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完璧すぎて息が詰まるそうなので、ずぼら令嬢になってみました  作者: 九葉(くずは)


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第11話

 静寂が、王宮の広い庭園を一瞬で支配した。


 秋風が梢を鳴らし、噴水が水を噴き上げる音だけが、やけにはっきり聞こえる。数百の視線が、テラスに立つ私とルーファスへ、一点に注がれていた。


「あれは……アシュトン伯爵令嬢?」


「嘘でしょう、クラウディア様ですわ! 傷物になって屋敷に引きこもっていらっしゃるとばかり」


「引きこもるどころか、見なさいよ、あのお姿を! なんて神々しい……」


 さざ波が引いたような静けさのあと、爆発的なざわめきが広がった。扇の陰から、感嘆と驚きの囁きが雨のように降ってくる。


 それも当然だった。私がまとっているのは、王都屈指の職人たちが昼夜を徹して仕立てた、夜空を切り取ったような深い青のシルクのドレス。裾には細やかな銀糸の刺繍が施され、一歩進むたびに星屑みたいに光る。そして何より、私の腰に当たり前の顔で添えられているのは、ヴァレンタイン公爵の逞しい手だった。


「どうだ、クラウディア。気分は」


 耳元で、ルーファスの低く楽しげな囁き。見上げれば、私への誇らしさと、社交界の連中を見下すような不敵な光が、彼の目に宿っていた。


「上々よ。みんなの鳩が豆鉄砲を食ったような顔、ソファでくつろぎながら眺めたいくらい」


「ぶっ。絶対に笑うなよ、至宝サマ。顔に出てるぞ」


「誰に口を利いてるの。私の三ミリの微笑みは完璧よ」


 唇の端だけで軽口を交わしながら、私たちは優雅に大理石の階段を降りて、庭園へ踏み出した。


 歩幅は正確に三十センチ。背筋は定規のようにまっすぐ。かつては私を窒息させかけたその所作が、今は不思議と、研ぎ澄ました武器みたいに私の体を鎧っている。自分の意志で選んだ装いだからだろう。指先ひとつにまで、自信が宿った。


「おお、ヴァレンタイン閣下! それに、クラウディア嬢ではありませんか!」


 すぐに、王宮の重鎮の侯爵や伯爵たちが、目を輝かせて駆け寄ってきた。


「ご無沙汰しております、オルデン侯爵閣下。先日の東部街道の改修事業、見事に完遂されたと伺いましたわ」


「おお、よくご存じで! いやはや、あの難所を抜けるには骨が折れましてな」


「特に岩盤の多い北側の工区の地質を見抜かれた閣下の先見の明には、心から敬服いたしております」


 相手の家格、近頃の功績、誇りに思っている話題。全部を頭に入れたうえで繰り出す、完璧な淑女の会話術。侯爵は破顔し、夫人も私の胸元のサファイアを羨ましそうに見ながら、賛辞を並べ立てた。


「まあ、クラウディア様。そのサファイア、ヴァレンタイン公爵家の家宝ではありませんこと? なんてお似合いなのでしょう!」


「もったいないお言葉でございますわ」


「いや、まさに我が国の至宝にふさわしい輝きだ! 誰ですか、クラウディア様が社交界を退かれたなどという根も葉もない噂を流したのは!」


 貴族たちが次々と輪を作って、私とルーファスを取り囲んだ。ルーファスは私の一歩後ろに控えて、時折ふてぶてしい態度を見せつけながら、私を誰より尊い宝物のように引き立てている。


 人垣の端で、お父様が顎を落としたまま固まっているのが見えた。見なかったことにしておく。


 まだ客分だ。正式な婚約者ではない。けれど、彼が私に向ける目の熱さは、誰が見ても明らかな『熱烈な求婚者』のそれだった。


 そして、その華やかな輪の遠く外側で、完全に孤立している二人がいた。


 庭園の隅、噴水の影に立ち尽くす、ジェラルド・クロフォードと、恋人のエレノア・ハドソン。


 二人の周りには、誰も寄ってこなかった。エレノアが着ているのは、派手さだけを追ったフリルだらけのピンクのドレスで、秋の園遊会の落ち着いた装いからは完全に浮いている。おまけに高位貴族への挨拶を間違え、グラスを乱暴に置くなど、無作法を連発したせいで、重鎮たちに眉をひそめられていた。


「ジェラルド様ぁ、足が痛いですぅ。あっちの椅子に座りたいですぅ」


「黙っていろ、エレノア! 今はそんな場合ではない!」


 ジェラルドの顔は、屈辱と焦りで土気色になっていた。手の中のグラスから、ワインが波打ってこぼれそうになっている。その視線は、輪の中心で、気品と美貌で貴族たちを魅了する私に釘付けだった。


 五年間、隣にいた女。息が詰まる、可愛げがないと見下して、放り出してやったはずの女。その女が、自分など足元にも及ばない筆頭公爵の腕に寄り添って、社交界の頂点で輝いている。自分が手放したものが、どれほど大きく価値のあるものだったのか。領地の崩壊と社交界の冷遇に喘ぐ頭に、それが残酷なほど現実の重さで突き刺さっていた。


 その少し先、噴水の向こうに、クロフォード侯爵の姿があった。息子の背中を、表情を消した顔で見つめている。


「……あいつが。クラウディアが、あんな」


 ジェラルドの喉から、掠れた呻きが漏れた。そして、何かがぷつりと切れたように、しがみついていたエレノアの手を乱暴に振り払った。


「きゃっ!? ジェラルド様!?」


「邪魔だ! 退いていろ!」


 エレノアの悲鳴を置き去りに、ジェラルドは早足で歩き出した。眉をひそめて避ける貴族たちを無理やりかき分け、まっすぐ私とルーファスのところへ突進してくる。


「クラウディア!!」


 怒号のような叫びが、優雅な歓談の輪を切り裂いた。


 音楽が止んだみたいに、周囲が静まり返る。貴族たちが黙って道を空ける中、肩で息をしながら現れたジェラルドは、髪を乱し、血走った目で私を見つめていた。


「ジェラルド様?」


 私は扇を胸元で止めて、完璧な角度で首をかしげた。背後で、ルーファスの空気が冷徹な戦士のものに変わる気配がする。一歩前に出ようとした彼を、添えていた指先で軽く制した。


 大丈夫。この男の相手は、私がする。


「ご機嫌麗しゅう、クロフォード侯爵令息様。素晴らしい園遊会ですわね」


 鈴を転がすような、完璧な淑女の声。どこまでも礼儀正しく、どこまでも冷たく距離を置いた挨拶に、ジェラルドは殴られたみたいに顔を歪めた。


「クラウディア……君なのか? 本当に、君なのか?」


「ええ。他に見紛う方がいらっしゃいまして?」


「な、なぜヴァレンタイン公爵の隣にいる! 君はアシュトン伯爵邸で謹慎していたのではないのか! 公爵家のサファイアまで身につけて、いったいどういうことだ!」


 取り乱した叫びに、周囲の貴族たちから冷ややかな視線が刺さる。他家の未婚の令嬢に、公衆の面前で身勝手な詰問を浴びせるなど、侯爵令息にあるまじき無作法だ。


「不当な噂に晒されていた私を、公爵閣下が哀れんで、親切にエスコートしてくださったのですわ。何か不都合でも?」


「エスコートだと!? 嘘だ! 手紙を読んだだろう、クラウディア! 私は君に手紙を送ったはずだ!」


 ジェラルドが、一歩詰め寄った。その目には、狂気に近いすがるような光が宿っている。


「すまなかった! 私が愚かだった、クラウディア! 君のあの冷静さが、あの手腕が、どれだけクロフォード侯爵家を支えていたか、失ってやっと骨身に染みたんだ!」


「……まあ」


「君の言う通りだった! 領地の会計も、物流のルートも、君がいなければ何ひとつ回らない! エレノアのような小娘に、侯爵夫人の務めなど無理だったんだ! 毎日が地獄だ、父上からも廃嫡を突きつけられそうになっている!」


 周囲から、小さなどよめきと嘲笑が漏れた。


 公衆の面前で、自分の無能と新しい恋人の悪口をぶちまけて、元婚約者に泣きつく男。あまりの醜態に、駆け寄ってきたエレノアでさえ、真っ青になってその場に立ち尽くしている。


「頼む、クラウディア! 私のもとに戻ってきてくれ!」


 ジェラルドは、なりふり構わず両手を伸ばして、私の手を取ろうと身を乗り出した。


「やはり君が一番だ! 君こそがクロフォード侯爵家の正夫人にふさわしい! 五年も婚約者として過ごしてきたんだ、君にも私への情はあるはずだろう!? あの婚約解消はなかったことにしてやる! だから戻ってきて、私を助けてくれ!」


 哀願だった。


 傲慢で、身勝手で、どこまでも自分の都合しか頭にない、醜悪な懇願。


 私が五年間、どれだけ血を吐く思いで完璧を演じ、この男の無能を埋めてきたか。この男は、今この瞬間に至っても、何ひとつ理解していない。自分が困ったから。自分が辛いから。便利な道具だった私を、また檻に引き戻したいだけなのだ。


 怒りさえ、湧いてこなかった。


 かつて私を押し潰そうとしていた『婚約者』という重圧は、今となっては小さくて滑稽で、哀れなものにしか見えない。背中には、何も言わず、けれど確かな体温で私を支えてくれる人がいる。ありのままのだらしない私を笑って受け止め、命がけで自由を守ってくれた男の存在が、過去の呪縛をきれいに消していた。


 すがりつこうとするジェラルドの汚れた手を、私は半歩引いて、軽やかに躱した。


 そして。


 パチン。


 静まり返った庭園に、扇を開く小気味いい音が響いた。


 その羽の陰で、私は口角を、いつもの三ミリより、ほんの少しだけ深く上げた。


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