第3話
馬車に揺られること三十分。
公爵邸に運び込まれた私は、マントにくるまったままの寝起き同然の姿で、屋敷の最上階へ連れていかれた。
「ここがお前の部屋の隣にある、私設図書室だ」
重い両開きの扉を押し開けたルーファスが、何食わぬ顔で手招きする。
一歩入って、私は固まった。
「な、なに、これ」
視界いっぱいに、天井まで届く本棚の壁が広がっていた。蜂蜜色の木の棚がぎっしりと本を抱え、吹き抜けの二階まで続いている。螺旋階段の先にも背表紙が延々と並び、南向きの大きなアーチ窓から降る陽射しが、古い紙と革表紙の甘い匂いをあたためていた。
王立図書館を軽く凌ぐ規模だ。しかも歴史書、地理誌、最新の魔導論文から、巷で大人気の怪奇小説や大衆冒険譚まで、きちんと分類されて並んでいる。
「嘘でしょ。これ、全部公爵家の蔵書なの!?」
「歴代の当主が集めた分と、俺が買い足した分だ。絶版の稀覯本もあらかた揃ってるぞ。あと、あれを見ろ」
ルーファスが顎でしゃくった窓辺には、大人が三人は寝そべれそうな巨大な特注ソファが据えてあった。
最高級のベルベットに、大小の羽毛クッションがこれでもかと積まれている。見るからに、人を駄目にする形だ。
「信じられない」
私はマントの裾を握って、ごくりと唾を飲んだ。誘拐同然に連れてこられた怒りなんて、この天国の前では砂粒ほどの重さもない。
「今日からここは、お前の好きにしていい。日中は誰の立ち入りも禁じてあるし、本を何冊床に積もうが文句を言う奴はいねえ。腹が減ったら呼び鈴を鳴らせ。厨房が何でも持ってくる」
「本当に? ドレスに着替えなくていいの? 髪を結わなくても、背筋を伸ばしていなくても、誰も『伯爵令嬢として恥ずかしくないように』なんて言ってこないの!?」
「言うわけねえだろ。言ったら、俺がそいつをクビにする」
あっさり言い切られて、最後の理性が弾け飛んだ。
「やったー!!」
マントを脱ぎ捨て、スリッパを宙に蹴り上げ、私は特注ソファへ頭から飛び込んだ。
ズフッ、と心地よく沈んで、全身が極上の柔らかさに包まれる。
「あぁ、天国。骨が溶ける! 私の人生、今日からが本番だわ!」
「おい、スリッパを飛ばすな。……まあいいけどな」
後ろでルーファスが呆れて笑う声がしたけれど、今の私にはどうでもよかった。近くの棚から抜いた分厚い冒険小説を胸に抱え、クッションに顔を埋めて、足をぱたぱた揺らす。
誰の期待も背負わない。完璧な淑女を演じる義務もない。部屋着のまま、読みたい本を、読みたいだけ貪る生活。これを手に入れるためなら、悪友の屋敷に一時避難するくらいの代償、いくらでも払ってやる。
「じゃあ、俺は騎士団の公務に行ってくる。夕方には戻るから、好きにしてろ」
「はーい、いってらっしゃい。一生戻ってこなくていいわよ」
「減らず口を叩いてろ。……可愛い顔しやがって」
ぼそりと何か言われた気がしたけれど、物語に潜り始めていた私の耳は、右から左へ素通りさせた。
数時間後。
実家から届いた荷物の中で一番着心地のいい綿の部屋着に着替え、アンナが気を利かせて運んでくれた果物水を飲みながら、私は人間をやめていた。
ソファにうつ伏せになり、両肘をついて顎を乗せ、ページをめくる。三冊目の歴史冒険奇譚は佳境で、主人公が古代遺跡の罠を突破する場面だ。
「そこは右のスイッチじゃなくて、床の紋章を踏むのよ。バカねぇ」
独り言をこぼしながら、乾いた唇を舐める。喉が渇いているのに、手を伸ばしてグラスを取るのすら億劫だった。誰にも見られていない怠惰というのは、どうしてこんなに重力に逆らえないのだろう。
「ほら、口開けろ」
「ん」
視界の端から差し出された銀のフォークに、反射で口を開けた。
舌に転がり込んできたのは、さくさくのパイ生地と、甘酸っぱいベリー、そして濃厚なカスタードクリーム。
「んんっ、美味しい!」
噛みしめるたびに、上品な甘さが広がる。王都屈指の菓子店のタルトだ。あそこは予約だけで一か月待ちのはずなのに。
「だろ。王宮の帰りに買ってこさせた」
……ん?
「え?」
我に返って顔を上げると、軍服の上着を脱いで白いシャツの袖をまくったルーファスが、ソファのすぐ脇に膝をついて私を見下ろしていた。手には小さな銀皿とフォーク。
「ひゃっ!? ル、ルーファス!? いつ戻ってきたのよ!」
「十分前。足音立てて入ってきたのに、お前がまったく気づかないから、呆れてたところだ」
「だからって、口に直接放り込まなくていいでしょ! 自分で食べられるわよ!」
「嘘つけ。本から目を離すのも面倒くさそうな顔してたぞ。ほら、もう一口食うか?」
「食べるけど! 食べるけど、フォークは渡しなさい!」
手を伸ばすと、ルーファスはフォークをひょいと頭の上へ逃がした。意地が悪い。十年前から一つも変わっていない。
ただ、変わっていないのは性悪さだけだった。見上げた顔のほうは、生意気な悪ガキの面影をとうに追い越している。まくった袖から覗く腕には、鍛えた筋がくっきり浮いていた。数百の精鋭を束ねる男の、無駄のない体だ。
近い。寝転がった私の顔から、数十センチも離れていない。
「な、何よ。じっと見て」
「いや。美味そうに食うなと思って」
小さく笑ったルーファスは、皿に残ったタルトを自分の口に放り込んだ。
私が口をつけたのと、同じフォークで。
かあっ、と顔に血が上るのが、自分でもわかった。
「あ、あんた! それ、私が使ったフォーク!」
「何年一緒にいると思ってんだ。今さら間接キスくらいで慌てるな」
「悪友の間に間接キスなんて概念を持ち込むんじゃないわよ! 気持ち悪い!」
「気持ち悪いとは傑作だな。俺に言い寄ってる令嬢たちが聞いたら、卒倒するぜ」
軽口を叩きながら、ルーファスは皿をサイドテーブルへ置き、するりとソファの後ろへ回り込んだ。
「あーあ、髪がひどいことになってるぞ。寝癖の次は鳥の巣か?」
「放っといてよ。結ばないのが怠惰の醍醐味なの。肩が凝らなくて最高なんだから」
「手入れしないと毛先が傷むだろ」
言うが早いか、大きな指が、解いた金髪の間へ潜り込んできた。
「ちょ、ちょっと!?」
背中を電流が駆け抜ける。見れば彼のもう片方の手には、象牙の櫛が握られている。
「何するのよ!」
「大人しくしてろ。梳いてやる」
「自分でできるわよ! 触らないで!」
「動くと引っかかるぞ」
低く、言い聞かせる声。
暴れかけた私の肩を、大きな片手がふわりと上から押さえた。薄い部屋着越しに、掌の熱がそのまま伝わってくる。
サ、サ、と毛先から順に、櫛が通されていく。
乱暴な男だと思っていたのに、手つきは信じられないほど丁寧だった。髪の一本も傷めないように、指先が慎重に私の髪を掬って、梳いていく。頭皮が心地よく引かれて、白檀と、かすかな煙草の匂いが鼻先をかすめた。
「……っ」
心臓が、とくとくと勝手にペースを上げる。
おかしい。こいつはルーファスだ。泥団子をぶつけ合って、木から落ちて泥まみれになった私を指差して笑っていた、あの悪友のルーファスだ。
それなのに、耳元に触れそうな呼吸も、時折わざとのように私のうなじをかすめる指先も、全部が「この男は成人した一人の男だ」と、容赦なく突きつけてくる。
「……ルーファス」
「ん?」
「あんた、絶対に調子に乗ってるでしょ」
「何がだ?」
「何がだ、じゃないわよ! タルトを食べさせたり、髪を梳いたり、こんなの悪友の距離感じゃないじゃない!」
叫んだのに、声は情けなく震えて上ずっていた。
ルーファスは櫛の手を止めないまま、私の耳元で笑った。熱い息が耳朶を撫でて、首をすくめる。
「言っただろ、昨夜。俺はお前を女として見てるし、求婚してるって」
「だ、だから、私はまだ承諾してないって言ってるでしょ! ここは一時的な避難所なの!」
「知ってる。だから外堀から埋めてんだ」
「堂々と宣言するんじゃないわよ、バカ!」
梳き終えた髪をひとまとめに持ち上げられて、うなじに直接、彼の指先が触れた。
「ひゃんっ!」
変な声が出た。
跳ね上がった私を、ルーファスは満足そうに見下ろしている。琥珀色の目はからかいで笑っているのに、その底には、隠す気もなさそうな熱と執着が沈んでいた。
「赤くなってんぞ、クラウディア」
「うるさい! 誰のせいよ!」
「俺のせいだな」
あっさり認めて、ルーファスはようやく私の髪から手を離した。
解放されるなりクッションを胸に抱え込み、威嚇する猫の顔で睨みつける。心臓がうるさくて、息が浅い。
まずい。この男、本気だ。
ジェラルドみたいに「自分に都合のいい理想」を押しつけてくるわけじゃない。でも別の意味で、確実に逃げ道を塞ぎにかかってきている。しかも最悪なことに、彼に触られるのが、ちっとも嫌じゃなかった。
「もう! 読書の邪魔しないでよ! 公爵様なら公爵様らしく、仕事に戻りなさい!」
「仕事なら、さっき持ち帰ってきたところだ」
苦笑いしたルーファスが、入口近くに置いた革鞄を指差した。
そこから取り出されたのは。
ドサッ。
ローテーブルに叩きつけられた、分厚い羊皮紙の書類の山だった。
「何よ、それ」
「近衛騎士団の装備調達と兵站補給の、今期の会計書類だ。明日までに精査して、王宮の財務官に出さなきゃならねえんだが、頭が痛え」
眉間を揉みながら、ルーファスはソファの端、私の足元あたりにどっかり腰を下ろした。さっきまでの妖しい色気はどこへやら、心底うんざりした顔の武官になっている。
「数字の羅列を見てると、剣を千回振るより疲れるんだよな。どこかで計算が合わねえし」
「…………」
私は胸の本から、そろりと視線を上げた。
ローテーブルに広げられた書類。インクの匂い。入り組んだ輸送ルートの記載と、走り書きの膨大な数字。
見るな、と思った。
けれどその時には、目がもう勝手に数字を追っていた。五年分の習性は、たった一日の怠惰ごときでは消えてくれない。三行目の関税の欄に、ひっかかりがある。
私は本を顔の前に立てて、視界から書類を締め出した。
見なかったことにする。絶対に、見なかったことにする。




