第12話
静まり返った庭園に、私の涼やかな声が、よく通った。
「お断りいたしますわ。息が詰まりますもの」
「な……!?」
ジェラルドが、雷に打たれたように固まった。
あの夜のテラスで、彼自身が私を切り捨てるために投げつけた言葉。それを一言一句違えず、完璧な微笑みと一緒に返されたのだ。男の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「い、息が詰まる? 君が、私に?」
「ええ、そうですわ」
扇をゆったり揺らしながら、私は冷ややかに唇の端を持ち上げた。
「五年間、領地の収支が詰まるたびに『将来の侯爵夫人として当然の務め』と書類を押しつけて、帳尻を合わせれば『可愛げがない』と不機嫌になられたのは、どこのどなたでしたかしら。物流の再編も、関税の手続きも、社交の根回しも、すべて私が無償で肩代わりしていたことを、まさか『ご自分の才覚』だと思っていらっしゃいましたの?」
「ぐっ……そ、それは」
「私が組んだ迂回ルートを、ハドソン商会の船に切り替えられたそうですわね。港の使用料が倍になったと、東部の商人の皆様が嘆いておりましたわ」
エレノアの肩が、ぴくりと跳ねる。
「お手紙なら、確かに拝見いたしました。斜め読みしたあと、暖炉にくべましたけれど。薪としては、なかなか優秀でしたわ」
周囲から、押し殺した笑いが漏れた。
「ご自分の無能と怠慢で行き詰まったからと、捨てた女を都合のいい労働力として呼び戻そうなんて。あまりに虫が良すぎましてよ、ジェラルド様」
取り巻く貴族たちの空気が、急速に色を変えていた。領地経営の苦労を知る領主たちや、社交の裏表を知り尽くした夫人たちの目が、同情から、完全な軽蔑に変わっている。
『実務を全部、伯爵令嬢に丸投げしていたのね』
『それを自分の手柄にして、放り出した途端に破綻して泣きつくなんて』
『侯爵家の跡取りとして、あまりに情けないわ』
針の筵に立たされたジェラルドが、恥と恐怖で小刻みに震え、唇をわななかせた。
その時だった。
「な、なんですのよ、その言い草は!!」
キーッ、と鼓膜を裂くような悲鳴を上げて、エレノアがジェラルドの背後から飛び出してきた。ピンクのドレスの裾を自分で踏みつけながら、怒りで真っ赤な顔を私に向けて、指をさす。
「ジェラルド様に捨てられた行き遅れのくせに! ちょっと数字ができるからって、偉そうに上から目線で説教垂れないでくださる!? 所詮、男に逃げられた可愛げのない負け犬じゃないの!」
王家主催の園遊会で、他家の令嬢を「行き遅れ」「負け犬」と罵る。あまりの暴挙に、周囲の貴族たちが一斉に眉をひそめた。
私は眉ひとつ動かさずに、扇を静かに閉じた。
「ハドソン男爵令嬢」
「な、なによ!」
「上位の方に対する礼法の基本も知らず、扇の持ち方も、歩き方も、言葉遣いもなっていない。ジェラルド様の隣で散財を重ねて、領地の赤字を垂れ流すのはご自由ですけれど、社交界の品位まで地に落とすのは、おやめになって」
「なっ……!」
「庇護欲をそそる愛らしさと、ただの無知を、履き違えていらっしゃいますわ。他人を罵る前に、ご自分の足元にある礼儀の欠落を、お恥じになるべきではなくて?」
声は荒らげない。淡々と、完璧な発声で告げた。
十二歳から八年かけて叩き込まれた教養の重みが、エレノアの拙い虚栄心を、粉々に砕いた。
「あ……う……」
言い返す言葉が見つからず、エレノアが口をぱくぱくさせていると、人垣の中から、よく通る女性の声がした。
「ハドソン男爵令嬢。あなたが先日、私のドレスにかけてくださった赤ワインの件ですけれど」
進み出てきたのは、あのサロンで白絹のドレスを汚された、伯爵夫人。扇の陰の目が、少しも笑っていない。
「弁償のお話が、まだでしたわね」
「そ、それはジェラルド様が払うって言いましたもの! ねえ、ジェラルド様!?」
エレノアが振り向く。ジェラルドは答えない。答えられるはずがなかった。
ジェラルドが、すがるように再び私へ手を伸ばした。汚れた指先が、ドレスの裾に触れかけた、その瞬間。
ザッ、と重い軍靴の音がして、私の目の前に、圧倒的な巨躯が立ちはだかった。
「手ぇ引っ込めろ、石頭」
地を這うような低い声。
ルーファスが一歩前に出ただけで、庭園の気温が氷点下まで落ちた気がした。漆黒の礼装に身を包んだ近衛騎士団長。琥珀色の目には、戦場で幾度も敵を退けてきた歴戦の獣の、冷え切った殺気が宿っている。
「ひっ!」
ジェラルドが短く悲鳴を上げて飛びのいた。
「お前、誰の女に触ろうとしてんだ?」
ルーファスは冷ややかに見下ろしたまま、私の肩を抱き寄せた。そして、庭園中の貴族に聞こえる声で、堂々と言い放つ。
「クラウディアは今、俺がいちばん熱烈に求婚している女性だ。お前みたいな無能が、気安く指一本触れていい相手じゃねえんだよ」
息を呑む気配が、庭園中に広がった。
公爵の、公然たる求婚宣言。噂でも、同伴者としての義理でもない。この男が、心の底から私を乞い、誰の手にも渡さないと、社交界全体に宣戦布告したのだ。
「次にクラウディアの前にそのツラを見せたら、クロフォード侯爵家の商取引も、領地物資の通行許可証も、近衛の権限で全部止める。分かったら、その見苦しい連れを連れて、今すぐ俺の視界から消えろ」
その時、人垣が割れた。
「そこまでにしていただこう、公爵閣下」
進み出てきたのは、白髪の男だった。クロフォード侯爵。ジェラルドの父だ。顔は紙のように白く、握りしめた拳が小刻みに震えている。
「ち、父上!」
「黙れ」
侯爵はジェラルドを見もせず、まっすぐ私とルーファスの前で足を止めると、衆目の中で深々と頭を下げた。
「クラウディア嬢。五年にわたる我が愚息の無礼と、数々の尻拭いを、あなたに押しつけてきた不明を、クロフォード侯爵家として、ここに謝罪する」
「……侯爵様、お顔をお上げくださいませ」
「いや。これは当主としてのけじめだ」
私は扇を胸に当てて、静かに答えた。
「侯爵家としてのご謝罪は、確かに承りましたわ。ですが、ジェラルド様ご本人からの謝罪は、結構です」
侯爵は小さく頷いて身を起こすと、初めて息子に目を向けた。親が子に向ける目ではない。
「ジェラルド。貴様を、今日限りで廃嫡する」
「な……父上!? 待ってください、私は嫡男で……」
「嫡男だった者だ。五年も貴様を支えた女性を捨て、今度は公衆の面前で泣いてすがり、連れの女が令嬢を罵っても止めもせず、あまつさえ公爵閣下の逆鱗に触れた。この上クロフォードの名を名乗らせれば、我が家が今日限りで終わる」
「そんな! 父上、私はクロフォード家の……」
「届け出は、今日中に王宮へ出す。荷物をまとめておけ」
淡々とした宣告が、庭園に落ちた。
水を打ったような静けさ。誰も止めない。誰も、庇わない。
「ひ、廃嫡……?」
かすれた声がして、エレノアが一歩、二歩と後ずさりした。
「ちょっと待って。廃嫡って、侯爵夫人になれないってこと? ねえ、ジェラルド様、嘘でしょう?」
「エ、エレノア、違う、これは」
「冗談じゃありませんわ! 侯爵夫人になれないあなたなんて、何の価値もないじゃない!」
エレノアはジェラルドの腕を、汚いものみたいに振り払った。
「三ヶ月ですよ!? 私の三ヶ月を返して! お説教ばかりで、高いドレス一着買えなくて、あげくこれ!? もう結構ですわ! どうぞ勝手に、一人で落ちぶれてくださいな!」
「エレノア、待ってくれ、エレノア!」
「触らないで!」
その時、人垣の外から、青い顔をした小太りの男が駆け込んできた。ハドソン男爵だ。娘の腕をつかんで、まず伯爵夫人に平身低頭する。
「娘が、とんだご無礼を! ドレスの弁償は、ジェラルド様ご本人にご請求ください! 我が男爵家は、今日をもって、クロフォード令息とは一切関係ございません!」
「お父様、離して! 私は悪くないわ! 全部ジェラルド様が!」
金切り声を上げるエレノアを、男爵は引きずるようにして庭園の出口へ連れていった。ピンクのドレスの裾が、石畳の上を引きずられて、泥で汚れていく。
残されたのは、ジェラルド一人だった。
伯爵夫人が冷ややかに告げる。
「弁償のご請求書は、後ほどお屋敷へ。もっとも、そのお屋敷にいつまでおられるのかは、存じませんけれど」
ジェラルドの手から、ワイングラスが滑り落ちた。
石畳に当たって砕け、赤い液体が、彼の靴の上へ広がる。誰も拾わない。誰も、手を貸さない。
彼は、その場に膝をついた。何か言おうとして唇が動く。「クラウディア」という形だけが見えたけれど、声にはならなかった。
楽団が、何事もなかったように次の曲を始めた。
貴族たちが一人、また一人と背を向ける。クロフォード侯爵も、一度も振り返らずに、人混みの中へ消えていった。ガラスの破片は、給仕の手で、ジェラルドの周りだけを避けて掃き清められた。
パチ、パチ、パチ。
静寂の中から、拍手が起こった。それは瞬く間に庭園全体へ広がり、至宝令嬢の鮮やかな幕引きと、若き公爵の覇気を称える熱狂に変わった。
「さすがはクラウディア様! なんと見事な毅然たる態度!」
「ヴァレンタイン公爵閣下のお眼鏡に適うのも当然ですわ!」
賛辞が降り注ぐ。私は完璧な微笑みのまま、優雅に会釈を返した。
けれど、腰を抱くルーファスの掌から伝わる熱に、胸の奥が、苦しいくらい締めつけられていた。
『クラウディアは今、俺がいちばん熱烈に求婚している女性だ』
その声が、耳の奥で何度も繰り返される。大勢の前で、私の名誉を守るために、誰より尊い存在として誇示してくれた。守られるだけの小鳥としてじゃない。対等な相棒として、愛する女として、私を隣に立たせてくれたのだ。
もう、迷いは欠片も残っていなかった。
「……ルーファス」
「ん?」
「帰るわよ。もう十分でしょ」
扇の陰で、唇の端だけを動かして囁く。ルーファスは私を見下ろして、にやりと笑った。
「了解だ、至宝サマ。脱出するぞ」
騒然とする園遊会の会場を抜け出して、待たせていた公爵家の馬車に滑り込む。
「振り返らなかったな」
向かいの席に座ったルーファスが、ぽつりと言った。
「見るものがないもの」
バタン、と扉が閉まり、馬車が王宮の門を出て走り出す。
私は座席にずるずると沈み込んで、息を吐いた。
五年ぶりに、息が全部抜けた。




