃嫡も辞さん! 貴様の愛人ごっこの尻拭いなど、金輪際ごめんだ!」
吐き捨てた父上の背中が、嵐のように扉の向こうへ消えていく。
残された私は、散らばった書類の海の中で、拳を震わせて立ち尽くすしかなかった。
「……嘘だ。あいつが裏で帳尻を合わせていた、だと?」
信じたくなかった。領地がうまく回っていたのは、私の才覚のおかげのはずだ。クラウディアは私の指示に従って、清書をしていただけの女のはずなのに。
悪夢は、それだけで終わらなかった。
その日の夕方、王都の有力貴族が集まるサロンに出席した時のことだ。
私の腕には、公認の恋人になったエレノア・ハドソンがしがみついていた。ふわりと広がるパステルピンクのドレス。胸元を大きく開けて、レースをふんだんに使ったそれは、確かに男の庇護欲をくすぐる愛らしさだった。ひと月の予備費の大半を吹き飛ばした請求書さえ、見なければの話だが。
「まあ、ジェラルド様ぁ、あちらの伯爵夫人にご挨拶に行きましょうよぉ!」
「お、おい、エレノア。あの方は由緒ある名門の夫人だ。作法をわきまえて……」
「大丈夫ですってぇ!」
私の制止を振り切って、エレノアは小走りで夫人のもとへ駆けていった。
そこから先は、悪夢の続きだった。
「ごきげんよう、奥様! そのドレス、とっても素敵ですわねぇ! でもちょっと色味が地味じゃありませんこと? 私のみたいに明るいピンクにされたら、若返ると思いますのにぃ!」
「は?」
初対面の高位貴族の夫人に、腰の引けた中途半端な会釈。あろうことか相手の装いを「地味」「若返る」などと論評し、おまけに手にした赤ワインのグラスを揺らして。
パシャッ。
「きゃっ!」
「まあ!」
夫人の最高級の白絹のドレスの裾に、無残な紫色の染みが広がった。
「あ、あらぁ、ごめんなさいぃ! 手が滑っちゃいましたぁ!」
「エレノア、貴様……ッ!」
血の気が引くのを感じながら、私は割って入った。夫人の顔は侮蔑と怒りで凍りついている。周囲の貴族たちからも、ひそひそとした冷笑が刺さってきた。
『見なさいよ。あれがクロフォード侯爵令息の新しいお相手ですって』
『男爵家の出とは聞いていたけれど、扇の挨拶さえろくにできないのかしら』
『アシュトン伯爵令嬢がいらした頃は、クロフォード家のサロンはいつだって完璧でしたのにね』
『ええ。クラウディア様なら、相手の家柄も好みも全部把握して、粗相ひとつなさらなかったわ。あんな至宝を手放して、手に入れたのがあの小娘だなんて。お笑い草よ』
針の筵。
かつて私に向けられていた羨望の目は消え、社交界全体が、私を「見る目のない愚か者」として品定めしていた。
平謝りに謝って、多額の弁償を約束してサロンを逃げ出し、馬車に乗ったところで、私は我慢できずに怒鳴った。
「エレノア! いい加減にしろ! 夜会の基本的なマナーすら叩き込まれていないのか!」
「な、なんですのよぉ、ジェラルド様ぁ!」
エレノアは唇を尖らせ、涙目で睨み返してきた。
「ちょっと手が滑っただけじゃないですかぁ! あの意地悪なおばさんだって、最初から私を睨んできて感じが悪かったんですぅ! ジェラルド様は私の味方をしてくれないんですかぁ!」
「味方以前の問題だ! 相手は筆頭伯爵家の正夫人だぞ! あれで我が家がどれだけ信用を失ったと思っている!」
「知りませんわ、そんなの! 私、侯爵夫人になったら贅沢してチヤホヤされるって聞いたから、ジェラルド様を選んだのに! お説教ばかりで、ちっとも楽しくありませんわぁ!」
「なっ……」
頭を殴られたような衝撃。
守ってやりたい愛らしい小鳥。私を心から慕ってくれる、温かい女性。そんなものは、どこにもいなかった。目の前にいるのは、侯爵家の財産と地位に群がるだけで、義務ひとつ果たさず我が儘を撒き散らす、ただの厄介者だ。
屋敷に戻り、自室のベッドに倒れ込んだ時、私の中に残っていたのは、冷たい後悔だけだった。
クラウディア。
脳裏に浮かぶのは、あの凛とした佇まい。
私がどんなくだらない失言をしても、彼女は扇の陰で微笑み、相手の機嫌を損ねない絶妙な言葉でフォローしてくれた。複雑な貴族の血縁も、派閥の力関係も、彼女の頭には全部入っていて、私が恥をかかないよう、いつも先回りして道を整えてくれていた。
領地の収支で行き詰まって、不機嫌に書類を投げつけた時もそうだ。彼女は文句ひとつ言わず書類を持ち帰り、翌朝には計算の合った清書を届けてくれた。赤ペンで丁寧に添削された文字を、当時の私は「当てつけがましい」「可愛げがない」と、腹を立てて眺めていただけだった。
違ったのだ。あれは、彼女が身を削って差し出してくれていた、膨大な労力の結晶だった。
『はぁぁぁぁ…………』
テラスで婚約解消を告げた瞬間、彼女が漏らした深いため息が、耳の奥でよみがえる。あの時の彼女は、悲しむどころか、重荷をすべて下ろしたように安堵していた。
『ああ、もう。息が詰まりそうだったのはこっちよ、この石頭』
そうだ。息が詰まっていたのは、私ではなかった。
私の無能と傲慢に付き合わされ、尻拭いをさせられ続けていた、彼女のほうだったのだ。
「ああ、ああああっ!」
両手で頭を抱え、シーツを掻きむしった。
失ってから初めて、手放したものの大きさに気づいた。氷の彫刻などではなかった。彼女こそがクロフォード侯爵家を支える大黒柱であり、私の人生を輝かせていた、本物の至宝だったのだ。
エレノアのような小娘に、侯爵夫人が務まるはずがない。このままでは領地は破綻し、私は社交界から爪弾きにされ、父上から廃嫡されて路頭に迷う。
「クラウディア、戻ってきてくれ……」
呟いた声は情けなく震えていた。
だが、その直後に、身勝手な希望が顔を出す。
いや、大丈夫だ。五年だぞ。私たちは五年も婚約者として過ごしたのだ。あの場の勢いで解消を受け入れてしまっただけで、長年の情はあるはずだ。私が頭を下げて「君の大切さに気づいた。やはり君でなければ駄目なんだ」と囁けば、彼女も心を開くに違いない。
あれは完璧な淑女だ。家門のため、私のためなら、きっと元の鞘に収まってくれる。
「そうだ。謝ればいい。私が悪かったと認めれば、元通りになる」
翌朝、すがる思いで、私はアシュトン伯爵邸へ馬車を走らせた。クラウディアに直接会って、復縁を乞うために。
しかし、門番が告げた言葉は、私の淡い期待を無残に砕いた。
「クラウディアお嬢様でしたら、現在、屋敷にはおられません」
「何だと! どこへ行ったのだ!」
「当主様の厳命により、行き先をお教えすることは禁じられております。クロフォード侯爵令息様のお取り次ぎも、一切お断りするようにと」
ぴしゃりと、門が閉じられた。
「なんだと」
冷たい風の中、私は門前に立ち尽くした。
傷物として実家に引きこもっているはずの女が、どこへ消えたというのだ。まさか、あの夜テラスで盗み聞きをしていた、ルーファス公爵が関わっているのか。
「探せ!」
馬車に戻るなり、御者と従卒に向かって叫んだ。
「王都中の情報屋を使え! 商人でも誰でもいい、クラウディアの居場所を突き止めろ! 今どこで何をしているのか、一刻も早く調べ上げるんだ!」
走り出す馬車の中で、私は爪を噛んでいた。
戻ってくるさ。あれは、私のものだったのだから。




