第14話
園遊会の翌朝。クロフォード侯爵邸のジェラルドの執務室に、家令の乾いた声が響いていた。
「本日付で、ジェラルド様の継承権は抹消されました。旦那様より、お部屋を明け渡すようにとのことです」
机の上には、今朝の社交界新聞が広げられていた。『園遊会で大波乱! クロフォード侯爵令息、公衆の面前で廃嫡』。踊るような大見出しの下に、見覚えのある自分の名前が、小さな活字で何度も出てくる。
「ま、待て。父上に取り次げ。昨日のあれは、一時の感情で……」
「旦那様は、お会いになりません。お持ちになれるのは、トランク一つ分だけです」
家令は目を合わせなかった。昨日まで「若様」と呼んでいた男が、今日は名前の敬称さえ省いている。
廊下の向こうが騒がしい。覗くと、玄関ホールに人が並んでいた。高級洋服店の使いが、エレノアのドレスの請求書を持って。サロンの伯爵夫人の代理人が、ドレスの弁償の請求書を持って。ハドソン商会の番頭が、港の使用料の未払い分の請求書を持って。いずれも、宛名は「ジェラルド様ご本人」になっていた。
「私が払うのか。この、全額を」
「爵位の継承者でなくなった以上、侯爵家の予備費は使えません。ご自身の財産で、とのことです」
ジェラルドの個人財産は、とうに、エレノアのドレスと宝石に消えていた。
その時、ホールの隅で、侍従たちが囁き合う。
「ハドソン男爵令嬢、あの六十近い子爵の後妻に出されることになりそうだ」
「ああ、借金の肩代わりと引き換えにな。昨日の騒ぎで、他に貰い手がなくなったとか」
ジェラルドは、一拍遅れて、意味を理解した。
後妻。傷物になった娘に、親が持ってくる縁談。かつて、クラウディアの父が口にしていたのと同じ未来が、エレノアに降りてきたのだ。
笑いが、喉から漏れた。止まらなくなった。笑いながら、ジェラルドは廊下の壁に背中を預け、ずるずると座り込んでいく。
父は結局、一度も顔を見せなかった。
三日後、ジェラルドは、一通の辞令を渡された。北の国境に近い、小さな関所の下級書記。「自分の頭で数字を数えろ」。それだけが、父の字で添えられていた。
トランクの底に、見覚えのある紙が一枚混じっているのに気づいたのは、出立の朝だった。
かつて、彼が「当てつけがましい」と放り出した、クラウディアの添削入りの報告書の写し。余白に、几帳面な赤い字で、一行だけ書き添えられている。
『関税の免除枠は、毎年、初秋の月末までに更新申請を。忘れると翌年の関税が倍額になります。ご無理なさらず』
その月末は、とうに過ぎていた。エレノアのドレスを選んで回っていた頃だ。
彼女は五年間、毎日こうして先回りして、手を打ってくれていたのだ。ジェラルドは、それを一度も読まなかった。
紙の上に、ぽたりと水が落ちた。赤い文字が、にじんだ。
玄関前に着いたのは、野菜の樽を積んだ荷馬車だった。北の関所まで乗せてもらえるのは、それしかなかった。
同じ園遊会の翌朝、王都の中央貴族街に佇むアシュトン伯爵邸の前に、ヴァレンタイン公爵家の紋章を刻んだ豪奢な馬車が停まった。
降り立ったのは、仕立てのいい濃紺のドレスをまとった私と、漆黒の上着のルーファス。昨日までの「客分としての一時保護」じゃない。私自身の足で、私自身の未来を勝ち取るために、堂々と実家の門をくぐる。
「緊張してるか、クラウディア」
玄関へ向かう廊下で、隣を歩くルーファスが低く尋ねた。私は小さく鼻を鳴らして、彼の手をぎゅっと握り返した。
「するわけないでしょ。あのお父様の前で、五年間も完璧な娘を演じ抜いたのよ。むしろ、本音を叩きつけられると思ったら清々するわ」
「頼もしいこった。だが、無理に一人で背負うなよ。俺がいるんだからな」
「分かってるわよ」
悪友の頼もしさと、恋人の甘さが混ざった笑顔に、胸の奥がきゅんと鳴った。
通された応接室は、重苦しい沈黙に満ちている。上座の革張りソファに座るお父様は、目の下に濃い隈を作り、苦虫を噛み潰した顔で私たちを迎えた。園遊会の人垣の中で、一部始終を目撃してしまったせいだろう。テーブルには、今朝の社交界新聞が何枚も乱雑に広げてあった。
『園遊会で大波乱! クロフォード侯爵令息、公衆の面前で廃嫡』
『社交界の至宝クラウディア嬢、美しき完全論破!』
『ヴァレンタイン公爵閣下が熱烈求婚宣言! 至宝を射止めた若き覇者』
「……クラウディア。それに、公爵閣下」
お父様は、低く掠れた声を出した。怒り、困惑、隠しきれない動揺が、視線の中で渦を巻いている。
「今朝から、我が家には各方面から手紙と面会の申し込みが山のように届いている。園遊会での大騒動、いったい何の真似だ」
「新聞に書いてある通りですよ、伯爵」
ルーファスが私の手を取ったまま、正面のソファへ優雅に腰を下ろした。一歩も引かない、近衛騎士団長の圧だ。
「ジェラルドの石頭がクラウディアに身勝手な復縁を迫って、自爆した。そして俺が、クラウディアに正式に求婚した。何か問題でも?」
「問題だらけだ!」
お父様がドンとテーブルを叩いた。厳格を絵に描いたような顔が、憤激に歪む。
「我がアシュトン家は、由緒正しいとはいえ、中堅の伯爵家にすぎん! 王家に連なる筆頭武門、ヴァレンタイン公爵家の正夫人など、荷が重すぎるにもほどがある! それに、クロフォード侯爵家との婚約を破談にした直後に公爵家へ嫁ぐなど、『打算で乗り換えた悪女』と、社交界から後ろ指を指されるのがオチだ!」
「誰が後ろ指を指すって?」
ルーファスが冷ややかに眉を上げた。目が、獲物を威嚇する獣のように細められる。
「昨日の園遊会を見ただろう。クロフォードの無能がクラウディアの実務に寄生してたこと、放り出した途端に破綻したことは、社交界の重鎮全員が目撃した。クラウディアの名誉は、傷つくどころか、我が国の至宝としてこれ以上ないほど証明されたんだよ。文句を言う奴がいるなら、俺の前に連れてこい」
「ぐっ……そ、それは」
お父様が言葉に詰まる。権力でも正論でも、ルーファスに敵うはずがない。それでも納得のいかない顔で、今度は私に厳しい視線を向けた。
「クラウディア! お前も何か言ったらどうだ! 幼少より厳しく淑女教育を施して、完璧な娘に育てたはずのお前が、なぜこんな軽挙妄動に走る! 公爵夫人の重責が、どれほどのものか分かっているのか!」
かつての私なら。十五歳のあの日の私なら、きっとここで頭を垂れていた。「申し訳ございません、お父様」と微笑んで、家の体面のために、また誰かの都合のいい型へ自分を押し込めていただろう。
でも、もうそんな生き方は、死んでもごめんだった。
「お父様」
私は背筋を伸ばして、ルーファスの手からそっと自分の手を離した。一歩前に出て、お父様の正面に立つ。
三ミリの微笑みじゃない。氷の薔薇でもない。クラウディア・アシュトンという一人の人間の目で、実の父をまっすぐ見据えた。
「私はもう、お父様の望む『都合のいい完璧な娘』には戻りません」
「な、何だと!?」
「八年です」
静かな声が、応接室の空気を震わせた。
「十二歳で淑女教育を完璧にこなすよう求められてから、八年。十五歳でジェラルド様との婚約を強いられてから、五年。私は一度も弱音を吐かず、伯爵家の体面のために、身を削って完璧を演じ続けてきました」
「そ、それは家門のため、お前の将来のために」
「ええ、家門のためでしたわね。ジェラルド様の無能を裏で支えて、アシュトン領の赤字を埋めるために、私がどれだけの帳簿を夜なべして直したか、お父様は一度でもご覧になりましたか?」
「…………っ」
「ご覧にならなかったでしょう。ただ『完璧にやって当然』と、差し出した結果だけを受け取っていらした。私は、娘としての義務も、貴族としての務めも、とうに果たし終えました」
一言ずつ、事実を並べるたびに、お父様の顔から血の気が引いていく。世間体を何より重んじる人だからこそ、娘がどれほどの貢献をしてきたか、その重みを否定できなかった。
「私は、誰かの期待や理想の型にはまるために結婚するのではありません。ルーファスの隣にいるために、彼の妻になるのです」
「クラウディア……」
背後で、ルーファスが息を詰める気配。私は振り返らず、そのまま最後の引導を渡した。
「公爵夫人としての対外的な公務も、社交の場での振る舞いも、完璧にこなしてみせます。それだけの教養を、私は持っていますから。けれど!」
「け、けれど?」
「屋敷の中での私生活! 部屋着で過ごして、昼まで寝転がって、読書に耽る私のずぼらさには、お父様であっても、金輪際、一切の口出しを許しません!」
「は……!?」
お父様が、あんぐり口を開けて固まった。至宝令嬢として育て上げた娘の口から飛び出した、前代未聞の『ずぼら宣言』。隣でルーファスが「ぶっ」と、必死に笑いを噛み殺している。
「私は、私の自由を愛してくれる男のもとへ嫁ぎます。他人の押しつけで生きる人生は、もうおしまいです。お父様が認めてくださらなくても、私はルーファスと生きますわ」
毅然と言い放って、胸を張った。
応接室に、長い沈黙が落ちた。時計の針が、こちこちと音を刻む。やがてお父様は、深いため息をついて、頭を抱えてソファに沈み込んだ。
「……まったく」
掠れた、疲れきった声だった。
「誰に似たのか。これほど頑固で小生意気な娘に育つとはな」
「お父様に似たのではありませんこと?」
「減らず口を叩くな」
忌々しげに顔を上げ、お父様は私を、それから私の隣に立つルーファスを、じっと見た。その目に、娘を『便利な駒』として見ていた頑固な貴族の傲慢さは、もう残っていなかった。人形のようだった娘が、泣く子も黙る筆頭公爵を従えて、自分の意志で道を切り開いている。完敗を認めたのだと、分かった。
「……公爵閣下」
「なんだ、伯爵」
「この娘は、見ての通り外面だけは完璧ですが、中身はとんでもない我が儘で強情な女ですぞ。後悔しても知りませんからな」
「後悔なんてするわけねえだろ」
ルーファスは不敵に笑って、私の肩を抱き寄せた。
「俺は、その小生意気で我が儘な素顔のお前ごと、ガキの頃から欲しくてたまらなかったんだからな」
「……あっそ」
吐き捨てるように言うと、お父様は引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。両家の、正式な婚約誓約書。
「持っていけ。ただし、社交界で我が家の体面を汚すような真似だけはするな。それから、屋敷の中でのその見苦しいずぼら生活とやらは、私には見せるな。一切口は挟まんから、勝手にするがいい」
改心なんてしていない。相変わらず世間体を気にして、小言の多い頑固親父のままだ。けれどこれは、娘の私生活への干渉を金輪際手放すという、彼なりの最大の譲歩だった。
「……ありがとうございます、お父様」
私はカーテシーではなく、素直に頭を下げた。
勝ち取ったのだ。誰の言いなりでもない、私自身の自由と、いちばん大切な男との未来を。
伯爵邸を辞して、馬車に乗り込んだ途端。
「勝ったわね!」
「ああ、完勝だな」
同時に吹き出して、顔を見合わせて、大笑いした。並んで座った馬車の座席で、ルーファスが私の指に、公爵家に代々伝わるサファイアの婚約指輪を滑り込ませる。ひんやりした金属の冷たさと、それを包む彼の掌の熱。
「これで、もう誰もお前を縛る奴はいねえよ」
「ええ。……ありがとう、ルーファス」
肩を寄せ合って、遠ざかる王都の街並みを眺めた。
サファイアの指輪は、ページをめくる指には、少し重かった。
悪くない重さだ。




