第10話
第十話 園遊会の招待状と、私のための選択
「行かないわよ」
金箔押しの豪奢な招待状を一瞥して、私は即答した。ティーカップをソーサーに戻し、図書室の椅子の背に寄りかかって腕を組む。
「絶対に嫌。公式園遊会なんて、社交界中の狸と狐が集まる品評会じゃない。誰がわざわざコルセットで内臓を締め上げて、歩幅三十センチのヒールで、愛想笑いを振りまきに行きますか。私はここに引きこもって新刊を読むの。体調不良で欠席、はい決定!」
「即答だな、おい」
ルーファスが吹き出して、苦笑した。けれど口元の笑みとは裏腹に、視線にはかすかな苦さが混じっている。
「お前がそう言うとは思ってたよ。ただな、今度の園遊会は、いつもと少し状況が違う」
「状況? 王族主催だから格式が高いってこと? そんなの、公爵閣下の権力で適当に言い訳してちょうだい」
「そうじゃねえ。ジェラルドの奴が、社交界でくだらねえ噂を撒き散らしてやがるんだ」
ルーファスの声の温度が、すっと数度下がった。
「自分の領地経営が破綻しかけてるのを隠すために、『クラウディアは完璧すぎて冷淡な女だった』『息が詰まるから私のほうから放逐してやった』『あいつは傷物になって実家に引きこもってる』って、負け惜しみを吹聴して回ってるらしい。お前のアシュトン伯爵家にも、好奇と嘲笑の目が向き始めてる」
「……まあ、あの石頭」
呆れ果てて、鼻を鳴らした。どこまで見苦しい男なのだろう。自分から「息が詰まる」と捨てたくせに、手紙を黙殺されて復縁をはねつけられた腹いせに、今度は人に泥を塗って溜飲を下げようというわけだ。
「園遊会には、あの石頭も新しい連れの男爵令嬢を伴って出席する。お前が欠席すれば、奴らの嘘が真実として定着するだろうな。『至宝と持て囃された令嬢は、婚約解消のショックで社交界から逃げ出した』ってな」
「……」
「だが」
ルーファスはそこで言葉を切って、私の前の招待状をひょいと取り上げた。
「お前が行きたくねえなら、無理に出る必要はねえよ」
「え?」
「俺が一人で出る。会場のど真ん中で、近衛の権限を振りかざして、くだらねえ噂を流してる連中も、クロフォードの石頭も、全員力ずくで黙らせてくる。お前はここで、好きなだけ部屋着で転がって本を読んでろ」
淡々としていて、けれど紛れもない本気だった。
迷いのない顔だった。私を庇えるなら、自分が社交界で「強権を振りかざす凶暴な公爵」と謗られようが構わない、と顔に書いてある。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
この男は、いつだってそうだ。私の怠惰を守るために、私の自由を守るために、自分が泥をかぶることを少しも厭わない。朝駆けで破談の合意書をもぎ取ってきた時も、アシュトン領の交易を私財で引き受けた時も、そして今も。全部、私のためだけに動いている。
……そんなの、許せるわけがないじゃない。
「ルーファス」
「ん?」
「あんた、バカなの?」
「は?」
予想外の罵倒に、ルーファスは目を丸くして固まった。私は椅子から立ち上がって、机の向こう側へ回り込み、彼の目の前に仁王立ちした。
「あんたが近衛の武力を笠に着て貴族を威圧したら、どうなるか分かってるの? 『ヴァレンタイン公爵が他家を脅した』って、王宮の文官や反対派閥から総叩きにされるに決まってるじゃない! 騎士団長の立場を危うくしてどうするのよ!」
「そんなもん、俺の実力でねじ伏せりゃ……」
「ねじ伏せられるわけないでしょ、政治を舐めないで! 誰のせいでそんな火の粉をかぶると思ってるの!」
ルーファスの広い胸を、人差し指でとんと小突く。怒りで息が荒くなった。この男を、私の盾にして傷つけさせるなんて、絶対に嫌だった。
かつての私は、誰かのために完璧を演じていた。アシュトン伯爵家の体面のため。無能なジェラルドのプライドのため。他人が勝手に押しつける理想の型に自分を押し込めて、息を殺して擦り減っていた。だから、ドレスを着ることも、完璧な淑女を演じることも、死ぬほど嫌いになったはずだった。
でも今は、違う。
誰かに強制されたわけじゃない。誰かの期待を背負わされたわけでもない。私をありのまま愛して、命がけで守ろうとしてくれるこの男のために。そして何より、私を傷物呼ばわりして泥を塗ろうとする身勝手な元婚約者に、私自身の手で引導を渡すために。
「……出るわよ」
「おい、クラウディア?」
「園遊会。私が出てあげるわ」
顎を引いて、不敵に笑ってみせた。
「ただし、傷物令嬢として縮こまって出るんじゃないわ。あんたの同伴者として。ヴァレンタイン公爵から、いま一番熱烈に求婚されている、誇り高い客分としてエスコートされに行くのよ」
「っ……」
ルーファスが、息を止める。琥珀色の目が、驚きに見開かれて、それから言葉を失ったように揺れた。
「いい、ルーファス? 私は義務で完璧を演じるんじゃない。私のために、それからあんたの隣に堂々と立つために、一日だけ『社交界の至宝』を復活させてあげるの。感謝しなさい!」
言い放った途端、胸につかえていた澱が、すっかり消えていた。
守られるだけの小鳥じゃない。部屋の隅で誰かの庇護を待つだけの無力な存在には、私は最初からなりたくなかったのだ。だらしなく本を読んで怠惰を愛する私も、完璧な知性と美貌で敵を論破する私も、どちらもクラウディア・アシュトンなのだから。
「……ぷっ」
沈黙のあと、ルーファスの喉から、低く掠れた笑いがこぼれた。
「あっはははは! おいおい、マジかよ。最高だな、お前は!」
「なによ、笑うことないでしょ!」
「笑うだろ! まさかお前の口から『エスコートしろ』なんて言葉が聞けるとは思わなかったぜ!」
笑いながら立ち上がるなり、ルーファスは私の腰をぐっと引き寄せた。至近距離でぶつかる熱い視線。そこに悪友の顔はなく、愛おしさと誇らしさにあふれた、一人の男の極上の笑顔があった。
「ああ、喜んでエスコートしてやるよ。俺の最高に強くて可愛い、世界一の至宝様」
「か、可愛いとか言うな、筋肉馬鹿! 早く準備の手配をしなさい!」
真っ赤になって胸板を押し返す私を、ルーファスは楽しげに見下ろしながら、壁の呼び鈴を力強く鳴らす。
それからの数日、公爵邸は戦場になった。
ルーファスが王都最高の仕立て屋と宝石商を総動員して、私のために一着のドレスを仕立てさせた。公爵邸付きになった専属侍女のアンナは、「お嬢様の晴れ舞台です!」と涙ぐみながら髪の手入れに心血を注ぎ、私も怠惰を一時封印して、社交界の最新情勢を頭に叩き込んだ。誰が誰と不仲か、どの領地がどんな問題を抱えているか。五年分の勘は、まだ錆びていなかった。
そして園遊会の当日。
王宮の広大な庭園には、秋の柔らかな陽光が降り注ぎ、色とりどりのドレスと正装の貴族たちがあふれていた。楽団の優雅な調べの合間に交わされる話題は、もっぱら『姿を消した至宝令嬢』と『新しい恋人を連れたクロフォード侯爵令息』のことだ。
『それにしても、クラウディア様はお見えにならないのかしら』
『婚約解消のショックで、実家に引きこもっていらっしゃるそうよ』
『クロフォード様のお相手の男爵令嬢、今日も派手なドレスだこと。なんだか品が……』
『しっ、聞こえますわよ』
そんな無責任な囁きが飛び交う中に、近衛兵たちの靴音が、重く響き渡った。
「ヴァレンタイン公爵閣下、並びにご同伴者様、ご入場です!」
儀仗兵の高らかな声に、庭園中の視線が一斉に入口へ集まる。そして次の瞬間、居合わせた数百人の貴族から、いっせいにどよめきが漏れた。
現れたのは、漆黒と金糸の礼装に身を包んだ近衛騎士団長ルーファス・ヴァレンタイン公爵。そして、その腕に手を添えて歩み出た一人の淑女。
夜空の深い青を映した、最高級のシルクのドレス。胸元には公爵家の家宝である大粒のサファイアが、冷たく輝いている。完璧に結い上げた金髪は、陽光を受けて金の糸のように煌めいた。背筋は定規を当てたように伸び、唇には、三ミリの狂いもなく計算された氷の微笑。
「……っ!?」
人混みの奥で、ジェラルド・クロフォードが固まって、手の中のグラスを取り落としそうになるのが見えた。
誰の期待のためでもない。誰かの押しつけのためでもない。私自身の誇りと、隣に立つ悪友のために。
私はゆっくり扇を開く。
さあ、五年分の利息を取り立てに行きましょうか。




