第2話
翌朝、午前十時。
カーテンの隙間から差す光の中で、私はベッドの上に転がって、天国を噛みしめていた。
「んんーっ……!」
手足を大の字に伸ばして、シーツの上をごろごろ転がる。
きついドレスも、息の詰まるコルセットも、頭皮を引っ張る夜会用の髪型も、ここには何ひとつない。身につけているのは洗いざらしのゆるいネグリジェ一枚。結い上げを解いた金髪は鳥の巣になっているけれど、誰の目を気にする必要もなかった。
「最高! これよ、これが私の欲しかった人生よ!」
枕元に積んでおいた新刊の冒険譚に手を伸ばす。
昨夜、王宮夜会でジェラルドに婚約を解消された。普通なら青ざめて寝込むか、涙に暮れる場面なのだろう。でも私にとっては、八年分の重労働から解放された終戦記念日だった。五年も婚約者を務めた情が、まったくないわけではない。けれど私の苦労をひとつも見ないまま「息が詰まる」と捨ててくれたのだから、こちらも清々するというものだ。
ページをめくって、活字の海に飛び込もうとした、まさにその時。
ドタドタドタッ、と、淑女の屋敷にあるまじき足音が廊下を揺らした。
「お、お嬢様っ!!」
ノックもそこそこに、専属侍女のアンナが真っ青な顔で飛び込んでくる。
「アンナ、ノックくらいしなさいな。せっかくの至福の読書タイムが……」
「読書どころではありません! 旦那様が応接間で、卒倒寸前の大激怒でして!」
「ああ、お父様ね。ジェラルド様からの破談の知らせ、もう届いたの?」
寝そべったまま、ぱらぱらとページを繰る。厳格で世間体が命のお父様のことだ。娘が婚約を解消されたと知れば、家の名誉に関わると怒り狂うのは目に見えていた。
「それどころか、クロフォード侯爵家との破談の手続きが、もう終わったそうなんです!」
「あら、仕事が早いこと。ジェラルド様にしては上出来じゃない」
「違います! 書類を持って乗り込んでいらしたのは、クロフォード様ではなく、ヴァレンタイン公爵閣下です!!」
「はい?」
本の角が、シーツに突き刺さった。
「朝一番においでになって、今まさに旦那様と一対一で……!」
「あいつ、本当に来たの!?」
昨夜のテラスでの声が、頭の中で再生される。
『明日、お前の実家に乗り込んで親父さんを説得してやるから、部屋で大人しく待ってろ』
冗談だと思っていた。悪友特有のたちの悪いからかいだとばかり。
階下から、ドンッと屋敷を揺らす怒号が響いた。
「クラウディアを公爵邸に引き取るだと!? ふざけるな、いかに閣下の仰せとて承服しかねる!」
お父様の、悲鳴に近い怒鳴り声だ。
まずい。非常にまずい。
私はベッドから飛び起き、足元にあった室内用の上着をネグリジェの上から引っかけた。髪を撫でつける暇もなく、部屋を飛び出す。
一階の応接間の扉は、中の空気を閉じ込めきれずに少し開いていた。そっと覗き込むと、地獄のような光景が広がっていた。
ソファには、額に青筋を立てて肩で息をするお父様。
その正面には、仕立てのいい漆黒の軍服で優雅に足を組み、紅茶をすすっている近衛騎士団長ルーファス・ヴァレンタイン。
テーブルの上には、すでに両家の署名と捺印が揃った分厚い羊皮紙が置かれている。
「……信じられん。クロフォード侯爵自ら破談を申し入れ、慰謝料も求めず、我がアシュトン家に過失はないと認める合意書だと? 閣下、いったいどのような手を使われた」
「別に。朝駆けで侯爵の寝込みを襲って、昨夜の息子さんの不始末を、懇切丁寧にお伝えしただけですよ」
ルーファスは涼しい顔でティーカップを置いた。
「息子が夜会のテラスで勝手に婚約を放り出し、我が国の至宝とまで呼ばれた令嬢の名誉を傷つけた。表沙汰になれば、傷がつくのはクロフォード家のほうです。さっさと合意書に署名して円満に破談にしたほうが身のためだと、理を説いただけです」
「な、ならん! 円満だろうと、五年も婚約していた娘が戻ってくるのだぞ! 社交界の好奇の目に晒されて、傷物扱いされるのは目に見えている! すぐにでも身元の確かな相手を見つけて、新しい見合いを……」
「だから、その傷物とやらの処遇を、俺に預けろと言ってるんです」
ルーファスの目が、すっと温度を落とす。
「アシュトン伯爵。あなたのやり方は知っている。娘がどれだけ身を削って完璧を演じてきたかも知らず、家の体面のために、また別の年寄り貴族のところへ後妻として押し込む気でしょう」
「ぐっ、それは親として、娘の将来を案じて!」
「案じるなら、俺の提案に乗るべきです」
ルーファスは懐からもう一枚の書類を出して、テーブルの上を滑らせた。
「これは?」
「ヴァレンタイン公爵家の私有領と、アシュトン領の直接交易の誓約書です」
「なっ……!」
お父様の目が、飛び出さんばかりに見開かれた。
「アシュトン領の上質な羊毛と木材を、うちの商団が市場価格の二割増しで独占的に買い付ける。公爵家の私財を使った、十年間の長期保証です。ここ数年、あなたの領地経営が資金繰りにどれだけ苦しんできたか、俺は知っていますよ」
「こ、これほどの破格の条件を……何と引き換えに」
「クラウディアを、我が公爵邸で客分として一時保護すること」
淡々と、けれど有無を言わせない圧で、ルーファスは続ける。
「名目は『騒ぎが収まるまでの避難、および公爵家での静養』。その間の彼女の生活、行動、待遇には一切口を挟まないこと。ついでに言えば、あなたが勝手に持ってくる見合い話は、すべて俺が叩き潰します」
「ば、馬鹿な! 未婚の娘を公爵家に預けるなど、外聞が……!」
「クロフォードの石頭に振られたばかりの令嬢を、すぐ次の男に売り飛ばそうとする外聞よりは、マシでしょう。それとも、近衛騎士団長である俺の庇護下に置くことが、アシュトン家の体面に傷をつけるとでも?」
「う、ぐ……」
お父様が言葉に詰まった。勝負あった、という顔だ。
領地を救う莫大な私財と、筆頭武門である公爵家の庇護。世間体と家の得を何より重んじるお父様に、これを断る道はない。
扉の陰で、私は小さく呟いた。
「……私の値段、羊毛と木材だったのね」
それはそれとして、ちょっと待ちなさいよ。
私は我慢できずに、応接間の扉を押し開けた。
「話は全部聞かせてもらったわ、ルーファス!」
「ク、クラウディア!? その見苦しい格好は何だ! 髪も結わず、部屋着のまま閣下の御前に出るなど!」
「お父様は黙っててください!」
八年間、一度も見せたことのない剣幕で実の父を一喝し、私はずかずかとルーファスの前に詰め寄った。
ルーファスは怒るどころか、ネグリジェに上着をひっかけただけの私を眺めて、満足そうに口の端を吊り上げる。
「よお、起きたか。寝癖が芸術的だな」
「やかましいわ! 朝一番に乗り込んできて、何を勝手な真似してくれてんのよ! 私を公爵邸に引き取るですって!?」
「言っただろ、昨夜。迎えに行くって」
「比喩か冗談だと思うでしょ、普通は!」
胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄る私を、ルーファスは楽しげに見上げている。背後でお父様が「閣下に何たる無礼を……」と泡を吹きかけているけれど、知ったことではない。
「だいたい、一時保護の客分って何よ! 私は実家の自室で、部屋着のまま本を読んで怠惰に暮らすって決めたの!」
「だから、その実家でお前が暮らせるわけねえだろって言ってんだよ」
ルーファスは表情を緩めて、呆れたように息を吐いた。
「親父さんの顔を見てみろ。俺がこの交易の話を出さなかったら、お前、今頃どうなってたと思う?」
「う……」
言われて目をやると、お父様はテーブルの上の誓約書に未練たっぷりの視線を送りつつ、私をどう処分するか考えていた名残を、まだ目の奥に残していた。
……悔しいけれど、ルーファスの言う通りだ。
彼が先手を打って破談を済ませ、あの条件を突きつけていなければ、私は今日からお父様の「次の見合い相手リスト」を前に、完璧な淑女の再演を強いられていた。休む暇なんて、一秒もなかったはずだ。
「それは、そうだけど」
「だろ? お前の親父さんは、お前がどれだけ擦り減って完璧を演じてきたかなんて、一ミリも興味がねえんだよ。この家にいたら、お前の夢の読書三昧なんて、三日で終わるぞ」
ぐうの音も出ない正論だった。
ルーファスが立ち上がって、私との距離を一歩詰める。白檀の香りがして、近衛騎士団長の威圧感がのしかかってきた。それなのに、私を見る目の奥には、昨夜と同じ熱がちゃんと灯っている。
「俺の屋敷なら、親父さんの小言も届かねえし、無理な見合いを押しつけられることもない。誰もお前に完璧な淑女なんざ求めない。一日中、部屋着で本を読んでていいんだぞ?」
悪魔の囁きだった。
昨夜テラスで求婚された記憶がよみがえって、心臓がどくんと変な跳ね方をする。
でも、私はまだ、この男の求婚を受けたわけじゃない。あくまで『客分としての一時避難』。実家での地獄の見合い再開から逃げるための、都合のいい隠れ蓑として使うだけだ。
「わかったわよ」
「クラウディア!?」
お父様が叫んだ。私はルーファスを睨んだまま、言い放つ。
「行ってあげるわよ、公爵邸! ただし勘違いしないでよね。私はあなたの求婚を承諾したわけじゃないわ。実家からの避難所として利用してあげるだけなんだから!」
「へえ、利用ね。大いに結構」
ルーファスは不敵に笑って、羽織っていた騎士団のマントをばさりと脱ぐと、そのまま私の肩へ被せた。
「きゃっ!?」
「交渉成立だ、伯爵。書類の控えは置いていく。娘さんは預かるぜ」
「えっ、ちょっと待ちなさい! 荷造りは!? 着替えは!?」
「そんなもん、後から使用人に運ばせりゃいい。今すぐ行くぞ」
「はあぁぁ!?」
抗議する間もなく、逞しい腕が私の腰をさらった。騎士団のマントにすっぽり包まれ、足元は室内用の薄いスリッパのまま、玄関まで引きずられていく。
「ちょっと下ろしなさいよ、筋肉馬鹿! 私、ネグリジェなのよ!? 髪もぼさぼさなのよ!?」
「マントで全部隠れてるから問題ねえ。ほら、馬車に乗れ」
「人の話を聞けっ!!」
叫び声も虚しく、私はエスコートという名の強奪によって、公爵家の豪奢な馬車に放り込まれた。
バタン、と重い扉が閉まり、馬車が動き出す。
向かいの席で腕を組んだルーファスが、実に楽しそうに私を見ていた。
「ようこそ、クラウディア。俺の城へ」
「絶対に許さないんだからね、悪友面した誘拐犯」
マントを胸元まで引き上げ、乱れた髪を押さえながら睨み返す。
それでも、息苦しかった実家が窓の外で遠ざかっていくのを見ていたら、肩の力が勝手に抜けた。私はこっそり、昨夜に続いて二度目の、安堵のため息をついていた。




