第4話
「くそっ、なんで合わねえんだよ。どこで十万ルクスもズレてんだ」
ソファの足元で、近衛騎士団長ともあろう男が頭を抱えて唸っていた。
さっきまでの妖しい色気は見る影もない。ローテーブルいっぱいの羊皮紙を前に、ルーファスは心底うんざりした顔で羽根ペンをくるくる回している。
私はといえば、ふかふかのクッションに上半身を預けて、冒険小説の続きに集中しているふりをしていた。
無視よ、無視。ここは私が完璧令嬢を廃業して手に入れた聖域なのだ。他人の仕事の愚痴に付き合う義理はない。
「あー、もう! 数字を見てると、文字が全部虫に見えてくる! 魔獣の群れに単身で突っ込むほうが百倍マシだ!」
「うるさいわね。静かに頭を抱えなさいよ。こっちは主人公が古代竜と契約する名場面なの」
「悪かったよ。だがな、これを明日までに出さねえと、来期の騎士団の予算が削られるんだ。うちの連中に、ボロい鎧を着せるわけにいかねえだろ」
ルーファスはテーブルに突っ伏した。広い背中が、情けなく丸まっている。
「王宮の文官に頼むと、『近衛は頭まで筋肉ですか』って嫌味を言われるしよ。剣の手入れと戦術なら誰にも負けねえ自信があるが、この細けえ輸送費だの関税だのの計算は、本当に駄目なんだ」
ぶつぶつと続く悪友の泣き言を聞き流して、私はページをめくろうとした。
指が止まった。
十万ルクスのズレ。輸送費。関税。
ジェラルドの婚約者だった五年間の記憶が、勝手に頭をよぎる。
あの男も、領地の収支が詰まるたびに「君がやっておいてくれ、将来の侯爵夫人として当然の務めだろう」と書類を放ってきた。私が夜を徹して狂いを直しても、礼のひとつもなく、「女のくせに可愛げがない」と鼻を鳴らすだけだった。
思い出すと、胃のあたりがきりきり痛む。
もうあんな義務はごめんだ。誰かの尻拭いなんて、二度とやらない。
そう決めていたのに。
「……はぁ」
重いため息が、勝手に出た。
本に栞を挟んで閉じ、ソファに肘をついて、寝そべったままテーブルの書類を覗き込む。
「ちょっと、その北部街道の帳簿、こっちに見せなさいよ」
「あ? 見るのか?」
「いいから寄越しなさい」
受け取った羊皮紙を、寝転がったまま斜め読みした。走り書きの数字の列。王都直轄区と北部領の境にある、物資の輸送記録。
三十秒で、違和感の正体に行き当たった。
「あんた、これ、北部街道の通関手数料を二重に計上してるじゃない」
「は?」
「ここよ、ここ。北部領の関所で一度払った手数料が、直轄区に入った時点の計算にも、そのまま乗ってるの。二重取りよ。それから第三大隊の馬糧の単価。去年の凶作で高騰したレートのままでしょ。今年は豊作だったんだから、先月改定された相場で引き直さなきゃ」
「待て待て。そもそも、こういう帳簿を部外者のお前に見せていいのか? って、見せてるのは俺か」
「そうよ。近衛の兵站なんて、国の機密に近いでしょうに」
「お前は部外者じゃねえよ。将来の公爵夫人だろ」
「まだ承諾してないって言ってるでしょ!」
言い返しながら、テーブルの赤インクのペンを奪い取った。寝転がった姿勢のまま、該当箇所をさらさらと赤線で囲っていく。二重の関税を差し引き、馬糧の単価を直して、欄外に補正後の合計を書き込んだ。
「はい。ズレの十万ルクスは、二重計上のせいできっちり説明がつくわ。おまけに馬糧を引き直したら、さらに二万四千浮く。合計十二万四千ルクス。予算を削られるどころか、団員の新しいマント代くらい余裕で出るんじゃないの?」
書類をルーファスの胸に投げ返して、私はクッションに顔を埋め、本を開き直した。
「……おい」
ルーファスが書類を凝視したまま、口を半開きにしている。何度も瞬きして、書類と私を見比べた。
「おい、マジかよ。計算が合ってる。一瞬で解決したぞ!?」
「当たり前でしょ。五年間、石頭の杜撰な帳簿を直し続けた目を舐めないでちょうだい」
「すげえ! お前、本当にすげえな! 財務官のクソ眼鏡どもが半日かけても分からなかった原因を、寝転がったまま見抜きやがった!」
ルーファスは跳ね起きて、ソファに寝そべる私の肩を掴み、ぶんぶん揺すってきた。
「お前、最高の嫁だな! 天才か! 神様ありがとう、ジェラルドの石頭に感謝する日が来るとは思わなかったぜ!」
「ちょっと! 揺らさないで! 本が読めないでしょ、離れなさい筋肉馬鹿!」
手足をばたつかせて抵抗すると、ようやく手が離れた。いつもは冷徹な騎士団長の顔をしているくせに、今は少年みたいに目を輝かせている。
そして、調子に乗った悪友は、革鞄からさらに分厚い書類の束を取り出した。
「なあクラウディア、頼む! ついでにこっちの防具調達の比較明細も見てくれねえか!? 三つの工房から見積もりが上がってきてるんだが、どれが妥当なのかサッパリ分からなくてよ!」
差し出された書類を見た瞬間、背中がひやりとした。
あ。やってしまった。
一度でも有能なところを見せれば、人はそこに寄りかかる。期待して、次を求めて、じわじわと当然の顔で仕事を押しつけてくる。「君ならできるだろう」「私のためにやってくれ」「次も頼むよ」。そうやって私の時間は奪われ、完璧な淑女という檻に閉じ込められていったのだ。
断ったら、不機嫌になるだろうか。「せっかく公爵邸に匿ってやっているのに、その程度の恩返しもできないのか」と、冷たい目で失望されるだろうか。幼馴染とはいえ、相手は泣く子も黙る筆頭公爵だ。
古い傷が、鎌首をもたげた。
けれど、もう二度とあんな思いはしないと決めたのだ。
私は唇を引き結ぶと、差し出された書類を見もせずに、ソファの背へ寝返りを打った。近くに放ってあったひざ掛けを、頭からかぶって丸くなる。
「嫌よ」
「……え?」
「絶対に嫌。今日はもう一文字も数字なんて見たくない。私は本を読むの! ごろごろするの! 誰の仕事も手伝わないわ!」
言ってやった。
我が儘で、恩知らずで、可愛げのない拒絶。怒られるかもしれない。呆れられるかもしれない。ひざ掛けの下で身を固くして、私はルーファスの怒号を待った。
降ってきたのは。
「ぶっ」
吹き出す声だった。
「あっはははは! だよな! 悪かった、調子に乗った!」
「……え?」
恐る恐る、ひざ掛けの端を下げて覗く。ルーファスは怒るどころか、腹を抱えて笑っていた。そのまま、差し出していた書類をあっさりテーブルへ放り投げる。
「すまんすまん。お前は休みに来たんだもんな。せっかく石頭から解放されて羽を伸ばしてるのに、俺が仕事を押しつけたら、ジェラルドと同じになっちまうところだった」
「……怒らないの?」
「怒るわけねえだろ。なんでお前に怒るんだよ」
ソファの縁に腰掛けて、ルーファスはひざ掛けから出た私の頭を、大きな手でぽんぽんと撫でた。乱暴で、けれど優しい手つき。
「俺の前では、嫌なことは嫌って言え。気が向いた時だけ手を貸してくれりゃ十分だ。……不機嫌に眉を寄せて『嫌よ』って言うお前の顔、すげえ人間味があって安心すんだよ」
「なによ、それ」
「何でも『承知いたしました』って笑ってた頃のお前は、見てて痛々しかったからな。今のふてくされたお前のほうが、何百倍も可愛いぜ」
悪戯っぽく笑って、ルーファスは私の額を指先で軽く小突いた。
からかう口ぶり。それなのに、こちらを見る目は、私のすべてを肯定するみたいに穏やかだった。
「……っ」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
役に立たなくても、我が儘を言っても、見捨てられない。それどころか、「嫌だ」と突っぱねただらしない私を、この男は嬉しそうに受け入れている。五年間、一度も手に入らなかった安心が、全身の強張りを、ゆっくり溶かしていった。
「……バカ。お世辞を言っても、もう手伝わないからね」
「ああ、いいよ。こっちは副長に丸投げして、一緒に怒られてやるさ」
からからと笑って、ルーファスは書類を大雑把に鞄へ詰め直している。その無防備な横顔を眺めながら、私はひざ掛けを抱きしめて、小さく唇を尖らせた。
悪友のくせに。こんなふうに甘やかされたら、調子が狂って仕方がないじゃない。
その頃、王都の別区画にあるクロフォード侯爵邸の執務室では。
「おい、エレノア! この請求書は何の冗談だ!」
ジェラルド・クロフォードは、机に叩きつけた高級洋服店の請求書を前に、青筋を立てて怒鳴っていた。
「な、なんですのぉ、ジェラルド様ぁ。急に大声を出すなんて、怖いですぅ」
ソファで優雅に紅茶を飲んでいたエレノア・ハドソン男爵令嬢が、これ見よがしに身を縮める。以前なら「守ってやりたい」と思えたその仕草が、今のジェラルドには苛立ちの種でしかなかった。
「怖いではない! 一着で三万ルクスだと!? ひと月の予備費の大半が、ドレス一枚に消えたんだぞ! それに、頼んでおいた領地の収支計算はどうなった! 父上から、今日中に出せと厳命されているんだ!」
「そんなの知りませんわぁ! 数字なんて難しくて頭が痛くなっちゃいますぅ! ジェラルド様がやればいいじゃないですかぁ!」
「私一人でできるわけがないだろう! クラウディアはいつだって、私が何も言わなくても完璧に処理して……」
叫びかけて、ジェラルドは口をつぐんだ。
冷たくて愛想がなくて、息が詰まる女だと思っていた。だが、あの女がいた間、領地の収支が狂ったことは一度もなかった。社交の根回しも、家臣への指示も、すべて滞りなく回っていた。
机の引き出しを開ける。月ごとに仕分けされた書類箱が、ずらりと並んでいた。ラベルはすべて彼女の字だ。どれが何の箱なのか、ジェラルドには見当もつかなかった。
「業者に任せればいいじゃありませんかぁ」
エレノアが、焼き菓子をつまみながら言う。
「うちのお父様の商会なら、港でも関税でも、全部やってくれますわよぉ」
ジェラルドは、その提案に飛びついた。他に手がなかった。
机の上には、数字の合わない書類が、嘲笑うように積み上がっている。
「……クラウディア」
名前を呼んでも、書類は一枚も減らなかった。




